葉桜のひと

堀元 見

葉桜のひと

─春は嫌いだ。ときめくべきじゃない人にまで、ときめいてしまうから。

4月14日。桜は満開を越えて、ずいぶん散り始めている。薄いピンクの花の間には、はっきりと青い若葉が見えるようになっていた。

「もう葉桜になっちゃってますね」

ベストシーズンを逃したことを少し残念に思いながら、私は言った。彼は、少し不思議そうな顔をして応える。

「僕は案外、葉桜が嫌いじゃないですよ。いや、もしかしたら満開の桜よりも好きかもしれない」

ゆっくりとした歩調で進む彼──神田雄一は、心からこの景観を楽しんでいるらしい。桜の季節から若葉の季節に移り変わるほんのわずかな一瞬を、一年間しっかり心に留めておこう、彼の眼差しにはそんな雰囲気がある。

「変わっていますね」

「そうですか?緑と薄紅色の共演というのはとても美しいと思いますよ。みんな、葉桜はシーズン外れのものだという先入観に囚われているだけなんじゃないかな」

その歩調と同じく、彼の口調や物腰はいつも穏やかでゆったりとしている。相手が歳下であろうとも、彼はいつも敬語で丁寧に話す。

まるで葉桜みたいな人だ、と思う。みんなが注目するような派手さはないけれど、穏やかな暖かさと希望に満ちあふれている。

「若菜さんは、葉桜はお嫌いですか?」

「嫌いですね。自分を重ねてしまうから」

気持ちのいい春の日の公園だというのに、私の自嘲グセは変わらない。つくづく、自分が嫌になる。

「……自分を重ねてしまう、というと?」

彼は素直に分からないという顔でこちらを見た。うららかな春の陽気を破壊する暗い説明をすることに対して申し訳ない気持ちになる。

「シーズンを逃した、という意味ですよ。結婚できないアラサー女は、そういうものに自分を重ねてしまうんです。葉桜もそうだし、売れ残ったクリスマスケーキとかも」

彼は、「なるほどそういう意味か」と得心した顔になり、少し考えてからまたこちらを見た。

「若菜さんは全然売れ残りじゃないですよ。29歳なんて女性が一番ステキな年齢じゃないですか。あなたは今も、とてもキレイだ」

年甲斐もなく堂々と言ってのける彼に、不覚にもドキッとした。春の魔力とでも言えばいいのだろうか、好きになってはいけないと分かっているのに、つい彼に心を傾けてしまう。

職場で知り合った男性、神田雄一とのデートは、これで3回目だった。知り合いに見られてはいけないから、毎回少し遠出をして、こそこそと短時間だけの逢瀬を重ねた。

彼と私は、何もかもが違っていた。年齢も14離れていたし、性格も行動力も違った。そして何より、彼には素晴らしい家族がいた。

私と彼とがこっそり会っていることが彼の家族に知られたら、きっと平和が崩壊してしまうだろう。

そんな関係を続けるべきではないし、ましてやこれ以上発展させるべきではない。だから彼に会うのは最後にしようと、今日は決意して来た。

「そんなことを言って哀れな独身女をからかわないで。心にもないことを言ってるんでしょう?」

褒め言葉にちょっと浮足立ってしまった心を落ち着けながら、あえて冷たく言い返す。

「違いますよ。心からそう思っています」

「どうだか。そんなこと誰にでも言ってるんじゃないですか?」

「いいえ。僕が今好きなのは、若菜さんだけです」

彼の真っ直ぐな目が、こちらを見つめている。私は思わず目を逸らし、行き場を失った視線は桜の枝に吸い寄せられていった。

ズルいなと思う。年齢相応の魅力と年齢に合わない魅力が、彼の中には同居している。少年の真っ直ぐさと大人の穏やかさ。彼は両方を備えていた。

「だけど、もしあなたのご家族がこのことを知ったら……」

「確かに今は家族に縛られています。だけど、3年後までには必ず自由になってみせる」

私の発言を途中で遮るように、彼は自分の声をかぶせてきた。その様子は真に迫るものがあり、冗談にはとても見えなかった。

「それ、本気なんですか?」

「本気です。若菜さん、僕はあなたのことが好きなんです。あなたのために、全てを捨てる覚悟がある」

昼下がりの公園。ひっきりなしに桜の花びらが降ってきている。地面には黄色い木漏れ日が差し、酔った花見客の嬌声が遠く聞こえる。

大して暑くもないのに、喉がカラカラに乾いていた。この人は、本気だ。

冗談でもないし、軽薄でもない。覚悟の宿った重い言葉。

「私は……」

思わず何かを言いかけて、言葉に詰まった。私はこの後に、何を続けるつもりだろう?

「あなたのことが好きではない」だろうか。ウソだ。彼のことは尊敬しているし、先ほどの真っ直ぐな言葉にすごく心を惹かれた。多分、彼のことが好きだ。

では、「あなたの家族に悪い」だろうか。3年で家族から離れると彼自身が宣言しているのに?

では、「3年も待てない」だろうか。私はもう既に自分を葉桜に例えて、売れ残っていると自嘲しているのに?

結局、言えることなど何もないのだろう。私は彼に、反論できない。

「3年間、待っていてもらえませんか?」

決して大きくはない声。風の音にかき消されてもおかしくない。だけど彼の声は、妙に力強く私の耳に届いた。

私は今日、彼との関係を終わらせようと決意して、この公園にやってきた。それなのに、私は彼の真逆の提案に乗ろうとしていた。

これだから、春は嫌いだ。咲いた花は散ると分かっているのに、永遠を信じてみたくなる。

「はい。私もあなたのことが、好きです」

ほとんど勢いでこぼれ出た私の本音に、彼の顔が緩む。穏やかな春の日によくなじむ、少年の表情。

「よかった。若菜さんなら、そう言ってもらえると思っていました」

恥ずかしくなって、彼の顔から目を逸らした。

視界の中で、葉桜の緑がやけに鮮烈だ。桜の若葉は旬を過ぎて現れる邪魔者だと思っていたけれど、今はむしろ、薄紅色のキャンバスに描かれた主役みたいに見える。

3年という月日は、それなりに長い。人の心を変えるには十分すぎる長さだから、3年後の約束なんてアテにならない。ましてや、彼の心は私よりもずっと変わりやすいだろう。

それでも、春の陽気に騙されてみようと思った。嫌いだった葉桜を、残り物の象徴から、次の季節への希望だと捉え直してみようと思った。

仮に裏切られてしまっても、どうということはない。花が全て散った後も、桜は青々とした葉をたくさんつけて、立派に生き続けるのだから。

「ねえ、雄一くん」

「なんですか?」

「受験、必ず成功させてね。浪人して一年伸びるとか、嫌だよ」

「成功させますよ。あなたは僕の成績の良さを知ってるでしょ。先生」

そう言うと彼は、いたずらっぽい笑みを浮かべた。芝居がかった仕草。いつも大人びた口調なのに、おどけてみせるときは歳相応の無邪気さを見せる。

神田雄一は15歳の高校一年生。財閥系の名家の一人息子だ。

地元の名士である彼の両親は人格者として名高い。まさに理想の家族で、彼にたっぷりの愛情と、最高の教育を与えて、跡継ぎとしての期待を大いにかけている。

彼はその期待に応えるように、素晴らしい知性と優秀さをいかんなく発露させていた。家庭教師である私の助けなどほとんど必要としない程度には。

彼が唯一両親の期待に応えられないとすれば、女性の趣味だろう。14も歳上の、しがない家庭教師として食いつないでいる女と付き合っていると言ったら、彼の両親はどれほど悲しむだろう。

あの穏やかで立派なご家族は、大いに動揺し、平和は崩壊するだろう。もっと家柄の良いふさわしい女性を探してくる、と言い出すかもしれない。

「明日大学受験が始まっても大丈夫なように、備えてありますよ」

堂々と、彼は言った。すごい自信だ。つくづく私と性格が違うなと思う。

3年後、大学生になった彼を想像してみる。顔立ちに残るあどけなさはすっかりなくなって大人の顔になっているだろう。喋り方や物腰は既に老成されているから、ほとんど変わらないだろうな。

今よりもっと精悍な顔立ちになった彼の隣にいる自分は、想像できなかった。私が変化することと言えば、歳を取ることだけだ。ネガティブな性根も変わらないだろうし、新たな人間的魅力が開花することもない。そんな人間が、家柄にも自信にも知性にも恵まれた彼の隣にいられるだろうか。

またそんなネガティブな考えが首をもたげたので、打ち消すように声を出した。

「頼もしいね。じゃあ3年後を、楽しみにしてるね」

彼の存在が輝かしすぎたり、彼の丁寧な敬語に引っ張られたりして、初めて会った頃から私もいつも敬語で会話してしまっていた。

それを少しでも改めていこうと思う。自分を卑下し続けるのはやめよう。葉桜も、そう悪いものではない。満開の桜と並んでいたって、いいじゃないか。

花見のピークを過ぎた公園で、まばらなビニールシートの端が風に揺れる。

昼から酒を飲む花見客の薄いよそおいは、次の季節の到来を感じさせた。

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