第15話

 灰犬が柄だけになったナイフを投げ捨てた時に、騒ぎを聞き付けてきたキュレウとベムナントが駆けつけてきた。

 ベムナントが、必死の形相でお菓子を食べ続けているスデープを見て、目を見開いた。


「こ、これは、まさか!?」

「そのまさか、狂呪具だよ!」


 灰犬が懐からもう一本のナイフを取り出しながらそう言うと、ベムナントは視線をあちこちに飛ばしながら、あわあわと動揺し、うろうろし始めた。

 その時、キュレウは、灰犬の口から血が流れているのに真っ先に気付き、再びナイフを振り上げた灰犬に飛び付いた。


「待ちなさい!?何をするつもりなのっ!?」

「ご主人の腕を叩き折る。」

「その怪我で!?やめなさい、狂呪具が一度暴走したら止めるのは不可能よ!」


 必死に灰犬を羽交い締めにしてスデープから離そうとしているキュレウに、灰犬は軽々と持ち上げられながらも、どうにかできないかと必死に考えた。

 一瞬、『蠢く眼差し』の、子供の生首達から託されたあの大鎌を使えば、と思ったが、頭の片隅で、あれは首しか切れないと、何故か確信している自分がいて、却下した。

 ふと、灰犬の目に、スデープが貪り食っているお菓子が止まった。

 甘い匂いが鼻に届いて、そう言えば、最後に甘味を食べたのって、何時だったっけ、なんて考えていると、こんな状況だというのに、お腹が鳴った。

 密着しているせいで、灰犬のお腹が鳴った事に気付いたキュレウが、呆れた表情で灰犬を見た。

 その時、一瞬、キュレウの拘束が弱まった。そして、灰犬は、狂呪具を止められるかもしれない方法が頭に浮かんだ。

 灰犬は、キュレウの手を振り払って、スデープの方へ飛び出した。

 何故か、灰犬はその方法を疑わなかった。灰犬自身も何故疑わなかったか分からない。ただ、『蠢く眼差し』を気軽に着けた時と同じように、大丈夫だという確信にも似た思いがあった。

 まるで時が遅くなってしまったかのような部屋の中、灰犬は、手づかみでケーキを口に運ぼうとする、スデープのケーキを奪い取り、ケーキを自分の口に入れた。

 その瞬間、あまりの衝撃に、灰犬は思わず目を見開いて固まった。


「灰犬!なんてことを!

 ……灰犬?」


 ケーキを口に入れたきり、咀嚼もしないで固まる灰犬に、キュレウが心配そうに声をかける。

 灰犬は、ぽろぽろと涙を流しながら、ぽそりと呟いた。


「……美味しい。」


 ケーキは甘くて、でもしつこくない甘さだった。スポンジの生地は柔らかく、間に挟んである生クリームはふんわりと口の中で蕩け、イチゴの酸味が生クリームの甘さをさっぱりとさせてくれる。

 そこには、きちんとした味があった。ケーキを食べながら、灰犬は、今まで食べてきた食べ物に、味が無かった事に気付いた。

 いや、灰犬が味を感じていなかったのだ。最初は、自分の能力に振り回されて、何も食べられなかった。能力を制御できても、碌な食べ物を口にした事は無かった。生きるために、雑草だって食べていた時があった。

 何時の日か、灰犬は味を感じなくなってしまっていたのだ。それを、このお菓子を食べたお陰で気付いた。


「ああ、美味しい。」


 気付けば、自分の手に、ケーキは無くなっていた。でも、灰犬のお腹は、満腹感で満たされていた。

 そして、満腹した事にも驚いた。今まで満腹した事など無かったのに、このケーキ一切れを食べただけで満腹になったのだ。お腹一杯に食べれるというのは、幸せなことなのだと、灰犬は当たり前の事を思い出した。

 スデープの手も止まっていた。灰犬も、自分の意思に逆らって手が動くという事はなかった。


 狂呪具の暴走は、止まっていた。


 スデープが、口を押さえながら、床に膝をついた。


「う、うおえええぇぇぇぇっ!!」


 床に大量の吐瀉物をまき散らすスデープに、灰犬は寄り添って、背中を擦ってやった。満腹感で心が満たされたせいか、鼻に突く吐瀉物の匂いも気にならず、穏やかな気分だった。

 食べたお菓子全てを吐き出し、ブルブル震えながら荒く息を吐くスデープに、灰犬は机の上にあった畳まれたナプキンを取ると、スデープに差し出した。

 スデープは、小さく「ありがとう」と言ってナプキンを受け取り、口元を拭くと、駆けつけてきた執事が持ってきた、水の入ったコップを受け取り、水を飲むと、怒りの形相で冒険者の男を睨み付けた。


「よくも、よくもこの私を殺そうとしてくれたね。」

「ち、違う!これは、こいつが!」


 そう言って、男はドワーフの男を指した。ドワーフの男は、憎々し気な目で灰犬を見ると、舌打ちをして吐き捨てるように言った。


「余計な事をしやがって。皆、死ねば良かったのに。」


 その言葉を聞いた途端、スデープの吐瀉物がかかっても怒りもしなかった灰犬の瞳が、ほんのり桃色に染まり始めて、キュレウは灰犬に目が釘付けになった。

 だから、ドワーフの男が、キュレウを見て、ニヤリとしたのに気付かなかった。

 灰犬が、叫んだ。


「逃げろ、キュレウ!」

「えっ?」


 呆然と目を瞬くキュレウを、ドワーフの男が後ろから羽交い締めにして、その細い首に、刃物を突き付けた。


「おっと、動くなよ?」


 ニヤニヤ笑うドワーフの男に、灰犬の目が赤黒く染まった。


「おい、そこのお前!そのお菓子を、その貴族に食わせろ!さもなければ、この女の首を掻き切るぞ!」


 ドワーフの男の、そう叫ぶ声が聞こえていないのか、灰犬は、ぞっとする程に恐ろしい目でドワーフの男を見た。キュレウは、とてつもなく嫌な予感がした。真っ赤に光る灰犬の目を見た事はあれど、あんなに赤黒く染まった瞳は見た事がない。



 一瞬の出来事だった。


 不意に、灰犬の姿が掻き消えた、と思った瞬間、ドワーフの男が突きつけていたナイフが、床に落ちたのだ。


「へっ?」


 ドワーフの男が、気の抜けた声を上げて、自分の、ナイフを持っていた腕を見た。

 そこには、肘辺りがごっそりと食い千切られ、皮膚と筋だけで繋がった腕が、ぶら下がっていた。

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