8、いつもと違う夢
ぴちゃん、
――――私の意識は、そんな音によってまどろみから引き摺り出された。
「……あ、れ……?」
もう、朝……? いや、そんなはずない。
私は寝惚け眼をこすり、ゆっくりと体を起こす。違和感にすぐに気付いた。
まず、やけに明るい。カーテンを閉め切って電気も全部消していたので、完全な暗闇だったはずなのに。自分の体がぼんやり見える程度の薄暗闇が辺りを満たしている。
次に、寒い。頭まですっぽりと覆う勢いだった羽毛布団が、影も形も無くなっている…………いやいや、それどころか敷布団とか枕すらなかった。ひんやりとした地面の感触がより一層私の肌を冷やし抜いてくる。
それに、お気に入りのパジャマを着てもいない。寝相が悪い人は寝てる間に素っ裸になったりする事もあるらしいけど……私は何故か、学生服を一式着ていた。
寝る前に解いていた黒髪も当然のようにポニーテールで、靴下どころかスニーカーまで履いている。このまま家を出て登校できるぐらいには準備万端な服装だ。寝相がどう、というレベルじゃない。
「ここ、どこ……?」
結論。何もかもが、おかしい。
ゆっくりと立ち上がり、周りを見回す。けれど、まだこの薄暗闇に慣れていない私の目は、結構広い部屋、という事くらいしか読み取れなかった。
私、ちゃんとベッドで寝たよね? 服も着替えずリビングの床で爆睡、なんて酔い潰れた母さんみたいな事してないよね?
じゃあ、夢? 今朝見たヤツみたいな……、
(……うぅん、違う)
今朝の夢は、ふわふわした感じと言うか、パステルカラーの世界を歩いているような感じだった。それにあれは、私がヒサ君と初めて会った時の情景に似ていた。
ここは、全く違う。暗くて、寒くて、じめじめしていて。ようやく目も慣れてきたので部屋の様子も分かって来たけど……、
ぴちゃん、
「……っ!」
背後からまた聞こえたその音に、ぞわぞわぞわ! と背筋が粟立った。
恐る恐る、振り返る。そこには……、
「っ……、……!?」
思わず、後ずさっていた。
角ばっている大きなテーブルの上を、僅かな明かりを鈍く反射しててらてらと光る赤い液体が這い、テーブルの角からぽたりと床に垂れ落ちていたのだ。
まさか、血? ここって何かの事件の現場……? 緊張に身体が強張る。が、
(……あれ? この匂い、もしかして……)
嗅ぎ慣れた匂いに緊張を少し解され、私はゆっくりと、けれど慎重にテーブルに近づいた。そして、その赤い液体を指先でちょんと触り、
「……やっぱり。絵の具だ、これ」
鼻先で匂いを嗅ぎ、確信する。それはただの赤い絵の具だった。
正確には水で溶いた絵の具、になるのだろうけど。粘り気から考えて、水を少なめにしているのだろうか。
胸を撫で下ろす。私は少しだけ落ち着きを取り戻した頭を二度振り、改めて周りをぐるりと見回した。
やっぱり、広い。私の部屋よりも明らかに大きいし、教室とかよりも大きいだろう。
赤い絵の具で満たされたそのテーブルと同じ形のテーブルがいくつもあり、その上をやはり何かの液体が満たしている。薄暗くてはっきりとは見えないが、どれも違う色を放っているように見えた。
そして、部屋の角の方に置かれたモノ。
(あれ、イーゼル……だよね)
木の棒を組み合わせた簡素な形のそれは、絵を描く時にキャンバスを置く為の台。私には見慣れたものだった。
そして、確信する。
「ここ……もしかして、ウチの高校の美術室……?」
と言っても、私は西塚高校の美術室に足を踏み入れた事は無い。選択授業は音楽にしているので美術の授業は無いし、部活上がりの舞花を待つ時だって中に入る事は一度も無かった。
けど、美術室は芸術棟の三階にあり、二階にある音楽室の真上にある。そして、この部屋は音楽室の間取りと同じらしい。音楽室を見た舞花が、美術室とそっくりだね、と言っていたので間違いない。
「へぇ、こんな感じなんだ……こういう部屋に入るのは小学校以来かな」
そして、思う。すごく殺風景な部屋だな、と。
もっとごたごたと色んなものが置かれているイメージだった。芸術家のアトリエ、みたいな。中にいるだけでわくわくしちゃうような。
まぁ、小学校の美術室……いや、あの頃は図工室だったっけ。その時から、子供の手の届く場所に工具を置くのは危ない、みたいな事を言われてたし、今ではこういう部屋が主流になってるのかも。
と、私は呑気な自分の思考にはっとした。
(いやいや、それどころじゃないし。何でこんなところにいるの? 私は)
寝てる間に連れ去られた? 着替え付きで? ……誰がそんな事するの?
それに仮にここが西塚高校の美術室で間違いなかったとしても、テーブルの上にぶちまけられた絵の具はおかしいにも程がある。
ならやっぱり、夢って事になるのかな。現実的に考えて……現実的な夢って何?
あーもう、訳わかんない。昨日のヒサ君の夢もそうだけど、疲れてるのかな私。
特大の溜息を吐く。が、へこんでいてもしょうがない。とりあえず、さっさとこの不気味な部屋から逃げ出さなくちゃ。私は歩き出す。
音楽室の間取りを思い出しながら、入口のドアがある方へ。そこには、音楽室のドアと全く同じ形をスライド式のドアが佇んでいた。
「んっ……!」
試しに引いてみるけど、動かない。それも、鍵が掛かっている時の何かが引っ掛かってドアが動かない感覚とも違う。取っ手の付いている壁を引いているかのようで、開く気配が微塵も感じられない。
けどまぁ、今私の置かれている状況が〝普通〟じゃない事は何となく分かり始めていたので、とりあえず受け入れる。なら、次。私は窓に向かう。
閉め切られたカーテンの向こうには、一面の闇が広がっていた。
音楽室の真上なら、グラウンドや植え込まれた木が幾つか、確実に見えるはずなのに。月や星も一切見えなくて、ただ暗くて見えないのではなく、本当にこの窓の向こうには何も存在していないのでは、という不安に駆られた。
月明かりも星明りも無い。部屋の電気も着いてない。なのに、仄明るい。それが、無性に怖かった。
一応、窓を開けようとしたけど、開かない。手動の鍵をいくらいじくっても、開かない。うん、まぁそんな気はしてたけどさ。
ガラスなので、窓を割る事くらいは出来るかも……とは思ったが、これが夢じゃない、という可能性も完全になくなったわけじゃない。さすがに学校の窓を叩き割るのは、最後の手段という事にしておこう。よし、次。
あと、この部屋から脱出できそうな場所と言えば、部屋の奥にあるドアくらいかな。私は滴り落ちた絵の具を避けるように美術室の中を蛇行して、奥へと向かった。
音楽室と同じなら、ここは教員用の部屋兼準備室、みたいな部屋になるはずだけど……、
がちゃ、ぎぃぃぃ、
ドアノブを捻ると、ドアは抵抗なく開いた。
ようやくこの部屋を離れる事が出来る、という事に喜んだのも束の間、不安が首をもたげてくる。
得体の知れない何かに、誘い込まれているような気がして。
「……よし、行くよ」
震える手を鼓舞し、更にドアを押し開けていく。ぎぃぃぃ、と軋むような音に合わせて、奥の部屋の全貌が露わになっていく。
やはりここは美術準備室に当たる部屋らしく、雑多なモノが所狭しと置かれていた。それこそ、美術家のアトリエというイメージがぴったりな、私の思う美術室像がそのままそこにある。
鉛筆、筆、絵の具、画用紙、真っ白なキャンバス、といった絵を描くのに必要になる画材や、木造りの棚に乱雑に置かれている、もはや何に利用するモノなのかも分からない道具の数々。
私は一歩、二歩と、準備室に足を踏み入れた。
途端、むわっ、と独特な臭いが鼻を衝く。絵の具が乾いたようなその匂いは、描かれたばかりの絵画が発する特有のものだ。
(……ここ、イヤ)
嗅ぎ慣れた匂いに安堵すると同時、私の心臓を不安が鷲掴む。
見知らぬ場所に戸惑い、通っている高校の一室だと分かって安心した私の心が、動かしがたい事実を理解して警鐘を鳴らし始めたから。
ここは美術室。私が絶対に足を踏み入れない事を決めた、あの美術室なのだ、と。
(夢でもなんでもいい、早くここから)
ばたん! と。
「えっ……!?」
振り向くと、ドアが閉まっていた。慌ててドアノブに飛びついたけど、ドアは一転して全く開く気配が無い。
「出してよ! お願い、出して!」
どん! どん! どん! とドアに何度も拳を叩きつける。何も変わらなかった。ただ、私の手を無駄に痛めつけているだけ。
(……落ち着け、私。取り乱したってしょうがないんだから)
取り乱して何かが変わるなら、何も苦労しない。……あの時だって、私は取り乱すばかりで何も出来なかった。
救急車をもっと早く呼べてたら。あるいは、もっと早く親達に知らせる事が出来ていたら。ヒサ君は、死なずに済んだかもしれないのに。
今私がすべき事は、冷静に現状を把握する事。必死に自分に言い聞かせ、私は振り返る。準備室は、先程と何も変わらずそこにあった。
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