片重い

光田寿

第1話

 はるかの様子がおかしい。お前がそう気づいたのは朝食時だ。いつもなら、お前は目玉焼きは絶対に醤油派と決めている。はるかもそのことを知っているはずなのに、いきなりウスターソースを黄身の部分にたらした。

「あららぁ~~はるかちゃんうっかりですか~」

「あ、あっ! いけない。そうだね、そうだったよね。ごめん、久君ひさくん。お醤油だったね」

 焦ったはるかの顔も良いな。お前はこれくらいのことで怒る人間では無い。逆に言えばプライドが低いのかもしれないが、たまには西洋風で温かいご飯を食べるのも悪くは無い。

「久君、今日は病院の日だったよね」

「そうですよぉ~~、病院前に大宮LIBROで本を買ってくるからね。また二人で本の感想言い合おう」

「うん、楽しみだね」

 せっかくの休日だというのに、はるかと一緒の時間を過ごせないのが勿体無い。はるかとは職場結婚だった。お互いが昔はゲーム会社で働いていた。お前はデザイナー、はるかはプログラマーとして。結婚を機に、はるかは寿退社。頃合ころあい良く、お前もチーフになり、給料もグンと上がった。しかしその分、二人でいる時間が減った。

 二人での生活も既に一年目。はるかも元々、お前の忙しさを知っているためか、二人きりの時間が短いにも関わらず文句一ついわない。それどころか、お前に合わせてくれている始末だ。ドアを開けようとしたら、はるかが可愛い唇をこちらに尖らせていた。お前は少々恥ずかしくなる。

「ひーさ君! いってきまっチュのチュゥ~」

「う、うん。チュゥ~」

 熱い抱擁ほうようよりも、軽い口付けで分かり合える。お前はニコリと笑い、ドアを閉めた。


 * *


 貴方あなたは少々戸惑っている。結婚して一年経つというのに、まだ子供が出来ないからだ。生活はうまくいっている。今朝も温かい手料理だった。目玉焼きは、貴方が昔から一番好きな料理だ。半熟では無く、少々固めが好み。横には千切りキャベツと、ポテトサラダ。パン派では無く、白いご飯、ワカメと豆腐の味噌汁。貧乏だった頃の貴方は、いつもどんぶりご飯の上にキャベツと目玉焼きを乗せ、ウスターソースをかけ、かき混ぜて食べていた。

「下品だし貧乏飯だけど頼もしい料理だから、俺はこれでいいんだ!」

 あの時代、貴方はいつもそう笑っていた。貴方だけは理解をしてくれていた。

 

 * *


「予約の時間より、少々遅かったですね」

 お前の前に座る医師の船橋が言う。

「すみません。大宮駅東口で、何か宗教関連の殺人事件があったらしくて……その混雑で電車が遅れてしまいまして……」

「ほぉほぉ。それは大変でしたね。ところで……どうですか、調子は?」

「はい、最近は至って良好です。私の……妻も……献身的に尽くしてくれています」

 そう言いながらも、お前は目の前にいる船橋と目を合わせることが出来ない。オドオドしながらも、目は部屋の隅を見たり、窓際の観葉植物を見たりと眼球がせわしなく動く。

 船橋はそんなお前を見ながら少々残念そうな顔をしている。

「スティーヴンソンの『ジキル博士とハイド氏』の物語はご存知ですか?」

 船橋の唐突な質問にお前はビクリとする。イスがガタリと動く音が耳に届く。

「小学校の頃、ポプラ社から出ていた子供用のやつを読んだだけです」

解離性同一性障害かいりせいどういつせいしょうがいなどを題材に扱った物語は今では珍しく無くなりましたが。いやぁ、私はね、最初にあの物語を読んだ時は衝撃でした。子供の頃に読んで怖くて眠れなくなったくちでしてね」

 お前は船橋が何を言いたいのかよく分からない。

「まぁ、ネタばらしをしてしまえば、ジキル博士=ハイド氏の二重人格だったという単純な話なのですがね……。私も医者になってあんな妙な嘘話は無かったと思いましたよ。我々、医学界の視点からしてみれば、一人の体の中にたった二人の人格ってのもおかしいんですから。多重人格障害なんて名称も小説やテレビなどで深く知れ渡ってしまいましたが、病名としては解離性同一性障害と呼んでほしいのが医学者からのささやかなお願いですよ」

「そう……ですか」

 そっとお前の顔を観察する船橋。何を言いたいのか分からない状況にお前は戸惑っている。

「しかし、まぁいいでしょう。ここからはある精神科医の戯言としてお付き合いください。これをさっきの小説の人称の話に当てはめてみましょう。二人称という記述形式はご存知ですか?」

 推理小説を読み、はるかと感想を言い合うお前には簡単なことだ。

「はい、『私』や『僕』などの一人称や、名詞で表記する三人称と違って、『君』や『貴方』みたいに語りかけてくる記述方式でしょう。最近で言えば重松清しげまつきよしの『疾走』を読みました。あと、ついこの間は都筑道夫つづきみちおの『やぶにらみの時計』も。あの……妻と……感想を言い合うために」

 お前は少しだけ照れくさくなり、同時に後ろめたくもなる。忙しく動いていた目を指でさすり休める。船橋が続ける。

「そうですそうです。ではその二人称を――あえて、こう言わせてもらいますが二重人格障害に当てはめると、中々面白い事を想像してしまいましてね。先ほどのジキルとハイドの例を出していうと、ジキルという人格が表に出ているときはハイドが『お前』という人称を使い、ハイドが表に出ているときはジキルが『貴方』なんて人称を使って、それぞれが、?」

「先生は……一体……何が言いたいのですか?」

「多重人格の場合、個々の人格のコミュニケーションは存在しなければ記憶も共有出来ない。では人格の共有は無理でも別人格への語りかけはどうでしょうね? もちろん語りかける側の人格は記憶を持たない。それこそ、まさに『お前』や『貴方』といった二人称記述のようにね」

 二人称記述の中には思考も、想像も無い。

 船橋の問いかけに、

 お前は――


 * *


 貴方は――


 * *


 少し背筋が凍る思いがする。

「あぁー、いやいや、単なる人格障害への思考実験しこうじっけんと思ってくれれば結構。申し訳ない。貴方にこの様な話を聞かせたのは悪かったですな」

 お前は目の前の男が怖くなる。暖房のせいか、背中に服がじっとりとはりつく。額に汗もかいている。

「お薬は、いつも通りで大丈夫ですね」

 もはやお前の耳に船橋の声は聞こえなくなっているのかもしれない。ジキルとハイド、そして二人称記述の話がずっと頭の中で響いている。女性のジキルが男性のハイドに恋をしていたとすれば?


 * *


 貴方の耳に医師の声は聞こえていない。ハイド氏が男性でジキル博士が女性。お互いがお互いに恋をしているとすれば?


 * *


 お前にとってそれは――


 * *


 貴方にとってそんなものは――


 * *


 永遠の片想いではあるまいか。


 * * *


「あ、おかえりなさい~久君、ムチュゥ~」

 病院から帰宅し、ドアを開けるなり、はるかの唇が迫ってきた。

「ごめん、今日は……そんな気分じゃないんだ。あ、はるか。もし次に目玉焼きを作るときはね、ケチャップで頼むよ」

 は彼女にそう言い放った。


 <了>





【参考文献】

○船橋浩司「Sunny Day Sunday!」

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片重い 光田寿 @mitsuda

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