第37話

 背に掛けてある『飢狼刀』のせいか、灰犬は人では出せぬ速さで地を駆けていた。

 腹の底から力が湧いてくる。それと同時に凄まじいまでの飢餓感が襲ってくるが、飢えには慣れていた。

 灰犬が通る道には、死体が転がっていた。あの女性が、見る者全てを斬り殺していったのだろう。


 『飢狼刀』は、持つ者全てに凄まじいまでの飢餓感を与えるという。『飢狼刀』の所持者は狂ったように、周りにいる命あるものに斬りかかるのだそうだ。

 恐ろしいのは、所持者が人間離れした身体能力を手に入れてしまう事と、『飢狼刀』に触れた物質は崩壊し、エネルギーが消滅するという性質がある事だ。風の噂では概念すら消滅させるとか。


 本当は、この『飢狼刀』のせいで死んでいった者全てに頭を下げたかった。だが、止まる訳にはいかない。灰犬は、足を止めなかった。

 『飢狼刀』の力は恐ろしいもので、一時間もしない間にガドルム帝国の国境が見えてきた。見回りをしている兵を無視して走り抜け、灰犬は知らない土地を、しかし迷わず真っ直ぐに駆けていく。

 何処へ向かえばいいかは分かっていた。灰犬の中の子狼が父を呼んで吠えている。背に掛けた母親が、夫を呼んで鳴いていた。そして、向かう先から、父親の怒り狂う声が聞こえる。

 子供を返せ、妻を返せと、絶えない怒りの声を上げているのだ。


「今行くから、待っていろ……!」


 灰犬は、足に力を込めた。


 行き先まであともう少し、という所に、何百人もの重装備の兵士達が待ち構えていた。


「止まれぃ!!」


 一番先頭にいたドワーフの指揮官と思われる男が、大声でそう言ったのを聞き、灰犬は立ち止まった。

 ドワーフを見て、灰犬の瞳が真っ赤に輝く。頭の中で、殺せ、殺せと声が響く。

 だが、その指揮官の男に滝のような脂汗が浮かんでいるのを見て、灰犬は少しだけ冷静になった。


 指揮官の男は、灰犬に怯えていた。兵士達も、どこか及び腰だ。

 当然だ。この国に封印されていたのは、とんでもなく恐ろしい狂呪具が二つ。その恐ろしさは、きっと身に染みる程思い知っているだろう。

 だから、灰犬が恐ろしいのだ。今まで何千人もの命を奪ってきた狂呪具を、狂わずに所持している。それはつまり、灰犬の意思次第でこの国の国民が、簡単に何百人と死ぬ事を意味していた。

 兵士達の装備には、何処で知ったのか、火縄銃のようなものがあった。更に、兵士達の後方から、大量の鉄と火薬の匂いがする。多分、大砲か何かだろう。誰かが、火薬と銃の知識をガドルム帝国に与えたのだ。それでも兵士達が恐怖しているのを見ると、『飢狼刀』はそんな銃でもどうにもならない狂呪具なのだろう。

 灰犬は、簡潔に用を告げる事にした。


「狂呪具を、『怒狼刀』を返して……いや、貰いにきた。」

「あ、あの狂った刀を?」


 指揮官の男が、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で目を瞬いた。兵士達にも、困惑したような雰囲気が広がっていく。

 灰犬は、溜息を吐いた。


「何だ、この場で全員皆殺しとでも言うと思ったか?それとも、『飢狼刀』を返しに来たとでも?」

「いや、まあ……」

「確かに全員、皆殺しにしてやりたいよ。『飢狼刀』と『怒狼刀』が作られる原因となったドワーフどもは特に。

 だけど、それよりも優先する事がある。約束したんだ。会わせてやるって。

 だから、今は見なかった事にする。何事もなく『怒狼刀』が手に入れば、俺は黙ってここを去ろう。」


 灰犬がそう言うと、兵士達から歓声が上がった。指揮官の男が、あからさまにほっとしたような顔で頷いた。


「そういう事なら、喜んであれを差し出そう!いやぁ、良かった良かった!これで、我が帝国は安泰だ!

 あの狂った一家が生み出した狂呪具にはうんざりしていたんだ!狂呪具を管理するなどという名目で帝国に居座っていたが、これでようやく追い出せる!」

「誰が、狂った一家ですって?」


 諸手を上げて喜ぶ指揮官の男だったが、不意に、冷や水をかけるような女性の声が響き、辺り一帯がしん、と静かになった。


「何を寝ぼけた事を言っているのです。あれは、あの刀は我が一家の宝なのですよ!我が祖父の未練を晴らすため、我らが一貫となって完成させねばならぬ武具なのです!はやく、あのガキから取り上げなさい!」

「おい馬鹿、やめろ!!誰か、こいつを止めろ!」


 指揮官の男が、顔を真っ青にして叫ぶが、女性は止まらなかった。


「お前もそこに突っ立ってないで、早くその刀を寄こしなさい!その刀は、我が祖父が作った未完成の刀。祖父はもう完成させることができないと失意の内に自害なされてしまいましたが、だからこそ、我らがその刀を完成させねばならぬのです。

 お前のようなガキが持っていいようなものではないのですよ!」


 その言葉に、灰犬の頭の中で、何かが切れる音がした。灰犬の目が、赤黒く濁っていく。

 それを見た指揮官の男が、目を見開いて声を張り上げた。


「総員、構えぇぇぇ!!!」


 兵士達が、槍を、盾を、銃を構え、灰犬に向けた。


「未完成、か。」


 灰犬は、使い慣れたナイフを抜いた。


「ふざけるなよ。お前らのせいで、あの子がどれだけ悲しんだと思っているんだ。お前らが、あの子から親を奪ったせいで、どんな苦しい思いをしたと思っているんだ。

 ずっと寒かった。ずっとひもじかった。ずっと、ずっと寂しかったんだ。

 それが、お前には分かるか?」


 ナイフを逆手に持ち、血のように濁った目で、女性を見た。


「分からないだろうなぁ、お前には。

 だから……」


 灰犬から、真っ黒な雷がほとしばった。髪が逆立ち、雷が当たった地面が爆ぜる。


「お前は、死ね。」

「う、撃てぇぇぇっ!!!」


 迫る弾幕の壁に臆する事もなく、灰犬は弾かれたように前に飛び出した。

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