七月、冷やし中華の始めどき

 まずい、と一言。

 それはもう彼女の口癖のようなもの、というか、この店で必ず発するものだ。

 ラーメン屋での修行から、自分の店を開いて一年ほど経つけれど、そして嬉しいことに取材にも恵まれるぐらいには繁盛し始めたのだけれど、いつまでも彼女は「おいしい」と言ってくれない。くれる気がしない。

「またダメかー」

「ダメかー、じゃないでしょ。お客様に失礼だと思わないの」

「まったく面目ない」

「なら」

「でもね、この味がいい、って人もいるんだから」

 遮って、反論を試みる。

「物珍しいからでしょ。現に季節限定のメニューばかり出るくせに」

「それは、そうだけど」

 今日はいつもより彼女の当たりが強い。機嫌が悪いのかもしれない。

「いい、ラーメン屋は、基本のラーメンが一番美味しくないとダメなの」

 彼女のいつもの、というかいつもの中の三割ぐらいの発言はこういった説教で構成されていて、いつもいつもやり込められてしまうのだ。

「精進します」

「ならよし」

 そうは言いつつも、彼女はきちんとスープまで飲みきって「ごちそうさま」と小さく呟く。女性向け、を意識しているからあっさりしたものではあるけれど、それはそれとしてラーメンなのだから、完食してしまうと色々まずいのではと思う。

 嬉しいけど。

 なんだかんだ、よく来てくれて、文句を言いながらもラーメンを完食していく彼女。友人付き合いが続いてそこそこになるけれど、小言が多いのを除けば、いや、もしかしたらそれすらも心地いいかな、と思えるぐらいには仲良しだ。

「ねえ」

「わかりましたから、精進しますって」

「そうじゃなくて」

 彼女が珍しく、食べ終えた後も帰らずに言葉を続けた。

「遊びに行かない」

「めずらし。いいよ、っと」

 彼女が食べた皿をカウンター越しに受け取りながら、定休日ならね、と付け加える。

 次の定休日は三日後。


 いい天気だ。

 いつもの喫茶店で待ち合わせる。先に来たのは彼女の方で、いつでも彼女は時間厳守、よりも早く来ていて、真面目なのか、神経質なのか、その辺のさじ加減を見極めるには微妙なところだなあ、なんてことを考えたりする。

 この喫茶店には学生の頃から来ているのだけれど、彼女は当時からファストフード店に入るのを嫌っていて、だからあんまり友達も増えなかったのだけれど、ともかくその数少ない友達とは必ずこの喫茶店に入っていて、いつの間にかその少数は常連になってしまった。

 普通の、昔からある喫茶店だ。

 この店のコーヒーがおいしい、ということに気付いたのは大人になってから。そもそも若い頃の自分にはコーヒーの味なんてたぶんわかっていなくて、他の友達も無遠慮に砂糖だのミルクだのをぶちこんで飲んでいた。

 今となっては飲食業者のはしくれ、コーヒーの味もそれなりにはわかるしブラックでも飲める。だからといってラーメンの味の何に影響するのか、と言われると答えづらいところではあるのだけど。

 彼女だけがブラックだった。よく他の店にも行ったけれど、彼女がブラック以外でコーヒーを飲んでいるのを見たことがない。だからという訳じゃないけれど、彼女はとてもクールに見える。というか、『ブラックでしかコーヒーを飲まない』がクールに見えるって何だ、お子さまか。いや、学生の頃はそうだったかもしれない。あの年頃の自分はそういった細かい事柄に大人っぽさを感じたりしていた。

「待たせたよね、ごめん」

「別に」

 彼女はそっけない。誰に対してもそうだ。だから大体の人は、嫌われてるものだと思ってしまい、距離を置く。それでも根気よく、或いはしつこく、付き合っていれば単に無愛想なだけだとわかる。

「でもあれじゃないの、こんな風に二人で会ってたら彼女さんが嫉妬するんじゃないの」

「別れたわ」

 そう、彼女にはすてきなガールフレンドが居、たのだけど。

「なに、慰めて欲しいの」

「そんなんじゃ、なくて」

「そうなんじゃない。貴女は否定するかもしれないけど、ほら、無意識下とかなんとか」

「そうなのかしらね。じゃ、慰めてよ」

 そう言っていたずらっぽく微笑む彼女はこんな時でも大人の余裕だ。一枚よりは二枚上手、って感じがする。

「ほら、慰めてくれるんじゃないの」

「そうねえ。とりあえず、デートでもするか」

 唐突に言い出してみると、なんだか楽しくなった。彼女も一瞬面食らったようだけれどすぐにいつもの表情に戻る。

「どこに行こうか」

「ここで貴女の愚痴を聞く、っていうのは」

「絶対に嫌」

 さて、どうしたものか。


 今の彼女の状態からするに、どこに行っても文句が炸裂するのは分かり切っていたので、とりあえず映画に連れて行って二時間ほど黙らせた後に食事でもして、会話で鬱憤を晴らしてもらうことにした。

 彼女に何が観たいか訊いてみると、流行りの恋愛映画の名前が挙がる。少し意外に思うけれど、そういえば一緒に映画なんて長いこと観ていない。好みが変わったのかもしれないな、なんてことを思う。

 映画館に行く。チケットを二枚。ああなんか、デートだな、って実感する。魚介のだしと茹でた卵麺の世界に浸かっていた自分には久しぶりの世界。久しぶりに座る劇場のシートは新しいはずなのに懐かしい感じがして、そういやわたし自身、映画を観るのは久しぶりだ。

 映画はとてもシンプルかつ観やすくて、面白かった。そもそも映画自体を観るのが久々だから、というのを差し引いても普通に良い作品だったんじゃないだろうか。

「面白かったー」

「そうね、面白かった」

「どっかお店でも入って話そうか」

「いいわよ」

 まだ食事には早い、ということで甘味処に入ってかき氷でも食べようか、という話になった。

 ふらっと入ったそのお店は『甘味処』というレトロな響きとはまた別の近代西洋的な美的感覚が支配する内装で、彼女は露骨に嫌そうな顔をした。

「え、面白いじゃん」

「ダメなのよ、わたし。『ジャズが流れるソバ屋』みたいなの。タモリか、って思う」

「古風だねえ」

「からかわないでよ。なんか、苦手なの。そりゃ、伝統的ならそれでいいの、とかさ、逆に下町っぽい店ってそういうとこ雑じゃない、とか、じゃあそもそも洋食屋とか、それこそ、ラーメン屋とか、何が正解なのかわからないし」

 店内では、最近流行りの海外ドラマで使われた80年代の洋楽ヒット曲が流れ続けている。

「でもやっぱり、あなたのところのラーメンは何食べても珍しいだけ、としか思えないし」

 うわ、こっちに飛んできた。

「だけど貴女はちゃんとやっていけてるし、あの子もいつもおいしい、って言って食べてたし」

 あれ、なんだか良くない方を向いてしまった、ような。

「何が正しいのかわからなくなってきたの」

 彼女は今にも泣き出さんばかりだ。完全に店の選択をミスった。彼女がここまで気にしているとは。

 いや、どのみち早かれ遅かれこうなったんだと思う。これは彼女の本音で、これを引き出すのが多分わたしの役割だったのだ。

「ほら、ほら。落ち着いて。かき氷来たよ。抹茶だよ。わたしのキャラメル味も一口いいよ」

「何よキャラメル味ってえ」

 あ。


 件のかき氷は台湾風、だったか何かの、氷そのものがミルクで出来ているふわふわなやつで、すごく美味しかったんだけど向かいの彼女はたぶんそれどころじゃなくて、こんな時でも冷静に美味しいとか思えちゃうのって不義理かなー、とかそんなことをぼんやり考えていた。

「とりあえず、さ。店においでよ。何か食べようよ」 

「変なのじゃないなら」

「貴女の言う『変なの』を作るには色々準備が必要なの」

 というわけで、結局最後はいつも通り、店のカウンター越しに麺を茹でるわたしとそれを待つ彼女、という図式になってしまった。

 とはいえ店は閉めっぱなし。ちゃんと入口に『本日休業』の札もかけてある。だからなんだか不思議な感じもするけれど。

「ほら、これ食べて元気出しなよ」

 冷やし中華をカウンターに出す。前の店で習ったものに自分なりのアレンジを加えてはいるけれど、基本的には何の変哲もない、ごく普通のものだ。

「店で出すのとはちょっと違うし、まかないみたいなもんだけどさ」

「ありがと」

 わたしの分もカウンターに置いて、彼女の隣に座る。普段はやらないけど、こうすると店主じゃなくて客になったみたいで不思議な感じだ。

 しばらく無言で、麺をすする音だけが店内に響く。

「おいしい」

 ぼそっ、と呟くようなその言葉にどういった感慨が込められていたか、なんてことはわからないけれど。

「そっか」

「ラーメンもこのぐらいおいしければいいのに」

「だから、精進しますって」

 いい加減に夏だ。

 そろそろ、冷やし中華始めますか。 


「今度は冷やし中華ばっかり人気になったりして」

「勘弁して」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る