新しきひしゃく

中川 弘

第1話 新しきひしゃく

 まもなく立夏であるというのに、立春の頃の話をさせていただきます。


 秩父の社で、大きな鉄鍋で豆を炒る神事が行われたと、それがニュースになっていたことが思い出されました。


 竹の細い枝でしょうか、それを清め、参拝に来た方が鉄鍋をかき回すのです。

 そして、炒られたその豆は、節分の折に、豆まきの豆として使われるのです。


 ハロウインからクリスマスへ、そして、大晦日のカウントダウンと、派手な師走の行事にうつつを抜かして、一転して、今度は、しっとりとした正月を迎え、過ごしてきた睦月もすでにみそかになってしまいました。 


 ほんに月日の経つのは、光陰矢のごとしではあります。


 一週間後の二月四日には、あの豆を撒いて、厄除けをする節分が行われます。


 昔、娘たちがまだ小さい頃、特に、コアラの国に行ってしまった下の子は、こちらが恥ずかしくなるほどに大きな声を出して、「鬼は外、福は内」と叫んでいました。

 今、ハロウインで仮装し、クリスマスではツリーに飾りをして、大騒ぎする私の幼な子たちは、すっかり豆まきもしなくなりました。

 幼な子の親たちは、それをしてきたのに、どうやら、和物より洋物の祭りの方を好んでいるようで、それも時代のありようだと、そっと受け止めているのです。


 「立春大吉」


 これ、我が宅では、書いて貼ったことはないのですが、いい言葉だと思って、私の記憶にはあるのです。


 立春の前日の節分に、豆撒きをして、厄を払います。

 そして、立春の日に、これからの一年、いい年になるようにと、自らが筆を取り、「立春大吉」と認めるのです。 


 この四文字、不思議な文字であります。


 昔話ではありますが、例のごとく、こんな日には鬼がやってきます。

 あちらこちらで豆を撒かれ、行き場を失った鬼が、それさえもしない緊張感の希薄な家を探して、逃げ込んでくるのです。

 そのような緊張感のない家に入って、一年間、悪さをしようというのです。


 そうなると、頼りにしていた年寄りが亡くなったり、失業して金に苦労したり、そのためか病気になったり、あるいは事故を起こしたり、事故にあったりと、その家ではよくないことが起こります。


 だから、人々は玄関先に「立春大吉」と書いて、それを掲げておくのです。 


 鬼が何気に入ってきました。

 おや、さっき、不吉な文字がチラと見えたがと、鬼は、振り返ります。


 「立春大吉」の文字は、人間にとっては吉でも、鬼にとっては不吉です。


 鬼が振り返ると、そこには、薄くはなっていますが、「立春大吉」の文字が見えます。だから、鬼は、こりゃいかんわい、くわばらくわばらと言って、家を出て行ったのです。


 つまり、「立春大吉」は、裏から見ても、「立春大吉」と読めてしまうのです。

 まことに縁起のいい言葉であったのです。

 

 先日、行きそびれていた神社にお参りに行ってきました。

 でも、あらたまってのお参りではなく、ロードバイクで遠出をした際に、近くを通ったので、お参りをしたという簡素なものです。

 でも、お参りをする以上には、しきたりに沿って、神様に遅れたことを詫び、自分の住所と名前を言って、今年一年、災いに祟りと、それらがなきようお願いをしなくてはなりません。

 まずは、手水舎で手を、しきたりに従って清めます。


 おやっ。

 ひしゃくが新しくなっている、って気づいたのです。

 プラスチックではありません。檜のわっぱに檜の棒を挿した本格的なひしゃくです。

 いい香りがしています。

 これで手を洗い、口をすすぎ、身を清めます。 

 霊験新たかとは、まさにこういうひしゃくでこそなし得るものだと一人悦に入ります。 


 道具というのは、手の延長です。

 手の仕草を見て、人は道具を作ってきたのです。

 ひしゃくは、水を掬い、水をそこに留め置き、私たち人間に清らかな清めの水を与えてくれるのです。


 そんな時です。

 昔、覚えた一首が頭の中に浮かんできたのです。


  袖ひちて むすびし水の こほれるを 春立つけふの 風やとくらむ


 この歌、存外、厄介なのです。


 「春立つけふ」は、さほどではありません。「立春の今日」という意味ですが、「ひち」「むすび」「とく」という、三つの動詞が厄介なのです。


 現代人があまり使わなくなった動詞ですから。

 「ひち」は、ぐっしょりと濡れるという意味です。

 「むすぶ」は、「結ぶ」ではなく「掬ぶ」の方で、両手でものをすくい取るという意味です。

 「とく」は、固形物を溶かす、つまり、凍っていたの氷を溶かすということです。

 

 あの夏の日、袖を濡らしてすくった水も、冬には凍っていたに違いない、それを今日の立春の風がとかしているだろうか、なんていう意味です。


 思いかげない日の、しかも、ついでのことでの参拝に、土地神は私に施しを下さったのだと、私、勝手に解釈したのです。


 新しき ひしゃくが我に 与えしは かすかに匂う 春の息吹か


 そんな言葉を、私は住所氏名とともに、捧げてきたのでした。


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