6、母親

「ねぇ律~? 律のクラスはカフェをするんだったわよね~」


 間延びした甘ったるい声がリビングから。私は洗った皿をかちゃりと食器乾燥機に放り込みつつ、次の皿に手を伸ばす。


「それ聞くの何度目? カフェだよ、母さん」

「そっか~。って事は、律もウェイトレスさんの格好とかしちゃうの~?」


「そんな服を買うお金なんてクラスにありません。揃いのTシャツ買って食材とか揃えるだけでカツカツなのに」

「え~残念。律のかわい~い姿が見られると思ってたのにな~」


 しょぼん、という擬音が浮き上がって来そうな程、ソファーに腰かけた母さんの後ろ姿は落胆していた。……ちょっとだけ罪悪感。


「別にいいじゃん、そんなの。料理は美味しいと思うから、食べてってよ?」

「もちろん行くけどさ~、やっぱり可愛い律があってこそだと思うのよね~」

「なにその変な理屈」


 適当な会話をしながら、私はかちゃかちゃと洗い物を続けていく。


 変な木枯らしとの出会いの後、作業を終わらせてそのまま帰宅。今日は母さんが夕食担当だったので、片付けは私がする事になっていた。


 父さんは仕事で夜中に帰宅予定。逆に母さんはこの後夜勤だ。仕事の時間が少し不安定になってから三人で食卓を囲む機会はめっきり減ってしまったけど、別に仲が悪いという事は無い。文化祭当日は二人とも休みを取って見に来る予定だし。


 まぁ、喜ぶべき事なのだろう。というより、喜んで〝いた〟。昨日までは。


(……絶対にメイド服の事は言えない……!)


 そもそもなぜ、母さんがこんなに〝可愛い律〟の姿を所望しているのかと言うと、単純な話。私が一切可愛い系の服、どころかスカートすら学生服以外で履かないからだ。


 母さんとしては、女の子なんだから可愛い服を着せたいみたい。けど、幼稚園の頃から反抗期だったのかな? 私は頑としてそれを受け入れなかったらしい。


 父さんもわりと母さんと似たノリで、可愛い服を着た私を成長記録に残そうとしていた。だから、私がメイドをする、なんて言った日には、嬉々として文化祭に乗り込んでくるに違いない。


 とは言え、二人が文化祭に来る事自体は既に決定事項。私に取り得る抵抗は、私の担当時間外に来させる事ぐらい。くぅ、今から冷や冷やモノだよ……!


「そう言えばさ」


 とっとと文化祭の話から離れなければ。その一念で私が咄嗟に捻り出した話題は、


「この間、シグ君に会ったよ」


 絶対に話題にするべきではない、彼の話だった。


「シグ君って……もしかして、時雨君? 会ったって、どこで?」


 はっとしたけど、もう遅い。母さんの声から呑気な風合いが吹き飛んでいた。私は洗い物の手を止めた。


「……学校で。同じ学校だったみたい」

「そう。確か時雨君の方は学年が一つ上だったっけ。懐かしいわね」


 真剣味を帯びたそれは、怒っているようにも、淡々としているようにも聞こえる。


 でも、違う。母さんは私に最大限、気を遣おうとしている。


 失敗した。失敗した。ホントに、失敗した。


 いつまで親に心配を掛けるつもりなんだ、私は……!


「時雨君は……その、まだ続けてるのかしら」


 言葉を選んだらしきその問いに、私は努めて普通の調子で答えた。


「美術部みたい。舞花と同じだよ」

「そう、舞花ちゃんと……ねぇ、律。一つだけ、訊いていいかな?」

「うん、いいよ」

「もう、絵はいいの?」


 ずきん、と。予想していたので幾分かマシだったけど。それでも、〝絵〟というワードは私の心を乱暴に揺さぶる。


「別に家事とかは気にしなくていいから、今から部活に入ったって」

「今は、いいかな」


 無理だよ、と否定するわけにもいかず。


 大丈夫、と虚勢を張る事も出来ず。


 曖昧な答えで強引に断ち切った自分が、この上なく情けなかった。


「……そう」


 母さんは全て察したようにそれだけ言い、静かに立ち上がった。


「さって、それじゃあ母さんは夜の仕事をお勤めしてまいりますので、毎度の事ながら戸締り、火気の確認などは抜かりなくよろしく~」

「夜の仕事言うな。ただのセルフガソリンスタンドの常駐員でしょーが」


「律はノリが悪いな~。もうちょっとこう、フランクな感じをアバンギャルドに」

「娘をどう育てたいの、ねぇ?」


 そして絶対にアバンギャルドの意味分かってない。たはは、と頬を掻いて笑った母さんは、小さな手荷物を引っ掴んでリビングを出て行った。


 まったく……私は嘆息し、洗い物を再開する。やがて、トイレで水が流れる音、部屋のドアが二度三度開く音、玄関で靴を履く音が聞こえ、


「それじゃ、行ってきますよ~」

「はいはい、行ってらっしゃい」


 いつものように送り出し……もう一度、嘆息。


「……ホント、ただのバカじゃん。私」


 ごめんね、母さん。


 絵を見てるとね、色々考えちゃうんだ。


 私にとって〝絵〟っていうのは、ヒサ君そのものでもあったから。


 ジャー、と水の流れる音と、シンクの中を滑り落ちては消えていく水の流れ。


 どうしようもなく物思いにふけってしまった私が残り数枚の皿を洗い終えたのは、10分後の事だった。

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