第16話

 ドワーフの男が激しい痛みに喚きながら、キュレウを突き飛ばした。キュレウは、受け身を取って素早く起き上がると、視線を素早く巡らせた。

 灰犬は、ドワーフの男の背後、開けっ放しになっていた扉の向こうの廊下にいた。

 グチャリゴチャリと、肉を咀嚼し、骨を噛み砕く嫌な音を響かせながら、背を向けて床に手を付いている。

 灰犬は、グチャグチャになった肉を吐き捨てると、ゆっくり振り返った。


 そこには、獣がいた。

 姿形は灰犬のままだ。でも、雰囲気は、人のそれではなかった。赤黒く染まった瞳をドワーフの男に向け、激しい殺意と憎悪を滾らせながら、灰犬は低い声で唸った。

 その唸り声に、ドワーフの男は、顔を真っ青にした。


「あ、あ、あ……」


 詰まったような声を上げるドワーフに、灰犬は立ち上がると、天を仰いで、低い声で、轟くような遠吠えを吐き出した。


「ヴオオオオオォォォォッ!!!!」


 灰犬は、転身して逃げようするドワーフに襲い掛かり、太い足に噛みつくと、そのまま振り回して壁や床に何度も叩き付け始めた。

 ドワーフ族は、頑丈な体を持っているが、それでも、灰犬の人外染みた力で振り回され、壁や床に何度も叩き付けられて無事でいられる程の頑丈な体は持っていない。

 何度も何度も叩き付けられる度に壁と床に赤い染みが増え、噛み千切られた方の腕が千切れて吹き飛び、掴まれている脚が曲がってはいけない方向に曲がる。


 呆然としていたキュレウは、ハッと我に返った。


「と、止めなくちゃ。あいつを、灰犬を止めなくちゃ……!」


 そう思ったものの、キュレウにはどうやって灰犬を止めればいいかが分からなかった。

 物理的な方法は無理だ。灰犬の馬鹿力で弾き飛ばされるだけだ。だが、魔術も無理だろう。

 何か方法はないか、と辺りを見回すと、机の上に置いてある、白い皿に乗った一切れのケーキが目に付いた。

 そして、そのお菓子を食べた灰犬が、今までに見た事がないくらいに幸せそうな表情になっていた事を思い出した。

 キュレウは、狂呪具に頼るなんて、とも思ったが、でも、これしか無いと、ケーキが乗ったお皿に縋り付いた。


「お願いします、あいつを、灰犬を止めてください……」


 ギュッと目をつぶり、目の端に涙を浮かべながら祈るようにそう呟くキュレウの頭を、誰かが優しく撫でた。

 びっくりしてキュレウが顔を上げると、そこには、白いエプロンを着け、片手にコック帽を持った、穏やか目をした男が、空いた片手でキュレウを撫でていた。

 半透明のその男は、頷き、灰犬を指して「行きなさい」と言うと、ノイズと共に消えてしまった。

 キュレウは、覚悟を決めた目で頷くと、いつの間にか一口サイズのクッキーになっていたそれを掴んで、灰犬の元に駆けていった。


「灰犬ぅ!こっちに向きなさいっ!!」


 キュレウの声にピクリと反応すると、灰犬はドワーフの男から口を離し、怪訝そうに唸りながらキュレウを見た。

 キュレウは、灰犬を必死の形相で睨み付けながら叫んだ。


「口を開けろ!」


 それは、反射だったのか、それともキュレウの指示に従ったのか。

 開いた灰犬の口の中に、キュレウは手ごとお菓子を突っ込み、喉の中でお菓子を砕いた。

 反射的にお菓子を飲み込んだ灰犬の目が、瞬きした瞬間に、黒色に戻る。

 灰犬は自分の口からキュレウの手を出すと、キュレウを困惑顔で見つめた。


「俺は……」

「馬鹿っ!!」


 パアン、という、乾いた音が響く。キュレウが、灰犬の頬を張った音だった。

 キュレウが、ボロボロと涙を零しながら、灰犬の胸を弱々しく叩いた。


「私、怖かった!あなたが、まるで、別人みたいになって、それでっ!」

「……ごめん。」

「何処か、行っちゃうんじゃないかって、別な何かになっちゃうんじゃないかって、怖かった!怖かったよぉ……!」


 灰犬を抱きしめて泣き出したキュレウを、灰犬はそっと抱きしめ返した。

 灰犬の胸にあった激しい憎しみの炎は、キュレウの涙で鎮火されていた。



 冒険者の男は、スデープに許しを請うたが、スデープはそれを許さなかった。

 元々、狂呪具を暴走させる原因を、知らなかったとはいえ作ってしまったのは冒険者の男だし、元凶である奴隷の主は冒険者の男だ。スデープが許しても、国の法が許さなかっただろう。

 冒険者の男はやって来た警官に捕縛され、そのまま連れていかれた。

 ドワーフの男は、既に虫の息だった。例え治療して命が助かっても、重い後遺症が残っただろう。

 ドワーフの男は、その場でトドメを刺され、殺された。狂呪具を暴走させた元凶だ。狂呪具だと知っていて、主人を騙して人を殺そうとした。どんなに罪を免れようとも、この国が人族以外に激しい差別があるのも相まって、死ぬのは確定だった。

 それほど、狂呪具は恐ろしいのだ。適正者以外が使えば、確実に死人が出るとすら言われている。その適正者ですら、狂呪具に振り回されて暴走する事があるのだ。


 そして、キュレウは。


「え、奴隷身分が無くなって、市民権を与えられる?」


 驚きながらそう言うキュレウに、ちょっぴり痩せたスデープは頷いた。


「そうだ。君は、それだけの働きをしたのだよ。暴走状態の適正者を鎮め、更には狂呪具を適正に扱った。

 適正者では無いようだが、それでも暴走した適正者を止める事など、どんなに訓練を積んだ騎士でも無理なのだ。

 王城でも、今のエルフ族の扱いを考える、という話が持ち上がっているそうだよ?」


 その話に、灰犬とキュレウは思わず目を点にして、そして、お互い顔を見合わせた。

 この国の人族以外の差別は根深い。特に、貴族や王族は顕著だ。

 それが、扱いを考えると言い出したのだ。驚くのも当然の反応だった。

 そんな二人の反応に、スデープは肩を竦めた。


「それだけ、王族や貴族は狂呪具を恐れているのだよ。真っ先に狂呪具の標的になりやすいのは、彼らなのだから。例え、今まで見下してきたエルフ族の扱いを変えてもいい、と考える程に。

 ……私も、その恐ろしさを、身を持って知った。」


 スデープは、椅子から立ち上がると、机の横を通り、灰犬の前に来ると、灰犬の手を握った。


「改めて、お礼を言わせて貰おう。適正者殿、あなたのおかげで私はまた美味しいものが食べられる。本当にありがとう。」


 スデープのその言葉に、灰犬は、狂呪具から取り出したクッキーを差し出しながら笑った。


「これも美味しいよ?」


 スデープの頬が、思いっきり引き攣った。


「……お菓子はもう十分だよ。しばらくは、口にしたくはないね。」

「しばらくって事は、しばらくすれば食べるんだ。喉元過ぎれば熱さを忘れる、だね。」


 灰犬の言葉に、スデープとキュレウが首を傾げたが、だいたいの意味は伝わったのか、スデープはフッと笑った。


「それはそうだとも。美味しいものを食べない私など、私ではないからね。」


 まだ出っ張っている腹を揺らしながらそう言うスデープに、キュレウは呆れたように首を振り、灰犬は出したクッキーを頬張った。

 口の中に広がる甘さと幸福感に、灰犬は尻尾を振りながら、笑みを浮かべた。

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