第34話
街の外に出たノワールが来たのは、冒険者に聞いた、森の中にある花畑だった。
後ろをついてきた二人に、ノワールは振り返ると、にこりと笑みを浮かべた。
「お二人に、伝えたい事があります。」
かしこまってそう言うノワールに、灰犬とキュレウは苦笑しながら頷いた。
ノワールは、頭を下げた。
「私と一緒にいてくれて、ありがとうございました。
絶望していた私を救い上げて、幸せをくれて、ありがとうございました。」
顔を上げて、ノワールは幸せそうに笑った。
「幸せでした。普通の女性としても、絵画としても。二人がいなければ、私は絶望して、あの『真っ赤な縄』のように死を振りまいていたかもしれません。
二人がいたから、今の私があります。二人がいたから……私は、成さねばならぬことに、気付くことができました。
だから、そろそろ、私は、終わろうと思います。」
そう言って、ノワールは、涙をポロリと零しながら、眉を下げた。
「でも、一つだけ。我儘を言っていいですか?」
ノワールの言葉に、キュレウは泣きそうになりながらも頷いた。
「勿論。一つと言わずに、いくらでも言いなさいよ。」
キュレウの言葉に、灰犬も頷く。
ノワールは、涙を拭いながら言った。
「手を……手を、出して貰っても、いいですか。手の甲を上に向けるように……」
一切の躊躇もなく手を出す二人に、ノワールは嬉しそうに笑ってから、黒い絵筆を取り出した。
その黒い絵筆は、ノワールが生まれるきっかけとなったもので。そして、ノワールという、狂呪具が生まれた原因でもあった。
そんな黒い絵筆を取り出したというのに、二人は手を引っ込めることも、動揺する事もなかった。そんな二人に、ノワールは感謝した。
ノワールは、黒い絵筆で、二人の手の甲に黒一色の絵を描いた。
灰犬には、狼の絵を。キュレウには、刀を抱く女性の絵を。
ノワールは、それを描くと、ほっとしたような表情を浮かべた。
「これで……私が思い残す事は、ありません。」
そう言って、申し訳なさそうな笑みを浮かべるノワールに、灰犬は片眉を上げた。
「例えお前が居なくなるのだとしても。一生、忘れるつもりは無かったけどね。これで、いいのか?」
灰犬の言葉に、ノワールは目を見開くと、唇を引き結んだ。
「聞いて、いたんですね。」
ノワールのその言葉に、灰犬は無言で頷いた。ノワールは俯くと、くすりと笑った。
「分かってて、手を差し出したんですか。本当に、あなたは……」
パッと顔を上げると、ノワールは灰犬に飛び付き、
灰犬の唇に、自分の唇を押し当てた。
キュレウが顔を真っ赤にして目を剥く中、ノワールは灰犬から唇を離すと、照れくさそうにはにかんだ。
「あなたが、好きでした。私を見てくれるあなたが、大好きでした。
でも、私は……あなたを、本当のあなたを見ることができませんでした。私はあなたの隣に居る資格はないけれど……でも、これくらいは許してください。」
ノワールにキスされても表情を変えなかった灰犬だが、獣耳はプルプルと震え、尻尾がピーンと立っていた。
灰犬は、唇を舐めると、眉を下げて、力無く笑った。
「許すさ。お前に手を差し伸べた時点で、俺はお前の全てを背負うつもりだったから。
……流石に、これは予想外だったけど。」
「そそ、そうよノワール!い、いきなりキスって……え?こんな奴が好きだったの!?」
キスされた灰犬よりも動揺して、真っ赤な顔でそう言うキュレウに、ノワールはくすりと笑った。
「はい。大好きでした。
その、ごめんなさい、キュレウ。あなたの未来の旦那様に……」
「違うわ!?まだ誤解してたの!?灰犬とはそんな関係じゃないから!そ、その、友人!友人だから!」
わたわたと手を振ってそう言うキュレウに、ノワールは片眉を上げた。
「本当ですかー?随分と親し気ですけど?」
そう言って揶揄うノワールに、キュレウは顔が赤いまま、眉根を寄せた。
「勘弁してよ……こんなおかしい奴の伴侶になるとか、本当にあり得ないから。」
「ねぇ、皆して酷くない?『蠢く眼差し』といい、キュレウといい。否定はできないんだけど。」
困ったような表情で、獣耳の裏を掻いてそう言う灰犬に、キュレウが顔を顰めた。
「自覚あるんだったら治しなさいよ。何で、皆、こいつのおかしさに気付かないのが不思議なくらいだわ。」
「治したら、死ぬんじゃないかな、俺。」
「大丈夫よ、あなたなら。……多分。」
「おい。」
ポンポンと会話のやりとりを交わす二人に、ノワールは声を上げて笑った。
笑って笑って……ノワールは、笑いをおさめると、黒い絵筆を両手に持った。
そんなノワールを見たキュレウと灰犬の顔に、寂し気な表情が浮かんだ。
「これで、お別れなのね。」
ぽそりとそう呟いたキュレウに、ノワールは首を振った。
「いいえ。私はこの世界から消えてしまうかもしれないですけど……あなた達の中で、私は生き続けます。」
「そっか。……そうね。」
「はい。そうです。」
そう言って、ノワールはにっこりと笑った。
そう思うからこそ、ノワールは、別れの言葉を口にしなかった。
「ありがとうございました。私は、ずっと、二人と共に……」
そう言って、ノワールは、胸に黒い絵筆を押しつけた。
その瞬間、黒い絵筆は、真っ黒な絵画や、ノワールにある黒を吸い込み始めた。
絵画がまっさらになっていき、ノワールの髪や目、服から色が抜けていく。
残ったのは、真っ白になった絵画と。
銀色のドレスを着た、黄緑色の長い髪と橙色の瞳のノワールがいた。
そして、狂呪具としても、終わりを迎えたのだろう。ノワールと真っ白な絵画から、白い粒子のようなものが出てきた。
どんどん姿を薄くしていくノワールに、キュレウは、思わず手を伸ばした。
「ノワールっ!!」
ノワールへと伸びたキュレウの手は……虚しく、ノワールを通り過ぎていった。
ノワールは、消えるその最期に、にっこりと笑って口を開いた。
「あの人を……よろしくお願いします。」
ハッと目を見開くキュレウの目の前で、ノワールは粒子となって消えていった。
残ったのは、人がすっぽり入るのではないかという大きさの額縁と。
その中にあった、銀色のドレスを着て、幸せそうに微笑む、黄緑色の髪と橙色の瞳の女性の絵画だけだった。
こうして、『真っ黒な絵画』という狂呪具は、その呪いから解き放たれ、一つの絵画へと戻ったのだった。
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