第7話 休日
20××年 5月31日(金) 8:50
今朝の食卓には2人の姿がある。
寝起きで髪がぼさぼさの貝賀とその姿をただボーっと見つめるこちらも寝起き5分程度の山萩だ。
彼はソファで寝ているために疲れが上手くとれず、彼女は昨日角浦とショッピングに出かけ散々はしゃぎ倒したツケが回ってきているといったところだ。
「……なんか喋ってよ」
「頭回らないんだよ。てか、おまえも放心状態じゃねえか」
「身体が重いの……あっ、体重の話じゃないからね」
「それぐらいはさすがにわかるわ」
そんな知能の低そうな内容のない会話を幾度か繰り返したのち、ようやく目が覚めてきた山萩が腕を上げ身体を伸ばし、瞳を大きく開く。
それに合わせて彼も席を立ち、洗面所に顔を洗い流しに行き、また席に座った。
「「はあ……」」
向かい合う二人の溜め息は重なり、それを気にして互いに見合う。
「昨日遊びすぎて疲れてるならまた寝てこいよ」
「あんたこそ、せっかく今日バイト休みなんだから今なら空いてるベッドで寝てきなさいよ。起こしてほしい時間伝えてくれたらちゃんと起こすからさ」
「そうしたかったんだが、変に目覚めてもう寝る気も起きん。それよか、なんで俺のバイトがないって知ってんだよ」
「絢奈から聞いた」
「ああ、なるほど」
会話は途切れる。
べつに気まずいことはなく、雰囲気も悪いわけではない。ただ、話すことが互いに思いついていないだけだ。元より連絡を取り合っていたわけでもなく、学生時代仲が良かったかといわれればむしろ悪かったという印象すらある2人が相手のことを互いに知っているわけがなく、話のタネがなにも出てこない。
あーと声は出せど、続く言葉はなくただの奇声にしか聞こえない。頭の働かないでいたほうがむしろ良く話せていたと思われるほどに酷く、徐々に沈黙が漂い始めた。
そうすること数分、貝賀は読書に山萩はスマートフォンに逃げ、音は殆どなく、さすがに嫌な空気が蔓延し始めたとき、彼女は彼の読む本の表紙を目にして声を放つ。
「あっ、それ知ってる」
それに反応した彼は表紙をしっかりと山萩に見せる。
「本当か?」
「うん、その人が書いた『愛人岬』っていうのが映画化されて、それを観た繋がりで面白かったから他の作品も読もうかなって思ったときに調べたことあるんだよね」
「その映画って、主演の男が放映直後に不倫騒動起こして話題になったやつだよな」
「たしかにそれで売れたって言われてるけど、本当に面白いんだよ!」
「ふーん」
実のところ、彼はこの作者に興味がない。この著書自体、本屋で新書を漁っていた際に偶然見つけて購入したものの、それから二ヶ月間陽の光を見ずに眠っていたのだ。それを昨日思い出し、今初めて読んでいる最中である。
それゆえ、山萩が観たという作品も内容はよく知らない。ただ話題になっていたなという程度の浅い知識しかなく、彼女の熱意もよく伝わってきてはいない。
それを察した彼女は最後の素っ気ない返事に若干のイラ立ちを覚え、その感情のまま言葉を吐き出した。
「なに、そのどうでもいいみたいな態度」
「そういうわけじゃなかったんだが、そう見えてしまったなら──」
「よし、わかった」
貝賀の言葉を遮り立ち上がった彼女は読み直そうとしていた貝賀の手から本を取り上げる。
「なにすんだよ」
「あんたが全然興味なさそうだから、ちゃんと面白いって証明してあげる」
「べつにいいよ、そんなの。趣味の強要は良くないぞ」
「いいから! 近くにTATUTAYAあったよね。今から借りてくるから一緒に観よう! 私たちこのあと予定ないんだし、決定ね」
「あっ、ちょっと待てって!」
彼の制止も無念に終わり、部屋着にパーカーを羽織っただけの姿で出ていった彼女はガンガンと足音を鳴らして階段を下って行った。
「はあ……」
深くため息をついた貝賀は隣室の方々に心のなかで謝り、それからもう逃げられない現状を少しでも楽しもうと考えを変え、食器棚の収納スペースを引き出し、なかからあまり手の汚れない菓子を数個取り出してキッチンペーパーを敷いたお盆の上に適当に並べた。
飲料は冷やしておいたオレンジジュースを2人分のコップに注ぎ、先程のお盆とともにテレビ前にあるテーブルに置いて準備を整え終える。そのままソファに腰かけ、山萩の帰りを待った。
5分後、息を切らしながらTATUTAYA特有の貸し出し袋を提げた彼女が帰宅し、足早に貝賀に近付くと彼に構うわけではなく、その前に置かれていたコップに手をだし、一気に飲み干す。その飲みっぷりは豪快で彼は引き気味に距離をとった。
「ぷはぁー、生き返った。外寒いはずなのに全力で走りすぎて暑いんだけど」
「ま、まあ汗かいてるから軽く流して来いよ。その間に観れる準備しておくし」
「ありがと。じゃあ、よろしくね!」
袋をテーブルに置いて洗面所兼脱衣所に向かっていく彼女の背中はパーカーを脱いだため、汗で透けている箇所が露わとなった。彼は咄嗟の反応で顔を逸らし、あくまで自分は何も見ていないという体でいそいそと鑑賞準備を始める。彼女自身、そのことに全く気付いていなかったが彼の頭のなかには微かに見えてしまった水色の紐が一杯に広がり、顔を徐に赤くせざるをえなかった。
加えて、彼女が飲み干したコップは彼が一度口をつけたものであった。それは当然彼しか知らない。急接近された驚きと重なり、鼓動が早くなっている。
「落ち着け、落ち着け……」
何度もそう自らに言い聞かせ、一度コップを水で洗い流し、一杯分の水を入れて一気に飲み干した。
そうしたことで鼓動はゆっくりとなっていき、平常通りに戻っていく。
「あいつはいつどんな行動をとるか分からないから気を付けないとな」
先日の件といい、驚かされることは恐怖心を強く煽るまではいかずとも多くここまであった。要注意人物と認識することでその状況でいかにも有り得なさそうな展開もこの女であればと自らに危険を察知させられる。
それから数分後、べたついた髪も洗い流した山萩は気持ちよさそうに脱衣所から出ると、何事もなかったかのようにソファでホーム画面のままのテレビを眺める貝賀に近寄っていく。
「ごめんね、待たせちゃって」
「あ、ああ、別に構わん。それより早く観よう」
「なんだ、結局貝賀も観る気満々じゃん」
「そりゃ、せっかくおまえが借りてきてくれたんだから観ないわけにはいかないし、そこまで推されるとさすがに気にもなるだろ」
「ふーん、まあ、終わった後に涙ポロポロ流してても笑わないから好きなだけ泣いていいよ」
自信ありげに言い放った彼女を心配そうに見つめる貝賀は内心、どの口がと思っていた。こういうとき、パターンとして紹介した側が一方的に感動してこっちに感心させる暇も与えず、先の展開などを知っているために変なところで泣いてしまうのが常だ。コメディー映画でも同じことが言える。なので、山萩が涙を流し始めたらすぐにハンカチを渡せるよう一応用意していた。ティッシュも完備だ。
そんな考えを持ったまま始まった上映会。
『愛人岬』に出演している役者は豪華でどれほど期待されていたかがうかがえる。
内容としては、妻を亡くした40歳の男性とその恋人であった18歳の女子高生の悲恋とも得恋ともとれる話であった。作家であった男性は元よりファンであったその女性を愛人と呼び、妻の死後、恋情を抱き、愛し合った。しかし、故人に対する愛を忘れられずにいた男は愛人を故人に似せるような行為を繰り返してしまう。
愛人はそのことに、男の机から日記を見つけて読んだ日から気付いてはいたが、それでも自らを愛してくれるならと我慢することを決意した。だが、大人への階段を上っている最中の愛人にはあまりにもそれは残酷で、まともに心など制御できず、壊れるまでそう時はかからなかった。
徐々に病み始め、ついに日常にさえ支障をきたし始めたとき、ようやく男は自らの失態に気付く。どうにかして歪んだ愛情を取り消そうとするが時すでに遅し、愛人は日に日に人が変わり果てていき、そこに互いに愛し合っていた頃の彼女の姿はなくなってしまった。
自らを呪い殺したいと思うほどに膨れ上がった憎悪を抱えた男は愛人を連れ、初めて彼女とデートをした岬へと向かう。夕暮れ時、男は灯台の下再度正真正銘の愛を宣言する。それはたとえ人が変わろうと心の奥底にあった彼女の愛情に触れ、ようやく本当に手にしたかった理想に追いついた愛人は涙を流しながらも男と熱く抱擁を交わし、唇を合わせた。それからまた以前の自分には戻れないこと、そして、今以上の幸せは感じられないと男に言い、ともに思い出の地であるここで心中しようと提案する。
男はそれを快諾し、遺書も書かず、互いに名を呼び合い、終焉前の最後の接吻を交わし、岬から飛び降りたという結末で幕を閉じた。
エンディングが部屋に流れゆくなか、そこには別に涙をすする音が2つ混ざっていた。
「っ、あぁ……やばいな、これ」
「うっ、うぅ、だがらいったじゃん、感動するって……あ、あぁぁぁぁ」
互いに瞳から鼻から大量の雫を流し、汚いことも気にせずに用意していたものを一切構わず指で拭い続ける。留まることを知らないそれはホーム画面に戻った後も継続した。
最終的に枯れるまで泣き続けた2人は乾いた喉を潤すため、ジュースを口に含み、鼻をすんと鳴らしながらピクピクさせ、感情を制御できないままで口を開く。
「ああ、最高だった……健気な少女が変わってしまうところとか、それでもちゃんと記憶には残っているところとか、最後のキスとかもう挙げようと思えばいくらでも思いつくほどいいシーンばっかだったな」
「でしょ! 男の人も悪い人みたいな見方になっちゃうけど、そこには辛い事情があるじゃん! そう思うと極端に憎めないのがさ!」
「わかる! こういう悲劇の主人公ってなんか憎めないよな! 恋愛においては特にそうなんだよなぁ」
意外にも2人の感性は似ているようで共感が得れたことに満足感を覚え、話はさらなる盛り上がりを見せる。その勢い止まらず、気が付けば小一時間ただひたすら1つの映画の話のみで使い、時刻は昼時となっていた。
「ふぅ……さすがに腹減ったな」
「そういえば、朝も食べてないもんね。なにかインスタントあるの?」
「あるにはあるが、そんなのでいいのか?」
「たまにはそういうのも食べたくなるし、今日は気分が良いから自分を甘えさせちゃおうかなって」
「わかった。じゃあ、待ってろ。お湯沸かすぐらいは俺がやるよ。映画観させてもらったお礼のひとつとして」
「やったね」
その会話を皮切りに2人はようやく映画から離れ、貝賀は収納スペースから2つ袋ラーメンを取り出し、水を鍋に注いでお湯を沸かし始め、山萩は箸を2人分テーブルに置いてからソファに寝転がり、携帯をいじり始めた。
5分後、出来上がったものを容器に移し、買いためされているのりとチャーシューを盛り合わせてテーブルまで運んでいく。彼がちょうどソファを通り過ぎ、彼女に声をかけようとしたとき、静かな寝息が聞こえてきた。
「おいおい、マジかよ」
そこには携帯を顔の横に手放した状態の彼女がすっかり寝ていた。
泣き疲れ、昨日の疲労も重なった末、我慢の限界がきたのだろう。とても気持ちよさそうな寝顔を見た彼は失礼ながら静かだと可愛いものだと思った。普段から当然顔は可愛いと感じてはいたが、それでもあの態度ではそれなりの減点がなされる。
彼のなかで活発な女性が嫌いなわけではなく、どちらかといえばやはり学生時代のことが一番の要因のように思えるが、彼女の評価は他の人間に比べて格段と低い。友達想いの良い奴ぐらいの認識だ。知り合い程度な関係の距離感である。だからこそ、彼女の行動力や突発性に驚かされているわけだが、ここまで無防備な姿を見てしまうと、いつもの仕返しとばかりになにか悪戯したくなるのが人の性ではないだろうか。
「さすがに顔に落書きなんて無責任なことはできないが、まあ、ちょっと驚くようなことでもしてみるか。俺の克服も兼ねて」
彼は独りそう呟くと、角浦の部屋から1枚毛布を持ってきてとりあえず身体が冷えないように被せる。
こういった些細なことでもしっかりと行えるところが貝賀という男の優しさと言われる部分になっている。事例としてとらえた場合、それは誰もが考える最前の手であっても現実に起きた場合、その通りに動けないことが多々起きてしまう。だからこそ、その常識を常識通りに行動できることは素晴らしいのだ。
人の評価は減点式ではいつまでたってもよくなんか見えない。最高値が決まっているのだから善し悪しなどわかるはずがない。こういったことを加点していくことで好まれる男、嫌われる男と大きく2分割される。
「でも、その前に飯食うか」
数分でラーメンを食べ終え、食器を運んでまた戻ってくる。
「よし、ここからだな。変なことしても怒られるだろうし、一応控えめでいくか」
この悪戯の目標は第1に山萩を驚かせること、第2に自らが山萩に抱える恐怖心を克服するためなにかと接触すること。そして、彼女の情報としては純潔だということがわかっている。であれば、男性と身体自体が接することは少ないのではないのだろうかという考えに至った。
さすがに限度を履き違えれば痴漢として訴えられかねない為無理なことはできないが、許容されるであろう範囲からそのなかでも際どいラインを彼は攻めていく。
「ちょっと失礼するぞ。起きないでくれよ」
彼女の顔があるほうに移動して頭を持ち上げ、枕代わりと自らの太ももの上に乗せ、膝枕状態を作り出した。
これは男女問わず、寝覚めたら知り合いに膝枕をしてもらっていただなんて恥ずかしさの極まりでしかない。誰かに見られてはいないだろうか、寝顔を撮られていないだろうか、純潔をレッテルとしている彼女からすれば特に重要になってくるだろう。
その反応を想像しただけでも容易に満足できる。
忘れていたこととして、彼自身の自由も奪われるというデメリットがあったが、近くに置いていた読みかけの本を手に取り、期待を込めて読み進めた。
そうして早30分、未だ彼女に起きる気配はない。
彼もまた、身体を動かさずにいるため、そこに対する配慮から疲れがたまり、瞼がおちかけて睡魔に襲われている。幾度もあくびをして姿勢も悪くなり、膝元からの温もりで程よい体温を保たれ、なお眠気は増す。そこに抗う術は彼女を起こすことしかなかったが、今それをしたら疲れがたまるだけで結局その後無事に寝られるかもわからない。であれば、どちらにせよ今は自分の休養が大事だと逆らうことなく眠りについた。
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