第24話

 その存在は、見つめていた。


『余計なことを……』


 忌々し気に、呟いていた。


『あのままにしておけば、完成したというのに。』


 誰にも観測できぬ場所から、それを見つめていた。


『やはり、未完成のまま、目を離したのが間違いだったか……』


 一つしか無い目を、細める。


『まぁ、いい。我が同郷の者の手で解放されるのなら、我も許せる。』


 そして、その存在は、観測の目を逸らした。


『復讐は、まだ、始まったばかりだ。』





 灰犬とキュレウの部屋で、ノワールは部屋をきょろきょろと見回していた。


「これが、子犬さんとキュレウのお部屋……!」

「ちょ、子犬さんって……」


 灰犬の呼び方に、思わず笑うキュレウ。キュレウは、灰犬がどんな顔をしているのかを見ようとして、灰犬の顔を見た。


「……灰犬?」


 灰犬は、虚空を睨み付けていた。誰もいない空間を、でも、目の前にない何処かに居る誰かを睨み付けるように、灰犬は厳しい表情で睨み付けていた。


『……お前の復讐に、ノワールを巻き込んでたまるかよ。』

「え、灰犬?なんて言ったの?」


 いきなり知らない言葉を呟く灰犬に、思わず驚いて声をかけるキュレウ。そんなキュレウに、灰犬は、ハッとして振り向いた。


「……いや、なんでもないよ。ちょっとした独り言。」

「そう?」


 訝し気な表情で灰犬を見つめるキュレウに、灰犬は曖昧に笑って頷いた。

 キュレウが問いただそうと口を開いたとき、目を輝かせたノワールがキュレウと灰犬を見て言った。


「あの!子犬さんとキュレウさんは、夫婦なのでしょうか!」

「んなぁっ!?な、にゃにお言ってるのよっ!?」


 顔を真っ赤にして叫ぶキュレウに、ノワールは後ろのベッドを指して言った。


「だって、男女が同じ部屋で、一つのベッドを使って寝ているのでしょう!?これは、つまり!」

「違うわぁっ!!私はベッドを使って寝てるけど、灰犬はいつも床よ!」

「ええっ!?子犬さんを床で寝させているんですか!?何があったかは知りませんが、ふ、夫婦喧嘩は良くないですよ……!」

「ち・が・う!!」


 頭を抱えて仰け反るキュレウに、灰犬は半笑いで見ていた。灰犬がそんな様子なものだから、当然の如く、キュレウの怒りは灰犬に向いた。


「灰犬ぅ!あなたもへらへらしてないで何とか言いなさいよ!」

「えっと、床で寝させられているんじゃなくて、俺が好んで床で寝てるんだよ。ベッドじゃ寝れなくて。」

「ちがぁう!いや、それもそうだけど、そこじゃないわよ!」


 灰犬に人差し指をさしてそう叫ぶキュレウに、ノワールが神妙そうな表情で喉を鳴らした。


「つまり、夫婦なのに、一度も同衾した事がないのですか……!?」

「だから、夫婦じゃない!」


 そんなノワールの誤解を解くのに、キュレウは数十分もの時を要するはめになるのであった。



 キュレウの説得により、誤解が解けたノワールは、納得したような顔で言った。


「なる程、まだ結婚してないから、夫婦じゃなかったんですね!」


 誤解は完全には解けていなかった。

 キュレウは、疲れきった様子で、溜息を吐いた。


「もう、それでいいわよ……」


 ベッドに座り込むキュレウの隣に、ノワールも座った。


「あの、キュレウさんと、子犬さん。」


 ノワールの言葉に、キュレウと灰犬はノワールに顔を向けた。

 ノワールは、視線を彷徨わせた後、笑おうとして、失敗したかのような笑みを浮かべた。


「私の、お話を、聞いて貰っても、いいですか?」


 キュレウと灰犬は目をちらりと合わせると、無言で頷いた。

 灰犬が床に胡坐で座ると、ノワールは寂しそうな表情で、自分の空いている方の隣をちらちらと見た。

 キュレウが不承不承といった表情で、顎でノワールの隣を示した。灰犬は肩を竦め、ノワールの隣に座った。

 ノワールは、安心したような顔で微笑むと、語り始めた。


「二人共、ご存知の事だと思うのですが……私は、普通の人間ではありません。いえ、人間ですら、ないのかも……」


 ノワールは、自分の膝に目線を落とした。


「私は、お父さんが描いた、絵から生まれました。

 お母さんは、知りません。私が私として自我を持った時には、お母さんはいませんでした。私がお母さんの事で知っているのは、私はお母さんを模して描かれたという事です。

 お父さんは最初、私を、お父さんとお母さんの子供として描いたようでした。何故かは分かりません。子供が生まれる前にお母さんが死んでしまったのか、それとも、子供ができない体質だったのか。

 お父さんはしきりに私を見て、「私達の子だ」と言っていました。」


 ノワールは、膝に置いていた手をギュッと握った。


「お父さんがおかしくなったのは……しゃべる懐中時計が現れてからなのです。」


 キュレウは「しゃべる懐中時計?」と首を傾げたが、灰犬は目を鋭く光らせた。

 ノワールは、表情を固くする灰犬に気付かずに、言葉を継いだ。


「その時計は、お父さんに、黒い絵筆を渡しました。

 お父さんは、その絵筆で、私を黒く塗りつぶしました。

 私が次に気付いた時は、赤子だった私は、少しだけ成長していました。

 お父さんは、一心不乱に、私を黒い絵筆で塗り潰しては、少し成長した私を描いていきました。

 私は、成長していく事に、少しずつ動けるようになりました。でも、私が動けるようになっていく度に、お父さんは痩せ衰えていったんです……!」


 唇を引き結ぶノワールの、震える手を、袖の上からキュレウがそっと握った。

 ノワールは、キュレウの手を握り返しながら、顔を辛そうに歪めた。


「私、このままじゃ、お父さんが死んじゃうって、思って。

 言葉が話せるようになった時に、言ったんです。もうやめて、このままじゃお父さんが死んじゃう!って!

 でも、お父さんは、ギラギラした怖い目で、私を見て、私じゃない誰かの名前の人に、もう大丈夫だ、今度こそは幸せな人生を送れる、って……

 お父さんは、きっと、私を通して、お母さんを見ていたんだと思います。外にあったお墓に書いてあった名前と、その時に言った名前が、一緒でしたから……」


 ノワールは、空気を求める魚のように、口をパクパクと開閉した後、深く息を吸って言った。


「わ、私が、絵画の中から出られるようになった時、おと、お父さんが倒れて……!

 慌てて抱え起こしたお父さんは、枯れた木みたいにカサカサになってて、息も、もう、してなくて……!」


 ノワールは目をきつく瞑り、溢れそうになる涙を、溢れ出そうになる感情を抑えようとするように、白い袖で何度も拭った。

 それでも、耐え切れなかったのだろう。しゃくりあげながら、ノワールは息を吸い、思いの丈を叫んだ。


「なんで、どうして!?私は、お父さんが死ぬ事なんて望んでなかったのに!

 なんで私を独りぼっちにしたんですか!例え絵画の中から出られなくとも、お父さんが生きていたなら、それで良かったのに!!」


 ノワールの心からの悲鳴に、ノワールが背負っていた白い袋がガタガタと揺れた。

 ノワールの叫びは止まらない。


「あれから、私はずっと独りぼっちでした!私を見た人は、皆おかしくなって、私に命を捧げていくんです!

 隠れるしかないじゃないですか!隠すしかないじゃないですか!皆、皆、私のせいで、死んでしまうんです!そんなの、嫌なんです!」


 今まで誰にも話した事のなかった心の叫びを、話せなかった思いを、ノワールは涙と共に吐き出した。

 それは、狂呪具という呪いを背負ってしまった、孤独な絵画の悲壮な叫びだった。

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