第30話 最終日

「お腹空いてない?」


 時刻は既に夕刻。

 集中していただけに一瞬の間から意識が途切れ、空腹感が襲ってくる。


「そうだな。ちょっと休むついでに頂こうか。せっかく作ってくれる手筈だったし」

「本当!?」


 問うた側の山萩の方が明るく、気分が高揚している。

 そんな彼女を見て貝賀は頬が緩み、厳しい表情で手帳と睨めっこしていた先ほどまでと打って変わって気の抜けた表情となっている。


「そういうところ、おまえらしいな」

「それってどういうこと?」


 馬鹿にしているのかとわざとらしく怒ったように顔を寄せる山萩。

 笑ってそんなことはないと言いながら、やはり彼女らしく幼いような愛らしさを持っているものだと感じた。


「まあ、とにかく夕飯は鍋だから野菜も切り終わったし、茹でてる間に早くおいで」

「ああ、すぐ向かう」


 普段は夕波が使用しているベッドの腰かけていた貝賀は部屋から出ていこうとする彼女の背を見て無性に寂しさを感じた。べつにどこかに去っていくわけではないのにもかかわらず、ぎゅっと胸が締め付けられ、痛みが走る。

 これまで感じたことのないその感情をどう表現すればよいのか、恋とは違うなにかであると察し、一つの答えに辿りつく。


「これがもどかしいってことか」


 ちょっと声をかければいいだけなのに、それさえもためらって、表したい気持ちを出せないもどかしさ。

 恋においては通常時とはまた異なる重さを備え持つ。

 今の貝賀はどちらであろう。言わずもがなかな。


「はやくー、もうできてるよー」

「はいよ」


 リビングに聞こえるように大きな声で返し、彼は腰を上げた。一度固まっている身体をほぐし、足を向ける。

 その第一歩はとても軽やかで、足元には綺麗な水面が広がっていた。

 山萩宅にて、帰宅の支度を済ませた貝賀は思い出したかのように問う。


「そういえば、約束事どうする?」

「どうするって、あんたが言う暇与えてくれなかったんでしょ」

「すまんすまん」


 昨日は夕食後も時間を割いて数パターンを試した。とはいっても、結局これまで角浦自身を底からわかりきれていなかった貝賀にとって、聞いた話だけでどこまで補えるかは未だわからない

 それでも転ばぬ先の杖というようにプランは数個用意した。そうしていたら、当然借り部屋に籠ることとなり、あまり山萩とは話せなかった。

 彼女も強引にまでとは考えていなかったため、怒っているわけではない。ないが、期待がなかったわけではないので残念感はある。


「次会うときに言うこと聞いてもらうからね」

「そうだな。楽しみにしておくよ」

「よし、じゃあ、いってらっしゃい」

「いってきます」


 自宅というわけではないが、彼女に乗せられてそう返事した彼は笑顔で出ていった。


「頑張ってね」


 扉がしまった後、小さく呟いた。しばらくの間、そこに立ち続けて余韻に浸る。

 思っていた以上にしっくりきたことに満足し、心が温まる。


「いってきます……か。ふふっ」


 笑みが自然にこぼれはしたが隠す相手もいなければ止める必要もないわけで、スキップしながらリビングへと戻っていった。ただ、心に余裕があるかと問われれば否だ。

 ここから先、貝賀がどう話をつけて角浦がどんな反応を見せるのかすらわからない。もしかしたら自分と角浦の関係すら消えてなくなるかもしれないというに大丈夫だろうだなんて楽観視できるわけがない。

 でも、それでも、貝賀ならどうにかしてくれる。そう信じて待つ。最悪の形を引いたとしても、最善を尽くしてくれたとしても、彼の帰りを待つ。

 自分にできることはそれぐらいしかない。けれど、それで十分なんだ。

 そう思い、何時間も待った。

 途中から夕波も合流し、まるで受験の合否を確認するかのようにずっとスマホの画面とにらめっこ。

 そうして日を跨ごうかという頃、ようやく彼から電話が掛かってきた。


「……もしもし?」


 緊張の面持ちで隣に座る夕波の手を握り、返事を待つ。

 返ってきた第一声はーー


「無事終わったよ」


 ーーそんな言葉だった。

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