第36話
『どこ……?』
裂かれ、空いた空虚な腹を抱えながら、白い母親は彷徨う。
『私の子は、どこに行ったの……?』
その言葉は、深い悲しみに沈んでいた。
『私の夫は、どこに行ったの……?』
その声は、孤独に震えていた。
『ああ、あア……』
その、真っ赤な目は。
『お腹ガ、スイたわ……』
満たされぬ飢餓に、輝いていた。
それを、灰犬は、遠い所から、『蠢く眼差し』を通して見ていた。
偶然か、必然か。灰犬の目と、白い母親の目が、合った。
「『見つけた。』」
その日、スデープの屋敷は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
実は数日前から、ガドルム帝国で封印されていた狂呪具、『飢狼刀』が何者かによって持ち出され、ガドルム帝国からこの国の間で殺人事件が起きている事が分かっていた。
だが、その『飢狼刀』と灰犬が何かしらの因縁があると悟っていたスデープは、灰犬が暴走する事を恐れ、その事を伝えなかった。
その結果が、灰犬の失踪だった。
ノワールが居た頃の習慣で、キュレウは灰犬を抱きしめて眠るのだが、朝起きると、自分の腕の中には誰もいなく、代わりに机の上に「約束を守る為に、取り戻しに行く。もう、戻れないかもしれない。今までありがとう。」と、置手紙が置いてあったのだ。
執務室の机に着いていたスデープは、顔を顰めたまま頭を掻き毟った。
「まさか、適正者殿がこの件を知っていたとは……」
溜息を吐くスデープに、机の向かい側に立っていたキュレウは、置手紙を握り閉めた。
「きっと、『蠢く眼差し』で知ったんだわ……灰犬は、ずっとその狂呪具を探していたもの。そして、あなたがこの件を黙っていたのも、それで分かったのでしょうね。
だから、あいつも黙って行ったのよ。」
キュレウは、置手紙を放り捨てて踵を返した。そんなキュレウに、スデープは眉根を寄せた。
「何処へ行くつもりだい?」
「当然、灰犬を追うわ。あいつ、止まるつもりは無いみたいだから。」
そう言って、キュレウは懐から『蠢く眼差し』と『減らないお菓子』を取り出した。
「これを置いていったって事は、そういう事よ。」
「な、何だと!?狂呪具を置いていったのか!?何という事を!?」
椅子から勢いよく立ち上がるスデープから視線を外し、キュレウは二つの狂呪具を懐に仕舞い、部屋を出た。
「そして、これを私の元に置いていったって事は、私が止めに行くのも止めないって事よね。
何が何でも止めてやるわ。私を置いていった事、後悔させてやる。」
キュレウは、その目に決意を込めた。
一目見た時から、これしかないのだと気付いた。
運命とか、必然とか、そういう言葉では片付ける事のできない、絶対的な何かが、灰犬を支配している。
こんな個人的な事に巻き込んでは悪いと、二つの狂呪具と一人の少女は置いてきた。だが、まぁ、あいつだったらきっと止めに来るだろう、と、灰犬は心のどこかで確信していた。
でも、もう、止められないのだ。例え灰犬がそれに抗おうと、向こうからそれはやってくるだろう。
だけど、少しだけ、躊躇う気持ちも灰犬にはあった。
あの狂呪具を使ってしまえば、きっと、もう戻れないだろう。今まで化け物の領域に片足を突っ込んだまま生きてきた。あの狂呪具を使えば、きっと、人間ではなくなる。人間でなくなれば、今までの日常は望めない。
そんな日常を手放してしまうのが、残念だと思う気持ちが灰犬にはあった。
だけど、もう止まるつもりはない。
そして、既に手遅れだ。
「ああ、あああ……」
導かれるように、まっすぐに歩いてきた灰犬の目の前に、血で塗られたかのように薄い赤色の刀身の刀を握った、どう見ても正気では無い、涎を垂らしている女性がいた。
そして、灰犬にだけ、その女性に重なるようにして、真っ白な毛の狼が見えていた。
『ああ、良かった!そんな所にいたのね!さあ、おいで、我が子よ……』
そう言って、大口を開けて襲いかかってくる狼と、刀を構え、こちらに突っ込んでくる女性。
灰犬は、溜息を吐くと、片手にナイフを構え、呟いた。
「そんなにがっつくなよ。焦らなくても、子供にも、夫にも会わせてやる。」
灰犬は首目掛けて迫る刀の切っ先をナイフで弾くと、狼の幻影を無視して女性の懐に跳び込み、ナイフの柄で刀の持ち手を弾いた。
勢いよく横に弾かれた腕から、刀がすっぽ抜ける。灰犬は、流れるようにその刀を取ると、ナイフを持っている方で裏拳を放ち、女性のこめかみの僅か上当たりを強打した。
膝から崩れ落ちる女性を受け止め、地面に寝かせる。
灰犬は、片手に収まった刀を見た。
その刀の名は、『飢狼刀』。この刀のせいで死んだ人の数は、あの『真っ赤な縄』をも超えると言われる、とんでもない狂呪具だ。
刀身は血で塗られたかのように薄い赤色で、長さは灰犬の身長を優に超える。二メートルは超えているかもしれない長さだ。
鞘の表面には真っ白な毛皮が使われており、刀の峰に当たる部分に牙が交互に付けられ、そこが開くようになっていた。刀身が長すぎて、鯉口から抜くことができないからだろう。
刀は、まるでそこにあるのが当たり前であるかのように、灰犬の手にすんなりと馴染んでいた。
試しに振ってみれば、赤い残光が刀の後を引いていく。『飢狼刀』から、凄まじい飢餓感と歓喜が伝わってきた。
灰犬は、『飢狼刀』を鞘に入れると、背中に斜めに掛けた。
「さぁ、行こうか。ガドルム帝国へ。」
そう言って、灰犬は目にも止まらぬ速さで駆けて行った。
残ったのは、真っ赤な二つの残光だけだった。
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