第25話 訪問先
20××年 6月27日(月) 11:25
東京・三宅、一等地に建つ高層マンションの一室の扉の前に立つ男、貝賀宏一。
インターホンを鳴らさずにドアノブを回すと鍵のかかっていない扉は開き、音をあまり立てずになかに入っていく。
「いらっしゃい」
「ちゃんと起きてたみたいだな」
「当たり前でしょ」
廊下の先に仁王立ちする山萩は人差し指を立ててわざとらしく怒った素振りを見せる。けれども、貝賀はそれを気にすることなく持ってきたキャリーバッグの脚をたたみ、持ち上げた。
「どこに置けばいい?」
「こっちついてきて」
玄関から正面に廊下が続き、扉が見える。そこからリビングに繋がるわけだが、その前に左右一つずつ部屋があり、その右側に貝賀は案内される。
「泊まる間はこの部屋使って」
内装はシンプルに窓には可愛らしくオレンジのカーテンが施され、そのすぐ下にベッドが置かれていた。そのほかには家具はなく、質素である。
「なんでベッドがあるんだよ」
「客間っていうか静がきたときに使ってる部屋なのよ。基本的になにもないから荷物はどこにでも置いてて。今日はこのあと出かけるんでしょ?」
「ああ、口実に使わせてもらった友人の手伝いにな」
「そっか。何時に帰ってくるかわかる?」
「20時ぐらいかな。飲みには行かないって伝えてはあるから直行で帰る」
「お昼は?」
「適当に店で食っていくよ」
手作り料理をご馳走したい山萩はなるべく自然な流れで話を振る。
貝賀はただの気遣いだと思い、私用でお邪魔している上に迷惑はかけたくないと断る一方。
相違の考えを持つ二人は引き下がらず、同じような掛け合いが続いた。
「あのさ、気持ちはありがたいんだけど、今日含めて3日間世話になるんだから今日1日ぐらいはゆっくりしておいてくれ」
「で、でも」
「じゃあ、料理以外でなにかひとつ言うこと聞くから今は抑えてくれ」
「本当? 嘘じゃない?」
「俺が嘘つくと……いや、そうだな、なにか紙ないか?」
「ちょっと待ってて!」
その先に褒美があると察した子供のようにうきうきした様子で山萩はリビングへと戻り、どこかにありはしないかとテーブルの上であったり、隣の和室に見に行ったりと必死に探す。しかし、若者も若者だ。新聞を取っているわけでも広告が入ってくるわけでもない。
廊下にいる貝賀でもわかるほど大きな音と声を出している山萩の慌てように彼は溜め息をつきつつ、声をかける。
「外に行くけどまだ時間はあるから1回落ち着け」
「う、うん、あっ、そうだ! スケジュール帳の後ろに数ページ余ってるんだった」
聴こえてきた言葉で我に返った彼女はテーブルに置かれているそれを手に取り、ペン立てから簡単に消えないボールペンを一本取り出して彼の元に戻ってきた。
急に動いたことと興奮とで息が荒いが、それを気にすることなく貝賀に持ってきた物を渡し、書いてと促す。
「ほら、これでいいだろ」
簡単に、貝賀宏一は山萩清恋の言うことをひとつ聞くことを誓いますと書かれたそのページを山萩はしっかりと瞳に映し、にっこりと笑う。
「うん!」
そのとき、貝賀は言葉を失った。
ただ優しくはにかんでいつものように、まるで角浦に言うようにいってきますと出ていくつもりだったのに。
その屈託のないキラキラと輝く笑顔になにか掴まれたような感覚に陥り、小さく開けた口が閉まらないで彼女の顔から目が離れない。可能であるならば今すぐ抱きしめたい。そんな衝動にかられ、腕がすこし上がったところでハッと我に返る。
「どうしたの?」
首をかしげる山萩に答えを示すほど余裕はない。
なんと声をかけるべきなのか、なにが彼女の笑みをまた見させてくれるのか、それだけに意識が集中して言葉がうまくまとまらない。
「ちょっと、すこしは何か言ったら?」
茶化したように胸を小突いた彼女はほんのすこしも力はいれてないはずなのに、貝賀は数歩後ずさりしてそれでも視線は外れないままで。
さすがにおかしいと感じた彼女も心配そうにもう一度問う。
「どうしたの?」
「あ、ああ、いや、一瞬眩暈がしただけだよ」
「大丈夫?」
「大丈夫大丈夫。何も気にしなくていいから」
ははっと声は出してもその目も表情も笑っていない。
それがどうしても気がかりで、けれど一歩を踏み出せない山萩はそれ以上何も言うことが出来ないで、そう、と小さく返すだけで精いっぱいだった。
「それじゃあ」
「……うん」
静寂に包まれる独りの玄関。
たしかにさっきまでそこに温もりがあったはずなのに、手を伸ばしても空をかくだけで山萩の心を埋め尽くしてはくれない。
部屋を出た貝賀は一時自制の利かなかった腕を見つめ、頭のなかで情報を整理して何が起こったのかを必死に考えながらエレベータの前、ボタンを押して到着を待つ。
一階から順にゆっくりと上ってくるその間、まるで世界が遅くなったかのような感覚に身を委ね、気持ちに答えを出した。
「今更一目惚れとか……馬鹿らしいな」
嘲笑する。
否定的にならざるを得ない。そんなもので名も知らぬこの感情を片づけたくはなかった。
ようやくエレベーターが到着する。なかには誰もいない。その奥の鏡に映る彼の表情は紛れもない笑顔であった。
☆★
結局、夕飯を友人にご馳走になったものの流れに逆らえず、酒の席に向かわされた貝賀はその前に遅くなると山萩に連絡を入れておき、それに彼女は了承の返事を寄越した。
話の分からない人間ではないので友人にホテルではなく、泊まらせてもらっているということを説明して解放された彼は足早に山萩宅に戻っていた。
明日、彼女に仕事がないことは把握しているが、外に出かけるために何時に寝るかわからないからだ。
「そういえば、鍵開けてくれてんのかな」
貝賀はもちろん合鍵は受け取っておらず、今朝降りた駅から同様の道を歩いている途中に思い出したためにいっそのこと友人宅に本日のみお世話になるということも面倒になっている。
まさかと思いつつも念の為、スマホから電話をかけた。
こういうとき、現実というものは大方悪い方に傾くもので、コール音が鳴り終えた後、留守番電話の機械音が聴こえてきた。
「はあ……どうすっかな」
近くのホテルを今から取ろうにも電車に乗らなければならず、どうも足が向かない。
仕方ないと割り切り、風呂にでも入っていて出られなかった可能性に賭けて変わらず歩を進めた。
それから7分、前を向けばマンションが姿を現した。今なお山萩からの通知はない。
さてここからどうすべきかと一度立ち尽くした貝賀に後方から足音が近づいてくる。通行人だろうと気にもしないでいた彼はその瞬間、視界が暗闇に染まり、一時的な動揺に見舞われた。
「ちょ、ちょっとなんですか!?」
どうにかして目元を隠す手をほどこうと掴んだとき、その細さに重ねた手が止まる。
「あれ? 気づいちゃった?」
聞き覚えのある声色に身体が熱くなる。それは本当の通行人に見られてはいないだろうかという気恥ずかしさだ
「山萩……か?」
「せいかーい!」
テンション高めの勢いで手を退けた彼女はそのまま貝賀の顔を覗き込むように前に回る。
「怖かったでしょ?」
「本当、焦ったんだぞ!」
声は大きめだが怒りはない。お茶目な小学生を注意するような優しさで、表情は明るく彼女の頭に手を乗せる。
嫌がる様子はなく、すっぽりはまる形でニヤケが止まらない山萩は静かに瞼を閉じた。
「落ち着く」
「そりゃよかったが、家、帰ろうぜ」
「うん」
離れた頭部が風に吹かれ、少し寒い。
彼女はその寒さを隠すように身体を寄せ、なにも言わずに手を繋いだ。
明らかな感触に気付いた彼もわざわざ解くなんてことはせず、握り返して歩を合わせてマンションに入っていった。
部屋につくまで離しはせず、靴を脱ぐ際、やっと離れた二人は互いに熱く火照っていた。
「お風呂、入るでしょ?」
「シャワーだけ頂くよ」
落ち着きを取り戻し、夢の時間が終わりを告げた二人の間はどこかぎこちなく、声も震えているのが分かる。
それでも平静を保とうと貝賀は上着を借り部屋の壁掛けに掛けて一度深呼吸した。
「今は心臓に悪いな」
渦巻く感情が全てをぐちゃぐちゃにかき混ぜて乱す。胸を掴んでも当然それを捕らえることはできない。ただ振り回されるように悩むことしか彼にはできなかった。
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