第30話 告白
「俺は恋がなんだかわからなかった」
幾度と人にこの言葉をぶつけてきただろう。そして、何人の人がそれを許容してくれただろう。
母親、父親、角浦その3人のみだ。加えて、その3人は本質的な部分を理解していたかといえばそうでもない。
頭の悪い子のようにとにかく否定的なことは言わないと徹底しているようにしか見えず、愛はあれど感じることはできない。そんな虚しさのある行動だ。
そんなもので満足することができないでいた彼にとって山萩の異常なまでの反応は新鮮であった。ただし、そこには確か敵意があり、近寄ることも拒まれる。ゆえに耐え切れず彼は傷を負った。
「あのとき、たしかに絢奈が俺のことを好いてくれてはいるのに気付いてた。でも、恋が分からない俺にはそれが親友に対する敬愛の証にしか思えなくて、実際、俺はそう感じていて、だから、友達としか見ていなかったと絢奈に伝えるしかなかった。その結果が周囲からの反発だ」
幸いだったことは顔を実際に合わせることがなかったこと。そして、最悪なことは顔を合わせる必要がなかったこと。
後に彼女の功績によりことは収束するが、それまでの勢いは有無も言わせぬものだった。嵐のようにやってきて、貝賀の全てを壊していき、何事もなかったかのように去っていく。
「あらゆることを送られてきた。それまで仲間だと思ってたものを信じられなくなって、目の前が真っ暗になるみたいだった。それもこれも俺が恋を知っていれば起こるはずのないことだったてのはわかってる。でも、そんなこと俺に言われてもどうしろっていうんだって思いがふつふつと込みあがってきて爆発するかとも思ったよ」
集団的な同調は常識を変える。
言葉が新しく生まれ変わっていくように、周囲がそういうのならばと徐々に侵され、感情さえもかえてしまう。それを良しとするか否かはどうでもいい。ただ、皆がそれに流されぬ意識を持つことが重要なのだ。
「大抵の女性が黒に見えて、信用できなくなった。嘲笑している仮面や怒った仮面を被っているように思えた。街を歩いている姓も名も知らない人はなんともないんだ。でも、関わりを持った女性はたしかに見える表情は笑っているはずなのに意識のなかで掏りかえられて、本当は俺のことを卑下しているんじゃないかって気がして当時は気が気でなかった。それで軽度の女性恐怖症になったんだ」
山萩にとっては初めての告白。
流れから驚きはしなかった。そうなってもおかしくはないと感じたからだ。むしろ、この元凶が皆の意識を変えた自分にあるのではというこれまで以上の強い後悔が生まれた。
自分があのときことを大きくしていなければ、貝賀との仲でさえも悪くはならなかったのではと。
「まあ、そのときに何よりの救いだったのは絢奈が俺の味方でいてくれたことだ。一番俺に対して反抗していいはずなのに、心配してくれて家によく様子見に来てくれて、心を癒してくれた。女神って言うのは言いすぎなのかもしれないが、差がなく俺にはそう映った」
だが、それでも恋は分からなかった。
当時、貝賀のなかにあった感情はたしかに恋と呼べるものではなかった。信仰心ともいえないが、絶対的信頼を角浦に抱き、この人となら一緒にいれると感じはしたがそれは恋とはまた違う。
「そんななかで俺は絢奈を離したくないと思ったんだ。どうしたら傍にいてくれるのか、どうしたら満足してくれるのか、その結果が今の関係だ。誘いは絢奈からだったが求められていることに満足感を得て、利得も一致しているのに断る理由が見つからなった」
「ねえ」
これまで言葉を発さなかった山萩が突如話に割って入る。
貝賀は何か意見でもあるのかと思い、受け入れた。
「どうした?」
「それは本当にそれだけなの?」
「それだけとは?」
「本当に安心感だけで絢奈に傍にいてほしいと思ったの? それ以外に何もなかったの?」
山萩のなかで生まれた疑問。
果たして貝賀がそれだけの理由でここまでするだろうかという純粋な疑念。
彼のことであるから必ず申し訳なさを感じていたはず。それなのに話のなかには明るい言葉が多い。それはなにか違うような気がした。
問われた彼もまた、顧みた。実際、それだけでなかったのはたしかだ。これまでそれを糧に生きていたのならば、どうして角浦の要望に応えられなかったのだろうか。身を捧げる覚悟がなかった自分は芯から彼女に後ろめたい感情がなかったのかと探す。
「……たしかに言われてみればそうだな。もちろん反省と後悔はした。でも、それ以上に罪悪感があったのかもしれない」
上から蓋を何重にもして目の届かない所に隠してきた。暗い感情。
人生は華だけでは語れない。そこには必ず泥がつく。汚れがついてまわる。彼はそれが罪悪感。けれど、一抹のプライドがその存在を知らせず、心の持ち主すらも誤魔化してきた。
その感情を引き出したのは今、紛れもなく山萩清恋という一人の女性であり、貝賀を作り上げた女性の一人でもある。
「私は貝賀が恋を知ることができないのは少なからず絢奈のせいでもあると思う。昔はそうでなかっただろうけど、多分、なにもなくても今みたいに二人は自然にそういう形になって、あんたも長年付き添ってきて感じ続けてた信頼と安心感を恋と認識して結婚してたかもしれない」
角浦はわざわざ1年離れた貝賀のもとにまた寄った。そこから想いの重さは計り知れている。頼られたことで彼女のなかでもたしかに想いは増幅された。それでも、そんなこと関係なく二人は山萩から見てもお似合いであったから、容易にその後の姿など想像できる。
そのことに貝賀も納得した。恐らくいいように言いくるめられてはいただろうと。
「でも、そうはならなかった。私が引き起こした事件が発端であんたのなかで絢奈の存在意義が変わって、あんたの恋に対する意識も変わって。全てをぐちゃぐちゃにしてしまったのは申し訳なかったと思ってる。ただ、後悔はもうしてない。私も貝賀のことが好きだったから、今でも好きだから。そんな罪悪感で振られたくもないし、絢奈とも向き合ってほしくない。絢奈とのことは静から聞いてたから知ってる。今度、最後のデートなんでしょ」
「ああ、そうだな」
「そこでちゃんと真正面から言いなよ。あんたが絢奈にこれまで感じてきたこと、失礼なこともなにもかも。デートで外に出てる暇があるならそっちのほうがよっぽどこれからのためになると思う」
人様がなにをと言われるほど語気は強く、その分真剣味が増している。
貝賀はなにも文句のひとつも出てこなかった。その通りだと肯定していた。
それは彼が唯一見ている表情にある。
声は芯が通っていて男らしくもあり、心に響く良いものであるのに彼女は悲しげに眉を下げて言うのだ。貝賀に怒られはしないかという不安と二人が結びついてしまわないかという恐怖が入り交じり、恋情を捨てきれない自己欲求が顕著に表れている。
そこまでの想いをもってしても、言葉の上では一歩引いて客観的に物事を捉えられていることに貝賀は感心した。
「わかった。おまえの言う通り、絢奈と今度話をするよ。これまで培ってきたものを捨てきることはできないと思う。罪悪感はどうしても付き纏ってしまうんだと思う。それでもその時俺が言葉にできること全てを話してぶつかってくる。それで、絢奈からも本心を全て曝け出してもらえるように頑張るよ」
「うん、そうしなよ。応援してるから」
「ありがとう。一応、最後の確認にはなるが、おまえもそうなることを願ってくれているんだよな」
「当たり前。今胸に溜まったことを吐き出すのは違うから。今の私はあくまでもただの友達。それ以上でもそれ以下でもない、友達っていうランクだから」
他人の背を押す者がどうして弱音など吐くことが出来ようか、いや、できない。
それを承知の上で山萩は二人のことを優先した。何も片づけず、やってくるものすべてを躱していては前に進むことはできないとわかっているから。
貝賀はそれを強く受け止め、心のなかに収める。
「なあ、決意表明の証に今、絢奈に電話してもいいか?」
「一応、便宜上は友人の手伝いってことになってるんでしょ。話する前に印象悪くしたらダメでしょ」
「だから、そのことは伏せておく。これを絢奈に吐く最後の嘘にするためにも、ここからは全部本音を伝えるための行動でもあるから」
「それならわかった。私は静かにしておく」
「ありがとう。それともう一つ、いいか?」
「なに?」
「その……電話してる間、手、このまま握っててもらってもいいかな」
視界の奪われた彼女は彼の反応を聴覚で聞き取り、解釈している。だからこそ、そのときの言葉の細さ、震え方を鮮明に感じ取ることができた。
涙を流しているわけではない。元気をなくしたわけでもない。自分と同じように恐怖と闘っているのだろうと、ならば、それをサポートするのが今自分が置かれている役目だと。
「まかせて」
その4文字がどれほど貝賀を勇気づけただろうか。
身体が熱を持ち、全身に駆け回っていた緊張が解け、冷たくなっていた手は微かな温もりを帯び始めた。
「ふぅ……」
深呼吸したのち、携帯を取り出してこれまで幾度も掛けてきた電話番号をダイヤルする。
電話帳を開く余裕すらないことが場の雰囲気を感じさせ、冗談などで済まされないと知らしめる。
トゥルルル、トゥルルル……
コール音は早く出てくれと願うばかりに通常よりも長く感じ、焦燥感を煽った。それでも、貝賀は手から感じる温もりと正面に見据える彼女の笑みで惑わされることなく、角浦が出るのを待った。
「……もしもし」
「絢奈、今、大丈夫か?」
第一声が問題なく出た。
その流れに乗り、喉は開き、声ははっきりと発することができるようになった。
「うん。どうしたの?」
「今度の日曜日のことなんだけど──」
「一緒にいてくれるよね?」
「あ、ああ、それはもちろんなんだが、話があるんだ」
「話?」
彼を遮る勢いで言葉を被せてきた彼女の反応に一瞬たじろぎはしたが、止まることなく話を続けた。その瞬間、二人はたしかな違和感を感じ取ってはいたが、それを言葉にはしなかった。
「日曜日にわざわざ話すんだ。なんのことかは大体わかるだろ?」
「そうだね。元々話をする気だったから問題ないよ」
「そうか。それじゃあ、また──」
「待って!」
彼女にしては珍しく大きな声で叫ぶように言葉を発した。
それがどうにも気になり、貝賀は冷静に言葉を返す。
「どうした?」
「ううん、ごめん、やっぱりなんでもないや」
「本当にか?」
「また日曜日話すよ」
「そうか」
「うん、じゃあ、またね」
「ああ、じゃ──」
貝賀が言い終える前に通話は切れた。
ことはやり終えたはずなのに終始感じた違和感に心を奪われ、釈然としない。そもそも最後に角浦が話があったはずなのに明かさなかったことに重要性を感じずにはいられない状態であった。
それは山萩も同様で、情緒不安定にも思えた携帯越しの角浦の姿を想像できず、未知の世界に足を踏み入れたような不信感を全身で感じ、毛が立つ。
「大丈夫かな」
たってもいられず、瞼をあげた彼女は貝賀に問うように話しかけた。
「わからない。いつもの絢奈じゃないことはわかったけど、その先にある感情が読み取れなかった」
「わたしも」
声のトーンが違った。ただそれだけでもおかしいと感じるほど二人は彼女のことをよく知っている。ゆえに、気付くことができる。
だが、その解明のために割く時間はそう多くない。まず、角浦自身と話せないでいる今、その行為の正当性もわかりえない。そのせいで自らの不信感を仰ぐぐらいなら、外堀を埋めていった方が賢明だろう。
そう考えついた貝賀は2度、3度頷き、山萩に言い放った。
「なあ、本当はこの後まだまだ時間はあるから映画も観たかったんだけど、そのまえに絢奈のこと教えてもらってもいいか?」
「あんたがそれでいいなら私は別に構わないけど……」
「構わない。このチャンスは失敗が許されないんだ。結果を求めるなら何かを犠牲にするのは当たり前だろう」
「わかった。じゃあ、なにを知りたい?」
親類を除いたなかで一番角浦絢奈という人物を近くで見てきた貝賀。しかし、彼が嘘でまみれているのなら彼女も多少の汚れは付着している。それを払うために貝賀は向き合うことを決めたのだ。
その決意を支える山萩は元から拒否する意などない。
そうして、数時間にわたり、途中、休憩をはさみながらもあらゆる面を持つ彼女の心に迫るための話し合いが続いた。驚くこともスッと受け入れられることもあったが全てに価値があり、利をもたらした。
それを自身のメモ帳に箇条書きでまとめ、必要なこと不必要なことと選別していく。その結果から、当日の話の流れを作り上げ、準備を済ませた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます