第2話 これまで

 いつもの光景に慣れた貝賀は言葉を返して角浦の横を通り過ぎ、なかへ入っていく。彼女もまた、それを気にすることなく扉を閉めて彼の後をついていった。


「いい香りがするな」


 玄関から正面に進んだ先にはリビングとペニンシュラキッチンがあり、その前に小型のテーブルと椅子が2脚、そして2人分のカレーライスが並べられていた。


「いつも遅くに作ってもらってすまない。絢奈もレポートがあるっていうのに」


 角浦は現在大学生として日々勉学に勤しんでいる。高校時代から変わらない締まったスタイルは陸上部の名残で今でも軽度な運動を欠かさず行っているゆえの成果だ。

 さて、2度目となるが貝賀はフリーターとして週5日6時間勤務で働き、生活を賄っている。夢はまだ見つからず、現在進行形で模索中。

 そんな2人の同棲生活は高校卒業後、共に別の道を進み半年が経った頃に彼女のほうから提案した。1度振った女と同棲しようという男の気は知れないが、そんなことを気にすらしないのが貝賀という男だ。

 共に平日は外に出るため家事は役割分担し、料理は彼女が掃除や洗濯等は彼が担当となっている。この分担は2人で話し合って決められた。ただ、そういった掟のようなものがあろうとも当然と思わず角浦のことを気にかけるのは貝賀の優しさだろう。


「気にしなくていいよ。私、料理好きだし」

「そう言ってくれるのはありがたいが、大学の課題のほうは──」

「だから、気にしなくていいって。しつこい人は嫌いだよ」

「──うっ」


 そう言われてしまうと貝賀は弱い。

 それは高校時代の角浦とのことが発端である。

 周囲から囃されるほど仲が良かった2人だ。それが付き合わず、加えて振ったのは貝賀だということはすぐに友人だけに留まらず、クラスメイトまで広がった。

 男友達からは特に何も言われることはなかったが貝賀と角浦、どちらかと仲の良い女友達には相当叱られた。彼自身これまで思わせぶりな行為をしていたことを責められ反省はしたが、許せない女性陣から学校がなく会えない為にLINEで多くのメッセージが送られるという現象に陥ったのだ。

 それは角浦自身が皆を説得さえて収拾がついたのだが、そのことで彼は知り合いから嫌われることに恐怖を感じるようになってしまった。

 そんな貝賀のことをよく知っている角浦は時折その弱点を突き、言うことを聞かせたり、面倒な親切心を退かせたりしている。


「さあ、ご飯冷めちゃうでしょ。早く食べよ」

「あ、ああ、そうだな」


 話を断った2人は席に着き、手を合わせる。


「「いただきます」」


 5月19日(土) 


 夕食を食べ終え、風呂を済ました頃には日が変わっていた。貝賀はソファに座り、隣にいる角浦と共にバラエティ番組を見ている。前にあるテーブルには彼女が作っておいてくれたアイスティの入ったコップが並べられており、その1つを手に取ったところで思い出したように話しかける。


「そういえば、絢奈にも届いたのか?」

「先生の結婚式でしょ? もちろん届いたけど、行こうかどうか悩んでる」


 顔を彼の方に向け、彼女はそう答えた。


「どうしてだ? 浅木先生とは仲良かっただろ」

「うん、だから行きたいんだけど、宏一はどうせ行かないんでしょ。それなら私もいいかなって」


 残念なこと事件後も収拾がついたとはいえ全員とは関係性を修復しきれていない。仕方のないことかもしれないが相手側から拒絶されているだけでなく、彼が距離を取った人物もいる。

 そのことを知っている彼女は彼の気持ちを尊重したいようだ。


「これは初めから考えていた事なんだが、絢奈が行くなら俺も行くよ。野郎共に会いたいし、別に全員と話す必要なんてないんだし、そこはうまくやるから」


 角浦は内心先生とも仲の良かった友人らとも顔を合わせたかったようで、その返事にわかりやすく表情を明るくした。その反応を見て、彼も満足気に笑みを浮かべる。


「そう言ってくれたならお言葉に甘えちゃおうかな」

「それなら良かった。俺は明日手紙出しとくから絢奈も早めに返しておくんだぞ」

「そうする」

「それとバイトのシフトも休みとるの忘れんなよ」

「ちゃんとスケジュール帳にメモっておくね」


 既出ではあるがこの部屋の家賃は8万だ。そのうち6万を貝賀が、2万を角浦が出している。

 貝賀の月収が15万、角浦が3万前後となり、2人で約18万円。そこからもろもろの経費を抜いて残るのは8万円程度。食費で5万円が飛び、残りの3万円と角浦の両親から毎月振り込まれる仕送りで日用必需品を買い、余ったお金を貯金に当てている。

 2人は誰かと外で遊ぶということをあまりせず物欲もない。その分消費が少なく済むことでコツコツではあるが貯金も出来てはいる。


「そういえば、宏一って明日休みだよね?」

「そうだな。なにか手伝おうか?」

「ううん、そうじゃなくて、最近ご無沙汰だったなーって思っただけ」

「たしかに最近なかったか。俺もたまるもん溜まってたし、あっち行くか」

「うん、そうしよ」

 

 ご無沙汰というのはお察しの通り、夜の営みのことだ。

 学生時代には知らなかった大人の遊び。2人がそれを初めて経験したのは同棲を初めて1ヶ月が経った頃だった。

 誘い手は当然角浦。高校時代よりなお高まっていた貝賀への愛情を抑えきれず、リビングのソファのうえで自慰行為に勤しんでいた夏のある日、貝賀の帰宅時間が早まっていたことを知らず、安心しきっていた彼女は上着のみのあられもない姿でダラダラと流れる汗を気にもせずに五指で女性器をただただ焦らすように弱く弄っていた。

 無我夢中であったことと暑さのせいで頭がボーっとしていた彼女には扉の開く音が届かず、宏一、宏一と名を呟き続け、心を高ぶらせる。ここから先に待つ快感を想像しただけで涎で濡らした指が中へ中へその身を侵入させようと無意識に動いてしまう。

 まだだ、まだだと抵抗心を見せようとするが、気持ちと身体は相反した動きを見せている。まるで催眠にかかったように。ただ、それは結局のところ本心であり、全く催眠などという非現実的なことではないが、ほんの数秒でもこのもどかしさを味わいたい角浦はそれでも必死に抵抗する。


「ダメ……ダメ……あっ、まだいっちゃ……」


 身をよじり、指の進行を防ごうと股を閉める。腕をはさみ、もがく。これがまた気持ちよい。

 そんな快感に浸りきっていたときだった。


「絢奈、出かけてるのか──って、おまえ、なにしてんだよ!」


 毎日の鬱陶しいぐらい慣れた彼女の出迎えがなく、てっきり外にいるものだと思い込んでいた貝賀は想定外もいいところな光景に驚き、身体を固めている彼女をまじまじと見つめてしまう。

 角浦もまた、ショックとも、ある種の悦びともとれる複雑な感情に襲われ、うまく言葉を発せられなかった。


「あ、ああ……まあ、その、なんだ」


 詰まりながらもここは男が空気を変えなければならないと、貝賀は言葉を絞り出していく。


「そういうことは個人の自由なんだがな。男と住んでいるっていう自覚だけは……持ってくれ」

「ご、ごめん」

「いや、いいんだ、いい。男も女もそういうことをしたいときは平等に来るだろ」

「……本当にごめんね」

「もういいから早くシャワーでも浴びてこい。その姿を晒されるっていうのは、男としたら辛いものがあるんだ」


 その言葉の意味を瞬時に理解した彼女は貝賀の若干膨らみを帯びている股間を直視する。恥ずかしさのあまり、望んでいたはずなのにすぐに顔を逸らして手で目元を覆った。


「すまん。最低なことが起こっているとはわかっているんだが、抑えようと思っても制御できないんだ。頼む、早く行ってくれないか」

「わ、わかった」


 貝賀は目を瞑り、なるべく彼女の裸を見まいと去るのを待つ。

 足音がゆっくりと彼に近付き、通り過ぎようとしたときだった。突如、足音が消え、息づかいを近く感じる。それはたしかに彼女のものであり、フローラルの匂いが確信させた。


「そこでなにしてるんだよ」 


 瞼は開かず、彼は問う。

 すると、角浦は露わになっている恥部を隠さず、彼の耳元に唇を寄せ、軽く一息ついた。

 その瞬間、彼の身体が強張る。もちろん彼女も緊張しているわけだが熱でリミッターが外れてしまった今はそれよりも彼のその反応一つ一つが愉快に思えてたまらない。もっと、もっと、大好きな彼を知りたい。私欲に侵された頭はまともな思考などできず、気付けばそう思うようになっていた。


「ねぇ……私、宏一としたい」


 一拍一拍、わずかな吐息が艶めかしさを醸し出す。

 貝賀は何も見えない不安と彼女に対する自制の揺らぎで緊迫感が増し、心臓がドクドクと鳴りやまない。

 あまりにも早い鼓動に彼女は喜び、自らを女と意識してくれている彼をなお愛したいと想い、そしてまた、身の繋がりに強い願望を抱く。


「ほら、わかるでしょ……」


 彼の外堀を埋めるように角浦は胸を押し付け、腕を腰に回した。

 それでもなお、貝賀は言葉を発さず、ただ身を固くする。抵抗とはまた違う、むしろ、従順といった方が似合うかもしれない。

 命令を待つ犬のようにおとなしい。


「いいってこと?」


 言葉の返さない彼に角浦は問うた。その沈黙が肯定の意を持つことはわかっているものの、それではまるで自らが強要したようで、それはある種の強姦のように思えて納得できない。

 彼の口から言葉が欲しい。ああでも、しようでもなんでもいい。ただ、合意の下でしたい。それだけは唯一残された彼女の自制心であった。


「……おねがい」


 貝賀がその言葉の意味を理解するまでに時間は要さなかった。

 彼女同様腕を腰に回して瞼を上げ、頬は赤く瞳は悦びのあまりトロンとしている彼女を見つめる。


「俺も……したい」

「ありがとう」


 強く抱きしめあったのち、彼女を抱えて自室のベッドまで運んでいく。恥ずかしさからその身体を直視することはできやしないが、反応そのものが純情であり、とても初々しく微笑ましい。

 優しく寝かせ、そのまま自らの服を雑に脱ぎ、彼女に覆い被さる。そして、口づけをした。

 そこからは大人の遊びだ。まだ拙く、ぎこちなさはあったが行為を終え、それなりの快楽に満足し、余韻に浸りきる。緊張で疲れ切った身体は襲い来る眠気に抗えず、2人はベッドの上で恋人のように身を寄せ合い、眠りについた。

 その行為は同棲という性質上特に意識して我慢してきた貝賀にとって至福の限りであった。

 角浦も望むべきではなかった夢が叶い、愛す男に初めてを捧げられたよろこびと想像以上の行為のよろこびに囚われた。

 その結果として、時折2人は合意のもとで行為に及ぶというルールをつくり、互いの悦に対する欲求を満たしてきた。それはいたって自然であり、何一つ可笑しいことなど無い。

 これが一種の条理なのだ。そしてまた、今日もそれに則り、互いの身を熱くさせ、高ぶる欲情を存分に曝け出し行為に尽くした。

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