3、再会

 どのクラスもわいわいと文化祭の準備で賑やかだ。まぁ、ウチのクラスの異様な熱気に比べたら慎ましやかなものだけど。


 校舎を出た私の肌を一陣の風が撫でる。


 季節は秋。日に日に寒さも厳しくなっていき、私みたいにコートを着ている生徒も多い。


(ふぅ、さっむ。さっさと買い出しして帰ろう)


 練習に励むサッカー部を横目に、足早にグラウンドを迂回して隅にある駐輪場へ。全学年で共用の駐輪場だが、やはり文化祭があるからか、いつもは一人か二人は誰かいるはずなのに、人影がどこにも見当たらない。


 私は少しだけ後ろめたいと言うか、悪い事をしているような気になった。何でお前は文化祭ほったらかして帰ろうとしてるんだ、みたいな。


 そんな思いを振り払い、私は自転車に足を掛け、


「……?」


 サドルに腰を落とすその直前、振り返る。


 誰かに呼ばれたような。そんな気がしたから。


「…………」


 けど、誰もいなかった……いや、正確には、いた。


 五十メートルほど向こう。よっぽど叫ばなければ声が届かないような遠くに、ぽつん、と一人の女子生徒がいたのだ。


 この距離なので顔立ちもはっきりとせず、長い黒髪である事、私も着てる西塚高校の制服に身を包んでいる事、紺色を基調としたそのブレザーの袖に赤いラインがあり、胸元に赤いリボンを付けている事などが辛うじて分かる。


 私の袖にも赤いラインがあり、胸元に赤いリボンを付けている。赤、黄、青の三色で学年を識別しているので、彼女も一年生のはずだ。けど、


(……誰?)


 知らない間にミステリアス化してた事もあり、私には昔から付き合いのある舞花ぐらいしか友達がいなく、同じクラスならまだしも、他クラスともなると知り合いと言える人間すらほぼ皆無。……自分で言ってて悲しくなるけど。


 何にせよ、あんな距離から呼び止めてくるような人はいないはず。どうするべきか分からず、自転車に片足を乗っけたまま固まる私に、その人影は大きく手を振ってきた。


 そして、校舎の方へと消えていく。その後ろ姿にとりあえず小さく手を振ってみたけど、


(いや、ホント誰?)


 雰囲気しか分からなかったけど、会った事が無い人だと思う。多分。


 もしかして、さっき聞いた転校生かな。転入に当たって、学校の見学に来たとか。


 転校生が私に手を振ってくる理由は一つとしてないけど……まぁいいや。考えたって多分答えは出ないだろうし、いったん忘れよう。私は今日、忙しいのだ。


 何の食材をメインに据えた夕食にしようか、その為に安く手に入れるべきモノは何か、もしそれが売り切れていたらどう舵を切り直すか。改めて自転車をこぎ始めた私は、いつもと同じ考えを巡ら


「ごめん、ちょっといいか?」


 せ始めた矢先、今度ははっきりと呼び止める声。


 急停止し、辺りを見回す。ちょうど潜ろうとしていた校門の下。駐輪場と同じく、人影は全くない。


 校門の端っこに寄りかかっているその男子生徒以外は。彼が呼び止めたのは、やはり私で間違いなさそうだ。


 制服の袖には青いライン。二年生だ。


「えぇと……私、ですか?」


 あいにく、一年生ですら知り合いがいないのだ。二年生は言わずもがな。


 普通の部活なら縦の繋がりも出来るだろうけど、帰宅部にそんな上下関係などあるはずもない。結論、呼び止められる筋合いはない。


「ああ、君だ」


 けど彼は、人違いじゃありません? という私の言外の確認をさらりと受け流した。校門から背中を離し、ゆっくりと私に歩み寄って来る。


 先輩相手に失礼だけど、仏頂面、という言葉が良く似合う。茶髪交じりの髪に精悍な顔つきでむしろかっこいいと言っていい風貌だけど、顔をしかめていると言うか、ぶすっとしていると言うか。


 ……二年生に怒られるような事、何かしたっけ。少しだけ緊張した。と、


「……ははっ」


 私の不安を悟ったか、それを拭うように彼が相好を崩した。仏頂面が一気に崩れ、好青年の笑顔を向けてくる……のだけど、それはそれで戸惑う。


「あ、あの、どちらさま、ですか……?」

「新鮮だな、律の敬語は。固い言葉が嫌いだって言ってたのは律自身なのに」

「え……?」


 私の事、知ってる? それも、結構前から?


 私の引っ込み思案な性格は昔からだ。家族を除けば、私を名前で呼ぶような友達なんて、数えるほどしか出来なかった。


 それこそ、舞花と、後は…………あ。


「……もしかして、シグ、君?」


 恐る恐る尋ねると、彼は安堵したように笑みを深くした。


「良かった。もう忘れてるかと思った」

「やっぱり……久しぶり、シグ君」

「ああ、久しぶり」


 秋月時雨あきつきしぐれ。舞花と同じ時期に知り合った、私の数少ない友達の一人。


 そっか、シグ君って私の一つ年上だったっけ。話すのが苦手な私を気遣って砕けた会話をしてくれていたから、すっかり忘れてた。


「同じ高校だなんて、全然知らなかったよ。専門の学校に行ったんだと思ってたし。ホント、驚いた」

「はは……俺は結構前から知ってたよ。部活で舞花から聞いてたから。話しかけるタイミングが無かっただけで」

「舞花が……そっか。シグ君、やっぱり美術部なんだ」

「ああ。律は部活やってないんだっけ?」


 はにかむように笑う。ああ、こうして見ると昔の面影がある、かな。

 背が高くなった。声が低くなった。それに、男らしくなった。


 もう何年も会ってないので、当たり前だ。懐かしさに綻びかけた口元は、


「で、私に何か用?」


 自分でも驚くくらいに冷えた声を吐き出した。


 笑う事は出来ない。彼の前で笑う資格は、私には無い。


 笑顔を引っ込めた私に、シグ君は少しだけ悲しそうな顔になった。


「用、って言うより、お願い、かな」

「……美術部の勧誘だったら、お断りだよ」

「もしそうなら、もっと早い段階でしてるよ。律が美術部に入らない理由くらい、分かってる」


 神妙な顔でシグ君が言う。私は小さく唇を噛みしめた。


「だからこそ、このお願いをするのは心苦しいんだけど……聞いてくれるか?」

「……そんな言い方されたら、聞くしかないじゃん。ずるい」

「はは、ずるいのは昔からだろ? で、これ、なんだけど」


 歯切れ悪く言いながら、シグ君は鞄の中に手を突っ込み、


「それ、もしかして……」


 取り出したのは、クレヨン、だった。それも、幼稚園児が使うような、七つしか色の無い小さな箱。


「ああ……ヒサの使ってたヤツだ」


 どくん、と。その名前を聞いた瞬間、私の心臓が不気味に脈打ち、季節に見合わない汗が額に噴き出す。


 聞きたくなかった。けど、もう遅い。


 その表情、その声、その仕草。記憶の奥底に放り投げ、ガラクタのような記憶で覆い隠したはずのそれが、あっという間に掘り起こされて私の頭を駆け巡る。


「この前、改めて遺品整理をしてる時に見つけた。あれから五年も経ってるのにこんなものが見つかるなんて不思議……律? 大丈夫、か?」


 はっとした。多分私、今ひどい顔をしてた。


「だ、大丈夫。それで?」

「とりあえず俺が預かってたんだけど、父さんも母さんもやっぱり少し辛そうな顔してたからさ。で、良かったら律に貰って欲しいと思って」


「わ、私、が……?」

「ああ。律が持ってくれてたら、ヒサも喜ぶだろうしな」

「………………」


 喜ぶ? ヒサ君が? ……そんな訳、ないじゃん。


 でもそれよりも、シグ君のおじさんとおばさんの事が一番気がかりだった。


 あの時私は、二人に助けて貰った。もう遅いかもしれないけど、少しでも恩返しになるのなら……、


「……うん、いいよ」


 しばらく間を置いて返した私に、シグ君は良かった、と呟く。


「律はやっぱり、優しいな。ありがとう」

「……ん」


 差し出されたクレヨンを受け取る。すっかり冷たくなっていて、私の指の体温がじわじわと奪われていく。


 七色の、クレヨン。ヒサ君が愛用していたクレヨン。もっと色の揃ったクレヨンにすれば? と何度言われても、頑なに使い続けていたクレヨン。


 楽しかった日々が思い出されて、ごめんなさい、と心の中で呟いた。


「用はそれだけなんだ。ごめんな、呼び止めて」

「そう……じゃ、私もう行くね。買い物して帰らなきゃいけないから」


 逃げるように、自転車を押し出す。


「律」


 と、シグ君が私を呼ぶ。私は、振り返らない。


「何?」

「ヒサの事は、律のせいじゃない。何度でも言う、律のせいじゃないんだ」

「……ありがと、シグ君」


 私よりもシグ君の方が優しいじゃん。ホント、変わらない。


 私は自転車をこぎ、行きつけのスーパーに向かう。組立途中の夕飯の献立は木端微塵に壊され、秋風に流されてどこへか消えていた。




 文化祭を目前に控えた秋の日、甘酸っぱい再会が胸を締め付ける。


 これは、私が苦くてほろ甘い思い出と向き合った、不思議な夢のお話。


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