第33話

 『真っ赤な縄』に語るキュレウを見て、ノワールは分かってしまった。

 自分はやっぱり、絵画であって、人間ではないのだと。

 自分に、あの輝きは無いのだと。

 そう分かった途端に、ノワールの中にあった「人として生きたい」という蝋燭の灯のような思いが、フッと消えてしまった。だが、迷いも同時に消え失せた。

 ノワールが立ち上がると、『真っ赤な縄』は喚き散らしながら空を赤い縄で覆っていた。

 もはや、何を言っているのかも分からない。灰犬に意識を削られて弱った所を、キュレウの言葉で自らの信念に罅を入れられた『真っ赤な縄』は、あたり構わず暴れ回っていた。


 ノワールの胸の奥から、ふつふつと温かいものが湧き上がってくる。それは、灰犬とキュレウと共に過ごした思い出や、その中で感じた幸せだった。

 父の願いは叶っただろうか。ノワールは今、生きている。普通とはちょっぴり遠いけど、絵画のままであったら得られない日常を過ごすことができた。


「私は、幸せでした。だから……」


 ノワールが笑顔でそう呟くと、背負っていた白い袋が弾け飛び、真っ黒な絵画が剥き出しになった。


「私に、幸せをくれた二人を守る力を下さい……!」


 いつの間にか手の中にあった黒い絵筆を握り閉めると、真っ黒な絵画から無数の黒い触手のようなものが飛び出てきた。

 『真っ赤な縄』と、黒い触手がぶつかり、ギチギチとせめぎ合う。

 ノワールの着ていた白い服が黒く染まっていき、ボロボロと崩れていく。

 と、今まで必死に『真っ赤な縄』の攻撃を避けていた灰犬が、動きを止めた『真っ赤な縄』を見るや、黒い触手に躊躇う事なく飛び乗り、黒い触手の上を駆けあがって、『真っ赤な縄』に飛び付いた。


「いい加減くたばれ!」


 灰犬から、バチリ、と、紫電がほとしばった。

 魔術ではない、意識の波長を無理矢理電流へと変えたそれを纏いながら、灰犬は『真っ赤な縄』に噛みついた。


『~~~っ!?』


 強烈な意思の奔流を流し込まれた『真っ赤な縄』が、声の無い悲鳴を上げる。

 しばらく感電していた『真っ赤な縄』だったが、灰犬が電流を止めると、無数にあった縄を一本残して消えてしまった。

 口から真っ黒な煙を吐き出し、落下していく灰犬を、黒い触手が受け止めて地面に下した。

 屋根から降りてきたキュレウが、びっくりした表情で、ノワールに声をかけた。


「ノワール、あなたのその姿……」


 キュレウの言葉に、ノワールが自分の体を見下ろすと、そこには真っ黒なドレスを着た、本来の自分の姿があった。


「あれ、私……」


 黒い布の手袋を嵌めた手で、あちこちを触ってみるが、今まで着ていた白い服は消えてしまっていた。

 つまり、ノワールは隠していた本来の姿を晒していた。

 だが、キュレウは驚いて見ているものの、今までの人のように、おかしくなったりはしなかった。


 ―――ノワールの狂呪具としての異常性が、消えていた。


 その時、地面に落ちていた『真っ赤な縄』が、意気消沈しながら意思を漏らした。


『我は……間違っていたのか?

 今まで我を使って死んでいった者は、死ぬことで救われていった。

 妻を寝取られ、目の前で幸せを奪われ、何もかも奪われ絶望した男。

 魔物に辱められ、貴族として生きられなくなった少女。

 事故で家族を失い、自分だけ生き残ってしまった子供。

 故郷からいきなり攫われ、肉体を改造され、命令に背けぬよう隷属させられた、寿命の無くなった勇者。

 全員が、我で首を吊った。死に、救いを求めた。だからこそ、我は、皆を救いたいと思ったのだ。苦痛しかない生から、解き放ってやりたいと、思ったのだ。

 その、我の願いは、間違っていたのか……?』


 そんな弱音を漏らす『真っ赤な縄』に、ノワールが躊躇いがちに呟いた。


「あなたの誰かを救いたいという願いは、間違っていなかったのだと思います。

 でも、救いは……幸せは、一つではないんです。私の幸せが、子犬さんとキュレウと暮らす日常や、本当の私を見てもらう事だったように、人によって幸せは色々な形があるんです。

 あなたを使って死んだ人々には、確かにそれこそが救いだったのでしょう。でも、幸せが人によって違うように、救いの形も人によって違うんです。だから、きっと、救いは、死だけではないんです。」

『なら、なら、我はどうすればいいのだ!?死しかもたらせぬ我は、どうすればいい!?』


『真っ赤な縄』の慟哭に、キュレウに肩を貸して貰っていた灰犬が答えた。


「……お前を、正しく使ってくれる奴を探せばいい。」

『我を……?』

「そうだ。適正者を探せ。お前の願いと信念を共鳴してくれる適正者に、使って貰えばいい。

 適正者を通じて、人々の救いの形を学ぶんだ。自分一人で解決できないなら、誰かに頼ればいいんだよ。

 この世界には、様々な人間がいる。お前を正しく使える奴だって、どっかにはいるだろ。」


 そう言って、力無く微笑む灰犬に、『真っ赤な縄』はしばらく黙り込むと、空中に浮き始めた。


『そう、か。そうであるな。我は道具。なれば、使用者に身をゆだねるのも、また一つの形であろう。

 背負う者に、森人の娘に……絵画の娘よ。汝らに、礼を言おう。』


 『真っ赤な縄』は、そのまま空へと浮き上がると、何処へともなく、虚空へと消えていった。

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