四章 原因はビュリオラ、いろんな意味で(前編)




 そのころのビュリオラ。


「なんなんですか。あなたがたは。夜中に人のうちに押しかけてきて、問答無用でひったてて。僕が何をしたっていうんだ。やっぱりギロチンなのか? そうか。そうだったんだな。姫さまの人形造りなんて、僕をつれてくる口実だったんだぁ!」


 宮殿の謁見えっけんひかえ室。

 金襴きんらん張りの豪華なイスにもすわらず、部屋のすみで頭をかかえて、しゃがみこむビュリオラを、兵士たちが、もてあましぎみにながめている。


「ベリーヒトが極度の人間嫌いって、ほんとだったんだな」


「抵抗するから、しょうがなく、ひっぱってきたが……どうしたらいいんだ?」


「隊長が今、フローランきょうを呼びに行ってるよ。例の殺人犯の一味に、こいつの召使いがいたこと、卿が尋問なさるんだそうだ」


 兵士たちのヒソヒソ声も、追いつめられたウサギのように、パニックを起こして、おびえているビュリオラの耳には聞こえていない。


 そこへ、兵隊長とフローランがやってきたので、いよいよ、ビュリオラは死刑執行人が来たのだと勘違いした。


「ギロチンか? 火焙り? それとも縛り首? まさか、車裂きなんてことはないだろう? 痛いのはキライなんだ。せめて、らくに死ねる方法にして」


 あっけにとられて、フローランはあいた口がふさがらない。


「ベリーヒトさん。落ちついてください。我々は、あなたを共犯と決めつけてるわけじゃないんだ。ただ、召使いのことで釈明を求めているだけでーー」


 召使いのこと……“あのこと”か。

 僕がシャルランに釈明しなければならないことは、あのことしかない……。


「シャルランは、なんにも悪くないんだ! 僕が勝手にやったことで……シャルランは何も知らないんだ。シャルランには言わないで!」


 フローランと兵隊長は、ギョッとして顔を見あわせた。

「えっ? あんたが、やったのか? ベリーヒト」

「そうだよ。僕がやったよ」


「なんで、あんなことを?」

「……一人で、さみしかったからだ。それ以外ないじゃないか」


「だからって、何も殺さなくても」


「殺したんじゃない。魂を僕のもとに呼びよせただけだ。ほかに方法がなかったんだ。一族は滅びたから、もう新しい体は生まれないし……このまま彼女が消えてなくなるなんて、イヤだったんだよォ!」


 フローランと兵隊長は、頭のよこで、指をグルグルまわした。それから、ナイショ話を始める。


「やっぱり、ここが……」と、兵隊長。

「たしかに。常人には理解しがたい。かわいそうだが、見せしめにしなければ、民が納得しない。この件では何人も死んでいるし、ヘルダさままで、あんなことに……」


「まったく、こんな優男が、よくもまあ、あんな凶行を。あの変な青い髪を見たときから、正気とは思っていなかったが」

「いつもカツラをかぶってるから、気がつかなかった」


「フローラン卿は今すぐ、陛下のお裁きを仰ぎに行ってください」

「わかりました。とりあえず、ベリーヒトは地下牢へ」

「了解」

「しかし、となると、逃げていったあの男たちはなんだったのか」


 フローランがビュリオラにむきなおる。

 ビュリオラはビクリとして、カーテンのかげにかくれた。


「ベリーヒトさん」

「……なんですか?」


「金髪に緑の目の、ものすごい美男子を知ってますか?」

「……兄です」


 フローランは、また兵隊長と話す。


「なるほど、兄か。頭のおかしい弟をかばうために、事件のあと、証拠隠滅をはかっていたのかもしれない。それで彼らのところに、ベリーヒトの召使いがいたのか。ベリーヒトのことを相談してたんだな」


「では、やはり、彼らも捕らえなければなりませんな」


「引き続き、追っ手をかけてください。町に手配書もくばるように」

「了解しました」


 ビュリオラは兵士たちに、ひったてられていった。




 *



 はい。シャルランです。

 あたしたちは、まだお屋敷のなかです。


「あああ……心配です。ご主人さまは人間に殺されると思いこんでるんですよねぇ。兵隊に乱暴されて、おかしなことになってなきゃいいですけど。すぐに助けに行きませんと」


 エイリッヒさんが呼びとめました。

「まあ、待て。おそらく、ベリーヒトは事情を聞かれているだけだ。知らぬ存ぜぬで通していれば、いきなり乱暴なまねはしないだろう」


 エイリッヒさんは、被害妄想になってるときのご主人さまを知らないから……。


「あのときのご主人さまは、まともに人と話せる状態じゃないんですよねぇ。やっぱり……助けに行きませんと」


 かけだそうとするあたしの手を、エイリッヒさんがつかみます。


「だから、待て。今、おれたちが行っても捕まるのがオチだ。それより、おれたちが犯人ではないという証拠を見つけよう」

「そんなの、どうやって見つけるんですかぁ」


「かんたんなのは、真犯人をつかまえることだ。リンデ、おまえは、さっそく酒場に行って、昨夜のおれの行動をしらべてくれ」

「はいよ」


 リンデさんが窓からとびだしていくと、急に姿が消えました。そのあとをヒラヒラ、コウモリが飛んでいきます。なんですか? 今のは。まあ、いいや。


「あたしたちは、どうしたらいいんです?」


「さしあたってやることはない。少し休もう」

「そんなぁ。ただ待ってるだけなんて……」


「しょうがないだろ? おれたちは脱獄囚になってしまったんだ。たぶん、触れ書きをまわされて、賞金首になるだろう。むやみに外に出ないほうがいいんだ」

「うう……」


「髪くらいは染めて、変装でもしておこう」

「染髪料なんてありませんよ」

「あとで、リンデに買ってこさせよう」


 エイリッヒさんは、ため息をつきました。


「姫さえいなければ、おれとリンデはこの町を出て、どこか遠くへ行ってしまってもいいんだがな。べつに、この町に執着もないし」


 姫さまは疲れてソファーで寝てます。

 なので、この暴言を聞かれなくてすみました。


「なんて冷たいことをおっしゃるんですかぁ。ご主人さまを見すてるんですか? エイリッヒさんの弟ですよ?」

「弟?」

「手帳です。手帳」


 エイリッヒさんはポケットから黒革の手帳をだして、うなずきます。


「ああ、そうか。弟がいるかもしれないんだっけ。ちょっと、ここへ来るまでのことも書いておくか。ウォンテッドだってことを忘れて、うかうか外へ出たら大変だ。ペンとインクは?」


「書斎にあります」


 それで、あたしたちは書斎へ行きました。


「カーテンをしめてくれ。明かりが外にもれないように」

「はいはい。いばったお客さまですねぇ。ほかにご用件はありますか?」


「そうだな。すでに忘れてしまった記憶も多いから、おれの言うことに、まちがいがないか、そばで聞いていてくれ。声に出して言いながら書くから」


「いいですよ。じゃあ、イスを持ってきますね」


 あたしはデスクにすわるエイリッヒさんのとなりに腰かけました。


 ロウソクの火がゆらめいて、肩にこぼれるエイリッヒさんの髪が、純金みたいに、きらめいています。


「じゃあ、行くぞ」

「はい」


「とつぜん、断崖の塔に現れた兵士たちに、おれ、リンデ、シャルランの三人は、連続殺人犯として連行される。城の地下室に幽閉されるものの、王女付きの侍女、マルグリーテの助けで脱出。


 しかし、マルグリーテは裏切り者だった? おれたちと姫を古井戸につきおとす。井戸内部の秘密通路を使い、からくも脱出。


 弟らしき人形師ベリーヒトの屋敷へ向かう。

 ベリーヒトはすでに兵士たちに、つれさられたあとだった……と、こんなところかな?


 補足として、城内を逃亡中、左大臣の娘の死体を発見したことは、書いておかなければな」


「わあ、すごい。お芝居の口上みたいですねぇ。前回までのあらすじ」


「おれの人生、三十分ずつの一幕物の連続みたいなものだ。正確に三十分というより、気をぬくと忘れるみたいだな。今、書いて安心したから、きっと、もうじき、城であったことも忘れるよ」


「もっと、こまめに手帳に書いておけばいいじゃないですか」

「手帳を持ってることじたい、忘れるからな」

「ダメダメですねぇ」


 エイリッヒさんは傷ついたみたいでした。


「あ、すいません」

「おまえはポンコツだの、ダメダメだの、好き勝手言ってくれるな」


 ははは、と渇いた声で笑うので、なんかまた、チクンと胸が痛くなります。


「なんで悪口は忘れてくれないんですか。シャルラン、うっかりしちゃっただけです。エイリッヒさんは病気なんだから、しかたないって、わかってますよぉ」


「病気っていうか、前世のおれが大切なものをなくしたからだよ。それは、とても大事なもので、おれをおれとして形作るものだった。


 人間なら、心臓も肝臓も、腎臓も、肺も、脳みそも、ごっそりなくして生きてはいけないだろう?


 おれは精霊だから、かろうじて存在だけは残った。


 体の中身を全部なくして、残った手足や骨をつぎあわせ、皮をかぶせて、見てくれだけ人型っぽいものができあがってる。それが、今のおれだ」


 うう……なんででしょう。涙がこぼれます。


 シャルランを見て、エイリッヒさんが笑いました。

「なんで、おまえが泣くんだ。おれのことなんて、どうだっていいんだろう?」


「どうでもよくはないですよ。ご主人さまの……お兄さんですし」

「それだけ?」


 そんなキレイな顔で、のぞきこまないでくださいよぉ……。


「それだけって、なんなんですか。だいたい、エイリッヒさんには恋人がたくさん、いるじゃないですか」


 あたしは、たくさんってとこを強調しました。


「恋人なんていないよ。だって、誰のこともおぼえてない。なのに、なんでだろうな。シャルラン、おまえを見てると、誰かを思いだす。ずっと昔、おまえを知っていたような気ががする」


 ちょっと、ちょっと、抱きついてこないでくださいよぉ。でも……以前より、イヤじゃない……かも?


「薔薇の香りをかぐと、いつも胸がつぶれるほど愛しいのに、憎いような心地になる。悲しみと絶望に、うちひしがれる。


 だが、なぜだろうな。おまえの香りは快い。歌をうたい、踊り、手をとりあって語らった、あの毎日が楽しくてしかたがなかったころを思いだす」


 むぅん。なんで、エイリッヒさんの顔が近づいてくるんでしょう。アップで見ると、ほんとキレイですよ、この人。ドキドキします……。


 と、そのとき、窓のすきまからコウモリが入ってきて、


「ストップ。ストップ。お楽しみをジャマして悪いんだけどな。こんなチビ娘に手を出すのは、よくないって。エイリッヒ、おまえ、よりどりみどりなんだろ?」


 リンデさんに引き離されました。


 ドキドキ……なんだかわからないけど、ホッとします。ホッとっていうか、なんだろう。ホッとガッカリ……みたいな?


 エイリッヒさんは吐息をついて、イスにすわりなおしました。

「何か、わかったのか?」


「うん。やっぱり、おまえの仕業じゃないかもしれない。


 おかみさんが言うには、昨日もおまえはマチルダと飲んでた。おかみさんがほかの客の相手をして、次に見たとき、おまえは一人だった。


『マチルダは、どうしたんだい?』と聞くと、おまえは、こう答えた。『さっき知らない男と出ていった。そういえば、けっこう時間がたつな。何してるんだろう?』


 そして、『男ともめてるのかもしれない。見てくる』と言って、裏口から出ていった。それきり店には、もどってこなかったってことだ」


「ふうん……」


 エイリッヒさんは手帳にメモをとりながら考えこみました。


「おれが、もめてるかもしれないと思ったのは、たぶん、出ていったときのマチルダのようすが、喜んでるようには見えなかったからだろう。イヤな空気を感じたのかもしれないな。だから、見に行った」


「そうだよ。おまえが出ていったときには、マチルダはもう殺されてたんだ。もちろん、やったのは、その男。ビックリしたおまえは、マチルダを介抱しようとして、ナイフを手にとった。そこへ、おれがやってきたってわけだ」


 おお、それは説得力あるです。

 人間(ほんとは精霊だけど)の心理に合致するです。


「そうか。すると、おれは殺人犯の男の顔を見てるってことか。とっくに忘れてしまっているが」


 リンデさんは大げさに首をふります。

「相手は、そうは思ってないだろうよ。おまえの特殊な事情なんて知らないんだから」


 エイリッヒさんは腕を組みました。


「おれの口から自分の罪が露見すると考えたんだな。ふつうの男なら、さっさと町から逃げだすんだろうが、この男は、そうはしなかった。


 かわりに、おれのほうこそ殺人犯だとウソの証言をして、おれを処刑させてしまうことで目撃者を始末し、殺人事件に終止符を打ってしまおうと考えた」


「そんなに、うまくいくか? おまえがマトモな男なら、じつは犯人の顔を見たんです。あの男が、おれに濡れ衣をかぶせたんだと言うだろ?」


「城内で妙な動きがあったろ? 犯人か、犯人の仲間が城にいる。つまり、殺人犯は城の誰かと通じてるんだ。自分の主張が有利に運ぶことを知っていた」


癒着ゆちゃくってやつか。なんかの利害で共犯者がいるんだな」


 うーん。高度な話には、ついていけません。


「もちろん、やつらは、おれが断崖の魔術師だとは思ってないだろう。知っていれば、冷酷無比な魔法使いに罪を着せれば、どんな仕返しを受けるか、想像がつくだろうからな」


「とにかく、ウソの証言をした男が怪しいんだよな」と、リンデさん。


「その男じたいが犯人なのか、犯人にやとわれてウソをついたのかまでは、まだ、わからないが。でも、犯人とつながりがあるのは確実だ」


 ふうん。頭のいい犯人ですねぇ。

 シャルランには考えもおよびません。

 あれ? でも、その男って……。


「ああっ、そうだ。見ましたよ! その男。ものすごい外国なまりの船乗りっぽい人で、むさくるしいヤギひげに、赤いバンダナ。おまけに前歯が一本かけてましたっけ」


「ほんとか? でかしたぞ。シャルラン」


 エイリッヒさんが、ガシッと、あたしの両肩をつかむので、また、なんかドキドキしてくるんですよね。なんなんでしょうね。


「ちょうど、あたしとご主人さまが、お城にいるときに訴えてたんです」


「船乗りなら、積荷にかかる税金をかるくしてもらうために、役人に袖の下をつかませることもあるな。それで、つながりができたのかもしれない」


 あたしは、がぜん、やる気になりました!


「よーし、その船乗りさん。見つけて、捕まえるです!」

「その前に、まず変装だな。でないと安心して人前に出られない」


 それも、そうですね。

 でも、変装って、どうするでしょう?




 *



 エイリッヒはまっさきに変装を終えて、書斎で、みんなが出てくるのを待っていた。


「おお、似合うね。エイリッヒ。黒髪。断崖の魔術師を名乗るなら、そっちのほうが迫力あるぞ」と言いながら、リンデが扉をあけて入ってくる。


 エイリッヒは髪を黒く染め、商人にも狩人にも休暇中の兵士にも見える平凡な服を着ている。


「そういうおまえも、なかなか似合ってるよ。ちょっと目つきがするどいが、いちおう裕福な家のおぼっちゃんに見える」


 リンデはサイズがちょうどよかったので、この家の主人ベリーヒトの服を拝借している。ふだん黒ずくめなので、黒以外の服を着ただけで、ずいぶん、ふんいきが違う。


「おまえが黒以外を着てるとこ、初めて見る……気がする」

「おれが黒しか着ないのは、おまえが見わけやすいようにだ! いろいろ服かえると、おぼえてくれなかったじゃないか」


「そうか? 悪かったなぁ」

「悪いなんて思ってないくせに……」


 ブツブツ言ってるので、エイリッヒは話題をそらした。


「シャルランたちは、まだなのか?」

「あいつには化粧道具、渡しといた。ちゃんとできてるのかな? あいつ、いつも、すっぴんだろ」


「お色気なしだからな。もう少し艶っぽければ、旅の夫婦ってことにしたのに」


 冗談のつもりだったのだが、リンデは変な顔をした。


「なあ、エイリッヒ。そりゃ、シャルランは、いい子だ。まっすぐで、明るくて、いっしょうけんめいで可愛い。でも、見ただろ? あの地下牢のなかで」


 エイリッヒは口をつぐんだ。

 じつを言うと、そのことを手帳に補足するために、こっそり一人で書斎に、もどってきたのだ。シャルランの前では、とても、そのことは書けない。


「あの子は、やめときなよ。ベリーヒトの所有物だ」


「違う。あの子は精霊だ。自分では人間だと思ってるみたいだが、魂の形でわかる。あんなにけがれのない魂が、人間であるはずがない。精霊でも、めずらしい」


「どっちみち、なんか、わけありだ。でなきゃ、あんなことにはなってないよ」

「おれと同じだな。大切なものを、あの子もなくしたんだ」


 しかたなさそうに、リンデは肩をすくめた。


「まあ、恋愛は自由だよ。あんたが泣くとわかっててもね。じゃあ、おれは、そのわけあり娘がどうなってるか、見てくる」


 リンデが出ていったあと、エイリッヒはペンをとりなおし、手帳に文章をしたためた。


 さっきの推理の内容と、これから港へ船乗りを探しに行くことを書いて、ペンを置く。


(前回のあらすじ……か)


 ほんとは、エイリッヒだって、もっと詳細に書いておきたい。


 リンデとの毎日のたあいないやりとりで、ふっと心があったかくなったとき、その思い出が消えてしまうのは惜しいと思った。


 だが、詳細に書きすぎると、あとで読み返したとき、ほんとに重要なことがなんだったのか、わからなくなる。泣く泣く、あきらめているのだ。


 これまで、いったい、どれほどの数の思い出が、自分の内から、こぼれおちていったのだろう。

 ささいだけれど大切な思い出。

 愛しい記憶の結晶たち。


 ほんとは、どの一つも失いたくなかった。


 失われ続けるこの生が、これからも果てしなく続いていくのだ。どこかで終わらせることはできないのか。


(あの香りの持ちぬしを探しあてれば……そして彼女から、おれの捧げたものをとりかえせば、おれは以前のおれに、もどれるはずだ)


 わずかに残る前世の記憶を、エイリッヒが必死にたぐりよせていたときだ。

 デスクの上に立てられた本が、一冊、コトリと倒れた。


 エイリッヒは、なんとなく、その本を手にとった。

 そしてタイトルを目にした瞬間、心臓が止まりそうになった。



『白い薔薇と赤い薔薇の寓話』



 それは、手描きの彩色画を本に装丁した自家製本らしかった。文字も手書きの美しい絵本だ。


 エイリッヒはふるえる指で、本をひらいた。




 *



『白い薔薇と赤い薔薇の寓話』



 それは古い古い昔の話です。

 人間が生まれてくるより、ずっと昔のこと。


 そのころ、世界には、たくさんの精霊が住んでいました。


 大地には、あらゆる四つ足の獣やトカゲや蛇、カエル、昆虫や樹木の精霊が。

 空には鳥の精、水のなかには魚や貝の精がいました。


 精霊たちは争うことなく、平和に暮らしていました。


 あるとき、南から来た蝶の精が、白薔薇の精のもとに舞いおりました。


「なんて甘い匂いのする精霊だろう。ねえ、お嬢さん。あなたの蜜をわけてください。長旅を続けて、とても疲れているんだ」


「いいわ。蜜はたっぷりありますから。わたしたちの蜜は、あなたたち蝶の精霊には、ごちそうですものね」


「ありがとう。これで、のどがうるおいます。わたしは蝶の王子。遠い国から花嫁をさがしにきました」


「あなたたちは自由に空をとべて、うらやましいわ。わたしたち花の精は、生まれたところから動くことができないの。だから、大事な伝言を、あなたたちに、たのまなければなりません」


 花の精たちは、どれも、みんな、とても美しいけれど、根っこを地面にしばられていないと生きていけないのです。


 空を飛ぶ楽しみを知らないなんて……それどころか、生まれた場所から一歩も歩くことができないなんて、なんてかわいそうな種族だろうと、蝶の王子は思いました。


 同時に、どこへでも飛んでいける自分のキレイな羽が自慢でした。その羽の美しさは、花の精たちにも劣りません。


 王子は白薔薇の精に同情しました。


「では、いつか今日のお礼に、わたしがお役に立ちましょう。あなたが誰かに、ことづてしたいときに」

「ぜひ、たのみますね」


 蝶の王子と白薔薇の精は約束をかわしました。


 それから、しばらく、蝶の王子は白薔薇の精の近くで、仲間の蝶の精霊をさがしました。


 アゲハ蝶やモンシロチョウ、シジミ蝶。

 いろいろな仲間に会いましたが、なかなか花嫁にしたいと思うほどの精霊には会いませんでした。


 さがしつかれて、ガッカリしたときには、王子は白薔薇の精の葉かげで羽を休めました。そのたびに白薔薇の精は優しく、なぐさめてくれました。


 白薔薇の精は、蝶の精霊が大好きな甘い匂いがするし、優しく、美しい。


 王子は白薔薇の精が、蝶の精霊だったらよかったのにとさえ思いました。


「白薔薇さん。あなたが仲間じゃないのが残念でならないよ。あなたの白い花びらは、わたしの青い羽に、とてもお似合いだと思うんだけどね」


「そうね。わたしも蝶の精霊だったなら、自由に飛びまわれたのにね。でも、王子。あなたは、きっと素敵な仲間を見つけるわ。そのときには遠くへ行ってしまうのね。さみしくなるわ。わたし」


 そう言われると、蝶の王子の胸は痛みました。

 あまりに仲よくなったので、なんだか白薔薇の精と離ればなれになるなんて、考えることもできません。


 だけれど、花嫁が見つかれば、生まれた国へ帰らなければなりません。お父さまやお母さまが王子の帰りを待っています。


「いいや。わたしは帰らない。ずっと、あなたのそばにいる」

「そんなことはできないわ。だって、あなたは蝶の精。自由に飛ぶのが宿命よ」

「それはそうだが……帰らないよ。花嫁が見つかるまでは」


 それからというもの、王子の花嫁さがしは熱が入りません。このまま見つからなくてもいいと思うようになりました。


 白薔薇の精と暮らす日々が、とても幸せだったからです。このときが、ずっと続けばいいと思いました。


 けれど、そんな、ある日のことです。


 白薔薇の精のいる丘の上から、よく見える場所に、赤い薔薇が咲きました。歩きまわることのできない花の精には、手のとどく距離ではありませんでしたが、大きな声を出せば、話すことはできました。


「やあ、初めまして。白薔薇さん。こんな近くに仲間がいるなんて、ぼくはなんて、ついてるんだろう。これから毎日、話ができるね」

「ええ、そうね。赤薔薇さん」


 白薔薇の精は思いました。


(なんてキレイな赤い色でしょう。おひさまのなかで燃える冠のようだわ)


 赤薔薇も思いました。


(清らかで優しそうな精霊だ。あの花びらは、かがやく満月のようだ)


 白薔薇と赤薔薇は、おたがいに、ひとめ見て、相手を好きになりました。


 毎日、たくさんの話をして、いっしょに歌いました。

 まるで生まれたときから、ひとかぶの幹から生えた花のように、相手がなくてはならないものになりました。


 白薔薇の精と赤薔薇の精は、結婚することにしました。


 それで、蝶の王子にお願いしました。


「蝶の王子さま。約束のときです。わたしたちの大事な結婚のしるしを、赤薔薇さんから受けとってきてください。わたしは、ここで待っていますから」


 蝶の王子は白薔薇の精にたのまれて、心が二つに引き裂かれそうな気がしました。


 そうです。蝶の王子は種族は違うけれど、もうずっと前から、白薔薇の精を好きだったのです。


 白薔薇の精をほかの精霊にとられると思うと、体じゅうが燃えるように苦しくなりました。


 王子は白薔薇の精のことづてをとどけるために、赤薔薇の精のもとへ行きました。ですが、口から出たのは、ウソの言葉でした。


「赤薔薇さん。白薔薇さんは丘の上に咲く、ほかの薔薇と結婚することにしたよ。同じ白い花の咲く精霊のほうがいいんだそうだ」


 赤薔薇は傷つきました。

 蝶の王子の言葉をたしかめようにも、彼には丘の上まで歩いていくことはできません。


 丘の上に、ほかの薔薇の精なんていないことを、知ることはできなかったのです。


 傷ついた赤薔薇は、とたんにしおれて、みるみるうちに枯れてしまいました。


 王子は、ほっとしました。

 これでまた、白薔薇と自分だけの楽しい日々が帰ってくると思ったのです。


 けれど、なんということでしょうか。


 王子が白薔薇のもとへ帰ると、赤薔薇が枯れるのを見た白薔薇は、悲しみのあまり、そのまま自分も枯れてしまったのです。


 王子のついたウソは、赤薔薇だけでなく、大好きな白薔薇も死なせてしまいました。


 王子は自分のあやまちに気づき、なげき、悔やみました。が、すべては終わってしまったあとでした。


 蝶の王子は白薔薇のいなくなった丘の上で、いつまでも悲しみの涙をながしました。


「わたしがまちがっていた。どうか、精霊の王よ。白薔薇と赤薔薇を生きかえらせてください。わたしの命はいりませんから」


 王子は来る日も、そこで祈り続けました。

 そして、ある寒い日の朝に、ひっそりと息をひきとったのです。


 王子の羽は、白薔薇のいた大地に、とけて消えていきました。


 どれほど月日がたったことでしょう。


 いつか、その場所に、新しい薔薇が咲きました。

 その薔薇の精は、生まれたときから大地を離れ、歩くことができました。


 蝶のように飛ぶことはできませんが、好きな人のもとへ、自分で歩いていくことができるのです。


 花は、ふしぎな青い色でした。




 *



 読み進むうちに、エイリッヒは激しい酩酊感におそわれた。


 心の奥底で、底流のように、次々と流れていく映像があった。


 どこか遠くで起こることのように、ぼんやりと、かすんでしか見えないが、だが圧倒的な力を持つ記憶。


 窓の外で荒れ狂う濁流が、すぐそこまで迫ってきているのを、くもりガラスのなかから見ているような、不安な気配。


 知っている。

 おれは、この話を知っている。


 いや、これは、おれだ。

 ここに書かれているのは、おれの物語だ。


(そうだ。おれの愛した白薔薇の精。おれは、おまえに裏切られた。あれほど誓いあった愛を、おまえはひるがえした)


 やっと、わかった。

 きっと、おれは、この赤い薔薇だ。

 だから、いつも、白薔薇の幻影を追いもとめ、なおかつ愛しさとも憎しみともつかない感情にまどわされるのだ。


 だが、その結果も、この本によれば、蝶の王子の奸計だった。白薔薇は悪くない。悪いのは、みんな、蝶の王子だ。


 気がつけば、エイリッヒは涙を流していた。

 絵本のページに、涙の粒が、ぽたぽた落ちて、彩色に丸い、にじみを作っていく。


(白薔薇……おまえに、会いたいーー)


 そのとき、カチャリと扉がひらいた。

 リンデとシャルラン、王女が入ってくる。


「お待たせしました。お化粧なんて初めてなんで、シャルラン、大苦戦しちゃいました」


「いやぁ、ビックリした。こいつの顔、すげぇことになってんだもん。なおすの大変だった……って、おい、エイリッヒ?」


「どうしたんですか? エイリッヒさん。お腹、痛いですか?」


 心配げにかけよってくるシャルランを、エイリッヒは見つめた。


 まちがいない。彼女は精霊だ。

 リンデがなんと言おうと、精霊の魂を持っている。


(薔薇の香り……シャルラン。おまえが、そうなんだな?)


 どこかで見たことがあるような気がしたはずだ。

 彼女こそ、エイリッヒが探し続けていた人。

 かつて愛した、白い薔薇……。

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