第30話

 冒険者ギルドの一軒から数日後、ノワールは、胸の中にあるもやもやに悩まされていた。

 灰犬の能力によって、今までできなかった事ができた。狂呪具としてのノワールを知っていても、態度を変えないキュレウと友達になれた。

 幸せだ。だけど、何かが足りない。そう、ノワールは思うのだ。

 スデープの屋敷の灰犬達の部屋にある、椅子に座りながら、ノワールは足をぶらつかせた。


「キュレウ、いいなぁ……」


 無意識に、ノワールの口からそんな言葉が漏れる。

 ノワールの脳裏に、灰犬とキュレウの遠慮のないやり取りが思い浮かぶ。仲の良い二人。灰犬に折檻するキュレウ。

 そして、憂いのある目で灰犬を見つめるキュレウに、そんなキュレウを複雑そうな目で見つめ返す灰犬。

 そんな、口に出さなくても思いを通じ合えるような深い友情が、ノワールには羨ましかった。


「羨ましい。」


 ノワールは、腕を投げ出しながら、そう呟く。

 そして、ノワールの視界に、自分の白い袖が映った。


「私だって、これさえなければ……」


 そう言って、ノワールは、だぶついた袖を内側から握り締める。

 そこまで考えて、ノワールはハッと目を開いた。


「……私、何を考えて……」


 元々自分は、そんな事を望めない筈だった。それを、灰犬とキュレウの好意で好きにやらせて貰っているのだ。これ以上望むのは、分不相応というものだ。

 そう思うのに、ノワールは、自らの胸の内から噴き出してくるような欲望に、抗えなかった。

 自分を、見て貰いたい。白に隠された自分ではなく、父が命と魂を捧げてまで描いた、自分を見て欲しい。

 自分を見てしまえば、人は狂う。だから、キュレウは駄目だ。でも、灰犬は……。


「そうです、子犬さんなら、私を見ても平気だった子犬さんなら、きっと……」


 ノワールの身体が熱くなっていく。心臓の鼓動が早く脈打ち、喉がカラカラに乾く。

 それは、ノワールにとって、抗い難い強い欲望だった。狂呪具としてでもなく、女性としてでもない。

 ノワールという、絵画としての渇望だった。

 もはや、居ても立っても居られなくなって、ノワールは立ち上がった。



 自分を見て欲しい。

 ノワールがそう言うと、灰犬は即答で頷いてくれた。キュレウも、何かを察したような顔で、そっと部屋から出ていってくれた。

 ノワールは、自分が着ている白い服に、手を掛けた。今まで、誰かを傷付けない為に、自分の意思では脱がなかった服。この下には、脱げない黒い服を着た、本当の自分がいる。

 ノワールは、ギュッと目をつぶると、服を脱ぎ、顔にかかっていた薄布を取った。

 ノワールは、目を開け、恐る恐るといった様子で呟いた。


「どう、ですか……?」


 ノワールの視界に、驚愕したような表情で、目を見開く灰犬が映った。


「綺麗だ……」


 灰犬の、思わず零れた言葉に、ノワールは全身に電流が走ったような衝撃が突き抜けた。


「ああ、ああ……!」


 嬉しくて、嬉しくて、ノワールの瞳から涙が溢れだしてくる。

 これだ。この言葉が、欲しかったのだ。ただ、自分は見て欲しかっただけなのだ。

 ノワールは、気付いた。これが、自分の幸せだと。

 顔を覆い、床に膝を突くノワールの背を、灰犬が擦った。


「子犬さん……」


 ノワールは、涙を拭いながら、灰犬に満面の笑みを向けた。


「私、幸せです……!」


 ノワールの言葉に、灰犬も笑みを浮かべた。




 幸せだった。本当に、幸せだった。

 ノワールは、普通の女性だ。それと同時に、絵画でもある。

 絵画は、人々に見てもらう為に存在している。ノワールもまた、誰かに、本当の自分を見て欲しかった。

 だが、ノワールは絵画であると同時に、狂呪具でもあった。狂呪具の能力が、込められた狂気が、本当のノワールを隠してしまった。

 そんなノワールが、初めて灰犬に、普通の女性として、絵画として、見てもらえたのだ。



 その後、また白い服を着て、キュレウが部屋に戻って来た頃、ノワールは、ふと、気付いた。

 ノワールの手元に、あの真っ黒な絵筆があった。

 これを使えば、全てを終わらせる事ができる。自分の呪いも、狂呪具としての運命も。そう、ノワールは確信した。

 だけど、それは、灰犬やキュレウとの日常も終わってしまう事を意味していた。



 灰犬とキュレウが寝静まった夜、ノワールは、真っ白な画用紙に絵を描きながら、傍らに立てかけた真っ黒な絵画に語りかけた。


「私は、どうすればいいのでしょう……」


 画用紙に絵筆を滑らせ、描きながら、ノワールは沈んだ面持ちで言った。


「できるなら、こうやって、ずっとキュレウと子犬さんと一緒に暮らしていきたいです。

 最近までの日常は、幸せの連続でした。今までみたいに、誰かを殺してしまうんじゃないかって、怯えることもなく、日々を送る事ができました。

 私を怖がらずに友達として接してくれるキュレウや、私の本当を見てくれる子犬さんと一緒に暮らせるこの日常が、私は大好きです。

 でも……」


 ノワールの、絵筆を持つ手が止まる。


「私は、狂呪具です。存在するだけで人々に迷惑をかける、狂気が込められた道具です。そんな私が、果たして、このままでいていいのでしょうか……

 私は、消えてしまった方がいいのではないでしょうか。そう、思うんです。」


 ノワールは、画用紙から、絵筆を離し、鼻を啜った。


「本当は……」


 ノワールは、ぽろぽろと涙を零しながら、膝に手を置いた。


「本当は、私だって、このまま二人と一緒に生きたい。普通の女性として、この幸せを噛みしめたい。

 でも、そんな事をしていれば、いずれ、二人に迷惑がかかる。私の大好きな二人に、迷惑をかけてしまうんです……」

「そんなの、気にしなくてもいいのにー。」


 不意に、聞こえてきた子供の声に、ノワールは、ハッと顔を上げた。

 真っ黒な絵画の上で、子供の生首がニコニコと笑っていた。


「お兄ちゃんなら、きっと、あなたも背負ってくれるよ?」

「お兄ちゃんは、誰かの罪を背負うのも、思いを背負うのも、重荷とも思わないのに。」

「お兄ちゃんはちょっとおかしいから、迷惑かけたって、迷惑だなんて思わないよ。」


 最後の子供の生首の言葉に、横になって背を向けていた灰犬の獣耳がぴくりと動いたが、誰も気付かなかった。


「お姉ちゃんはどうだろう?」

「うーん、お姉ちゃんもだいぶお兄ちゃんに染まってきたから、大丈夫じゃない?」

「そうだね、大丈夫だね!」


 無邪気に笑い合う子供達の生首に、ノワールは涙を拭って、笑みを浮かべた。


「そうですね……きっと、子犬さんなら、気にしないでしょうね。

 だからこそ、私は……」


 ノワールは、自分の手に目を落とした。そこにあった黒い絵筆を見た時、不意に、自分がいなくなった後、二人はどうするのだろう、とノワールは思った。

 きっと、二人で幸せに暮らしていくのだろう。何時か結婚して、子供を作って、そして。

 自分の事も、忘れていくのだろう。


 そう思った瞬間、ノワールは、ゾッとするような、全身が震えるくらいの恐怖に襲われた。


「い、嫌だ。」


 絵筆を落とし、ノワールは震える手で顔を覆った。

 さっきまで、自分が消えて綺麗に終われればそれでいいと思っていたのに、そんな思いは根底から吹き飛んだ。


「そんなの、嫌だ。忘れられるなんて、嫌です……!」


 キュレウと灰犬に忘れられる。それは、自分が消えてしまう事よりも、ノワールにとっては、とても恐ろしい事だった。

 その時、指の隙間から、床に転がる黒い絵筆が目に入った。

 ノワールの目が、黒い絵筆に釘付けになる。抗い難い欲望を叶えてくれるその力に、ノワールの目が釘付けになった。


「……これを、使えば……」


 ノワールはそう呟き、吸い寄せられるように、絵筆を手に取った。

 ノワールの思考が、黒一色に染まる。

 そして、ベッドで眠る二人に目を向けた。

 ノワールは、椅子から立ち上がり、ベッドの方へと足を向け……


「……?」


 誰かが、ノワールの手を引いた。

 立ち止まって、自分の手を見ると、真っ黒な絵画から伸びた黒い触手のようなものが、ノワールの手に絡みついていた。


「あ……」


 それを見て、ノワールは我に帰った。父に、「それはしていけない」と、止められた気がした。

 黒い触手が、ノワールの前まで伸びてきた。ノワールは、触手を見て、そして、自分の手に握られている黒い絵筆を見ると、泣きそうな笑みを浮かべて、触手に黒い絵筆を渡した。

 触手は黒い絵筆を受け取ると、そのまま絵画の中に戻っていった。


「私は……」


 真っ暗な部屋の中、ノワールは、両手で顔を覆った。

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