第35話

 『真っ黒な絵画』が消えた後に残ったノワールの絵画は、灰犬とキュレウの判断で、美術館に寄贈する事に決めた。

 美術館の一室に飾られ、絵画を絶賛する人々を遠目に見ながら、灰犬とキュレウは少しだけ寂し気に笑っていた。

 そんな二人に、ついて来ていたベムナントが声をかけた。


「もったいないことです。国王が大金で買い取ると言っていましたのに……無償で美術館に寄贈してしまうなんて。」

「もったいなくないさ。これでいい。むしろ、強引に国王が買い取るだなんて言ったら、その首掻き切ってやったところだ。」


 冗談など感じられない声音でそう言う灰犬に、ベムナントは大量の冷や汗を流した。

 ちらりと灰犬の隣にいるキュレウを見るも、いつも灰犬の暴走を止めるキュレウは、当然だといった様子で頷いていた。

 ベムナントは、美術館から絵を買い取る計画を立てていた大臣に申告して止めるように言おうと決意した。『真っ赤な縄』と互角にやりあった灰犬とキュレウが殺しに来るなど、誰も太刀打ちできないに決まっている。本気で国王の命が危ない。

 ベムナントは、誤魔化すように咳払いをして言った。


「び、美術館に寄贈した訳を聞いても?」


 少しだけ引き攣った声で言ったベムナントのその言葉に、灰犬はちらりとベムナントを見遣った。


「……彼女には、幸せになって貰いたいからね。もう、人の欲望なんかに振り回されて欲しくなかった。」


 灰犬はそう言うと、真っ赤に染まった瞳でベムナントを射抜いた。


「忘れるなよ。狂呪具は、お前ら人間の勝手な欲望や独りよがりな願いで生まれた。

 ノワールは、それにずっと振り回されてきた。ずっと振り回されて、絶望しかけた。それでも、彼女は、自分の欲望よりも、誰かの願いを優先したんだ。

 その思いを、汚すなよ。もし、今度、彼女を自分勝手な欲望で汚そうと言うなら……」


 灰犬は、殺意を剥き出しにして睨み付けた。


「地獄の底まで追いかけ回して、生きている事を後悔させてやる……!」


 毛を逆立てて唸る灰犬の頭を、キュレウがポンと叩いた。


「犬みたいに唸らないの。はしたない。」


 やっと止めてくれるのかと、期待の目を向けるベムナントに、キュレウは冷たい目で笑みを浮かべた。


「いいのよ。そういう奴は、虚勢してやればいいんだから。」


 キュレウのその言葉に、ベムナントは真っ青な顔で思わず股を押さえた。

 ベムナントは、国王や大臣の性別が変わらぬよう、全力で絵画買い取り計画を阻止する事を、もう一度固く決意した。



 美術館からスデープの屋敷に帰り、自分の部屋に戻った二人は、部屋に飾られた絵画を見つめた。

 それは、ノワールが消えた後、部屋に隠されていた、ノワールからのプレゼントだった。

 題名は、「ありがとう」

 描かれていたのは、満面の笑みを浮かべる黒かった頃のノワールと、その両隣で、ノワールと手をつないで笑う灰犬とキュレウだった。

 もうノワールとは話す事も笑い合う事もできないけれど、確かに、残ったものがここにあった。

 そんな、二人に大切に飾られている絵画とは別に、部屋の片隅に放置されているものがあった。

 『真っ赤な縄』を退けた事と、狂呪具を普通の物に戻したという快挙に対する、国王からの感謝状である。であるのだが、二人は王城への召喚を無視し(この時二人はノワールの絵画を美術館に寄贈していた)、スデープが代わりに受け取りに行った挙句、その感謝状を放置するという暴挙に出ていた。

 こんな事をやらかしていても許されているのは、それだけ二人がやった事が世界にとって偉業だったからである。

 『真っ赤な縄』は、会ったら死ぬしかないとすら言われる程、対処法も対策も存在しない、恐ろしい狂呪具であった。それを死人無しで退けたばかりか、その後で『真っ赤な縄』による被害がなくなったのだ。

 それに、狂呪具は、どうやっても、壊すことも消すこともできないものだった。それこそ、狂呪具を普通の物に戻すなど不可能だった。

 それが、『真っ黒な絵画』という狂呪具が、普通の絵画に戻ったのだ。つまり、狂呪具は何らかの方法でその異常性を消すことができることが判明したのである。それは、狂呪具によって恐怖と絶望に包まれていたこの世界の人々にとって、差し込んできた一筋の希望だった。

 そんな、人々にとっての偉業も、二人にとっては友との別れでしかなかった。だから、それを称賛されても、嬉しくなかったのである。


 それに、結局の所、『真っ黒な絵画』は完全には消えていなかった。

『真っ黒な絵画』の異常性の元である黒色は、絵筆に吸われた後、光の粒子となって消えてしまったが、二つだけ、絵筆に吸われなかった黒色があった。

 キュレウと、灰犬の手の甲に描かれた絵である。その絵は、見た者をおかしくする事は無いが、洗ってもこすっても落ちることはなかった。

 更に、灰犬にだけ、使えるようになった能力があった。

 体に巻いている包帯の継ぎ目を通して、『真っ黒な絵画』の中にある黒い海に干渉できるようになったのだ。

 『真っ黒な絵画』の黒い海とは、黒一色の絵画の中にある、異空間の事である。黒い触手のようなものも、ここから出ていたのだ。

 灰犬は最初それを知らなかったのだが、黒い海の中に仕舞ってあったノワールの絵日記を読んでそれを知った。

 ちなみに、このことはキュレウには黙っている。意地悪とかそういうのではなく、黒い海の中に仕舞ってあったのが洒落にならないものだったからだ。

 そこには、ノワールに体と魂を捧げたであろう人々の死体や、風景画や人物画、何を思って描いたのか、全身裸の女性の絵や、男性二人が唇を合わせて抱き合う絵など、いわゆる子供には見せられない絵が沢山あった。

 特に、その絵はキュレウには見せられない。女性の裸の絵は、まぁいい。良くないがいいとして。男性同士がキスする絵はいただけない。灰犬は、同性愛を否定はしないが、そういうのは自分がいない所でやってくれと思っている。それに、その絵を見て、万が一、キュレウが腐女子にでもなってしまったら目も当てられないのだ。

 死体は後で火葬してやるつもりだが、絶対にあの絵だけは見せないと、灰犬はキュレウを横目で見ながら肩を落とし、溜息を吐いた。

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