八月、三角関係同好会

 夏目漱石の『こころ』。

 ふと読み返したくなり、図書館の文庫棚を眺めていると声をかけられた。

「ひさしぶり、ね」

 そう言った女は、輝くような笑顔だった。


「帰ってたのね」

「ま、お盆だから」

『こころ』を借りて、図書館から出て、そのまま帰ろうとしたら彼女が付いてくると言ったので、仕方なく家に入れることにしたのだが。

 正直に言おう。

 わたしは彼女と会いたくなかった。苦手、とかそういう話ではない。

「なっちゃんは元気してるの」

「相変わらず、よ」

「まだ付き合ってる」

「当然。順調です」

「そっかー。もしうまくいってないなら連れて帰っちゃおうかなと思ったんだけど」

「やめてよ縁起でもない」

 目の前の女はほんのりと透けていて。

 確かにあの日、わたしが殺したはずなのだ。


 彼女はわたしの部屋で行儀良く座ってはいるものの、好奇心を隠しきれない様子で、ちょっとキッチンにでも離れようものならエロ本とか下着とか漁りそうな、不躾な空気と裏付けのない不敵さのようなものを発していた。

「ねえ、ねえ」

「何よ」

「飲み物とか無いの」

「ユーレイのくせに何言ってんの」

「きみはお供え物という概念を知らんのかね」

 何キャラだよ。

「何、本当に飲むの」

「だからそう言ってんじゃん」

 お前の家か、とばかりにくつろいでいる彼女に、そもそもなんで連れ帰ってしまったのだろう、と後悔するももう遅い。

「わかった、わかった。じゃ何飲むの」

「ビール」

 即答かよ。

 この女。

「盆休みとはいえ、昼間から、ビールねえ」

「おばけにゃ関係ない、ですよ」

 だから何キャラだよ。

「発泡酒しかないわよ」

「えー」

「死人らしく、おとなしくしてなさい」

 二重の意味でクギを差し、冷蔵庫へと向かう。最近ちょっと流行ってる気がする、ベルギービールに似せたような発泡酒を取り出す。これだって、この女には勿体ないぐらいなのだが。

 かしゅ、と音を立てて缶を開け、彼女の前に置く。

 テーブルの逆端にもう一缶置くと、あてつけるように手を合わせる。

「信心深くてよろしい」

 気にしてないし。

「っていうかさ、ほんとはビールもあるんじゃないの」

 バラエティ番組なんかで時折見かける冷蔵庫の中身チェック。彼女の目が同じことをさせろと雄弁を通り越してまくし立てるように光っている。

「ないない。あったらあんたの目の前でわたしだけ飲んでる」

「ちょっとそれはないんじゃないの」

 わたしを殺しておいて。

 その一言で一瞬、わたしの手元が止まる。すぐにまた、かしゅっと音が鳴る。

「再会に」

「かんぱーい」

 とは言うものの、実際に乾杯できるわけではなく、わたしが彼女の目の前の缶に手元の缶を軽く触れさせる。泡の傾く音がする。

 手元の発泡酒をぐっ、と飲む。釈然としない味がしてとても美味しい。安酒はそういうもの、だとわたしは思っている。

 目の前の彼女はといえば、ただ満足そうな表情をして座っている。何もせずに缶の中身が空いてるとか、そういうのかもしれないが、確認する気にはなれない。

「昼間から、酒かあ……」

 繰り返すわたしを慰める彼女の言葉は適当だ。

「盆だよ、甲子園観ながらビール、とか鉄板じゃん」

「そういうものかしら」

「そういうものです」

 おもむろに彼女はわたしの元へと身を乗り出してきて、耳に触れる。

 触れられた。

 冷たい、というよりも、ひんやり心地よい、なんて思ってしまったりして。

「お酒、相変わらず弱いんだ」

 赤い。

「ねえ」

 近い。

「わたし、貴女のことも嫌いじゃなかったんだよ」

 黙って殺されてあげる、ぐらいには。

 触れられる。

 耳を。

 肩を。

 腰を。

 髪を。

 わたしは、何も言えなかった、のか、言わなかったのか、わからない。

 されるがままにしていた。

 彼女が触れようともしなかった缶のことなんか、考えていた。


 突如、がちゃり、と扉が開く音がした。

 ナツだ。しかし、今はまずい。いかにもまずい。

 只今ユーレイに押し倒されてます、気持ちまで金縛りみたい、なんて言えるか。 

「ただいまー、あ、いいねわたしも飲みたいなー」

 ってあれ。

「え、なんで透けてんの。っていうか死んだんじゃなかったの。なんでゆーちゃんに乗っかってんの」

 霊感ゼロで見えなきゃいいけど、という一縷の望みは絶たれた。そりゃそうだ。わたしだって彼女と会うまでそんな経験は一つも無かった。霊感ゼロでも見えるような女だ、あれは。

「おー、なっちゃん。久しぶり。盆だから帰って来ちゃった」

「そっかそっか、久しぶり。で」

 とりあえず、続けて、と一言。

「えー、せっかくだからなっちゃんも混ざりなよ。天国に連れてってあげるよ」

「オヤジめ」

「っていうか、連れてかれるのは三途の川じゃない」

 ナツは少しばかり迷うような表情を見せたあとで、いいや、と言って冷蔵庫へ向かった。

「わたしもお酒飲もう」

 そして出してきたのはとっておきのビールだ。

「あ、ビールは無いって言ってたじゃん」

「わたしの分は、ね。ナツの勝手に開けたら怒られるじゃない」

「あー、いいからいいから。なんなら後で一缶あげてもいいよ」

 ナツはわりと上機嫌で鼻歌をひとつ。

「でさ、ほら、続けなよ」

「えっと、これはね」

「甲子園の替わりにさせてもらうからさー」

「オヤジめ」

 ってあれ。

 これ、引き続き、わたしが。

「よし、じゃあ、遠慮なく」

 ああ。


 正直に言ってしまうと、わたしはこの手の快楽に弱い。それはいつもならナツの手によるものなのだが、今日のナツは観てる。

 そう、観ている。

 わたしの上にのしかかる冷たい感触。でもそこには何も無くて。ひんやりと冷たい空気にやんわりと押し潰されているような、冷蔵庫の中に放り込んだ真綿で撫で上げられるような。

 彼女が巧いのか、ユーレイ特有のものなのかはわからない。しかし、きっとこの快楽は彼女でしか得られないものだ、と直感が告げる。

 溺れる。

 それはやっぱり、ナツが言ったみたいに、三途の川、なんだろうか。こんな、心とろかすような快楽を知ってしまえば、わたしはきっと天国には行けなくなる。

 ねえ、ナツ。

 観てないで、教えて。

 わたしと、地獄まで付き合ってくれる。

 ねえ。そして。

 お願いだから、気付かないで。

 彼女を殺したのが、わたしだって。


 彼女はひんやりと心地よい。でもやっぱりわたしには、ナツの体温が必要なんだ。それは三途の川で掴んだ藁のように、ささやかな想い、だろう。それでも。

「ナツ」

 その時わたしが、どんな表情をしていたのかはわからない。きっと、とても人に見せられないような顔をしていただろうとは思う。

 ナツ、以外には。

「ねえ、なっちゃん」

 彼女は言う。

「この子、連れ帰っていい」

 ナツは笑いながら返す。

「いいわけないじゃない」

 ひとりで帰りなさい、と言うその目だけは笑っていなくて。

 好き。


「じゃ、次はお彼岸にでも」

「もう来ないでよ」

「わたしは、別にいいよ」

「ちょっと、ナツ」

「だって、寂しいでしょ」

「わたしは、別に」

「ひとりよりは、ふたり、ね」

 思わせぶりにそう言ったナツは穏やかに微笑んでいて。

 ああ、だめだ。全部、お見通し。

 わたしはナツに殺されるのかな。

 そうだったら、いいのにな。

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