10、親友という名の悪夢

 背後から、声。感情のこもらないその声は、色々と動揺していた事もあって女の声である事ぐらいしか分からなかった。


 落ち着け、落ち着け。これはチャンスだ。このおかしな状況から抜け出すきっかけになるかもしれない。チャンスなんだ。


 努めて冷静に、けれど隠しきれない心臓の音に急かされるように。私は、ゆっくりと振り向いた。


「……え? まい、か……?」


 準備室の入り口に立っていたのは、私の良く知る友人、鈴藤舞花だった。


 薄く笑みを湛えた小動物のような童顔、見慣れた茶髪。相変わらず薄暗い世界ではあるけれど、見間違えようがない。


 何故? どうして? いつからそこに? 湧き上がる疑問は幾つもあったけど、それら全てを帳消しにして余りある程、見慣れた舞花の姿は私を安心させた。


「ねぇ、どこにもいないの」


 けど、私を包み込んだ安堵感は、一瞬の内に霧散した。


 感情のこもらない、舞花らしくも無い声。駆け寄ろうと踏み出した足が止まってしまうくらいには、それは私にとって〝異常〟だったのだ。


「……何の、話……?」

「律なら知ってるでしょ? ほら、早く教えてよ」


 薄い笑みを貼り付けたまま、舞花は言う。


 もはやその笑みすらも私の安心を誘うモノから、ただただ不気味さを振りまくだけのモノに成り下がっていた。


「ねぇ、舞花……分かんないよ。私が、何を知ってるの……?」

「しらばっくれないでよ。ウチ、氷雨君に会いたいだけなんだから」

「っ……!」


 がん! と頭を横から殴り飛ばされたような。ぐらりと傾ぐ視界の中、私はただただ倒れないように足を踏ん張った。


「律、知ってるよね。だってあの日、氷雨君と一緒にいたんでしょ? ねぇ、氷雨君は、どこ?」

「ま、舞花……」


「ウチ、氷雨君に言わなきゃいけない事があるの。このまま何も言えないままなんて、ウチ、イヤだよ」

「…………やめて……」


 淡々と、澱みなく。もはや、呪詛のよう。


 小学5年の夏休みのあの日。ヒサ君が亡くなってから、私は一度もあの絵画教室に行っていない。ただ、絵画教室の先生が私を心配して尋ねて来てくれた時、舞花が誰よりもヒサ君の死を悲しんでいた、とちらっと聞かされた。


 舞花はヒサ君の事が、好きだったから。


 私は舞花本人の口からそれを聞いていたし、夏休みの間に告白するつもりだというのも知っていた。居た堪れなくて、申し訳なかった。


 だから、舞花と中学で再会してから今まで、私はヒサ君の名前だけは絶対に出さないように心掛けてきた。舞花の為に、そして私自身の為に。


 今目の前で起きているのは、私がずっと恐れ続けて来た事。


 目を背けたい現実が、言葉の刃となって私に牙を剥く。


(ごめん……ホントに、ごめんね)


 舞花の様子がおかしい。そもそもこの場所、状況がおかしい。


 そんな事、知ってる。分かってるよ。


 でも、逃げるわけにはいかないんだ。これが夢であろうと現実だろうと。


「舞花」


 壊れた人形のようにヒサ君の居場所を尋ね続ける親友をまっすぐ見つめ、覚悟を決めて絞り出した声。舞花はようやく呪詛を止めた。


「何? やっと教えてくれるの?」

「もう、ヒサ君には会えない。ヒサ君はもう、死んじゃったんだよ……!」


 舞花の表情が、少しだけ動いた。驚きか、悲しみか、あるいは怒りか。


 そして私は、すぐに悟った。そのどれでもない、と。


「氷雨君が、死んだ? どうして?」


 恐ろしい程に平板な声。感情なんて、一つも感じられない。


「……丘の上から、落ちちゃったんだよ。救急車が駆けつけた時にはまだ生きてたけど、間に合わなかったんだ」

「丘? 丘って、どこの?」

「私が偶然見つけたとこなの。あの日、私がヒサ君とシグ君を誘ってそこに行って、そこで……」


 ずぎりずぎり、とやりきれない痛みが、一言一言を投げかけるたびに私の心を苛む。


 舞花は、何も言わない。何を考えてるのかも全く分からない。ただ、無感情な笑みで私を見つめ続けている。


 これは、私の罰だ。私が誘わなければ、ヒサ君が死ぬ事も無かった。私は、逃げるわけにはいかないんだ……!


「じゃあさ」


 舞花が、言う。


「律のせいで、氷雨君は死んだんだね」

「……っ」


 かつん、と。舞花の靴音が、ゆっくりと近づく。私は動けない。


「ウチさ、知ってたよ? 氷雨君がウチの事を好きじゃない事ぐらい」


 舞花の瞳から、雫が零れ落ちる。その色は、赤かった。


 血……じゃない。多分あれも、絵の具だ。何故かそう確信できた。


「だからさ、別に振り向いてくれなくても良かった。氷雨君はきっとウチを優しく拒絶して、友達でいよう、って言ってくれるって。そう思えたから、ウチもフラれるのを覚悟で告白しようと思ったの」


 絵の具の涙が頬を伝い、ぴちゃり、と滴り落ちる。鮮やかに、だからこそ不気味に。


 私はその光景の異常さに気付きながらも、それでも舞花から逃げる気にはなれなかった。全て見届けろ、って心の中で誰かがずっと叫んでいたから。


 舞花は私の前で立ち止まった。絵の具の涙を拭うように、両手で顔を覆った。


「ウチはそれで良かった。氷雨君が好きな人と一緒にいて笑うのなら、ウチも笑ってそれを祝福したかった……なのに。なのにぃ!」


 突如、声に感情が宿る。舞花は絵の具で濡れた両手で髪を掻き毟った。茶髪が赤で彩られ、乱れた髪が舞花の心の内の激情を体現する。


「もう氷雨君は笑わない。笑えない! 何で? ねぇ、何でぇ!?」

「…………それは……、っ」


 私のせい。震える声で言いかけた私の喉を、舞花の両手が締め上げる。


 小柄な舞花らしからぬ力。ようやく体が抵抗しようとしたけれど、もう遅かった。


 為すすべもなく壁に叩きつけられる。その拍子に私の制服の上着から何かが零れ落ちたけど、それを気にする余裕すらもない。


「律は後から絵画教室に来たくせにウチより氷雨君と仲良くなって、氷雨君を殺した! 律なんか、いなければ良かったんだ!」

「やめ、て……まい」

「死んで。ねぇ、死んで! 死んで氷雨君に謝って! 殺してごめんなさいって!」

「おねが……ゆる、し……ま、か……!」


 ひゅー、ひゅー、と掠れた息に紛れて懇願するも、舞花は血走った瞳で私を睨み付け、呪詛を叩きつけるばかり。


 とても正気とは思えない相貌を間近で目の当たりにして、思った。


 殺される、って。


(……でも)


 それも仕方がないのかな、とも思った。


 だって、確かに私がいなければヒサ君は死ななくて済んだ。舞花が私を恨むのも当然だし、私の口でヒサ君に謝りたいのも本当だし。


 それならもう、このまま死んじゃった方が


「ダメです、諦めては! 心が折れたら、本当に死んでしまいます!」

「…………ぇ?」


 

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