#31 グルコースの白(悪食について)
温めたパンを千切りながら、アズールは出来合いの缶スープを啜る。最初、リンゴをむこうかとも思ったが、研究所内でアズールが刃物を持つことは許可されていないので、キュッと磨いたそれを皮のついたまま囓った。垂れた汁をハンカチで拭いながら、飾り切りの腕がまた落ちるな、とアズールは思うが、許可されていないものは仕方がないので諦める。手術室での執刀は許可証があればできるが、リンゴひとつのために架空の許可証を発行するのも面倒だった。フルーツを篭いっぱいもらう機会があったらあるいは考えてみても良いだろうか、とアズールは思う。
もぐもぐと口の中のものを咀嚼するアズールは、スプーンで皿をかき混ぜながら、メタの事を考えていた。メタはよほどの事情がない限り人前で食事をしない。メタの口は水冷機構に繋がっていて、あの乾いた喉の奥には生身にあるような消化管はない。きっと身体のどこかにエネルギーを取るためのユニットがあるのだろうな、とは思うものの、メタはそれを見せることはしない。そういえば動力が何かも知らないな、と思う。アズールは機械工学には興味がないので、浮かんだ考えは瞬きの間に『どうでもいいこと』として処理された。アズールは掬い取ったスープに僅かなエビ味を嗅ぎ取り、浮かんだ豆をうまそうに食べた。
メタが食事をするのを見たことは何度かある。昔、研究所で行われた祝いの席だったように思う。メタの舌に通常味覚はないが、ものをうまそうに食べる技術で彼の右に出るものはいない。そう、アズールは思っている。それと、酔った振りが異常に上手い。水冷に有機物が混じる事を承知で、メタは細かくちぎった食事を口に入れ、よくかむ振りをしながらまる飲みする。そうすると周りが喜ぶからだ。それがアズールにはよくわからない。アズールがたくさん食べるのは、食事の快感を知っているからだ。メタはそうではない。体内にはあらかじめ固形物を漉すフィルターと、油脂や糖を洗い落とす強力な洗浄剤を入れておくのがいい、と当時のメタは教えてくれた。あまり量が食べられないと伝えつつ、周りの不興を買わない程度に食べ、舌鼓をうち、それらしいことを言って、酌をする。度しがたいことだ、とアズールは思う。メタは白のワインを好み、そればかりをよく飲んだ。それがひとえに『色素の沈着が起こり難い』からであるというのをアズールは知っている。
ともあれ、宴の席につくメタは概ね、飲める口である、というような評価に落ち着いていた。それはそうだろうな、とアズールは思う。メタさんは酔いが顔に出ないね、と周りの人間は言うが、酔う酔わない以前にメタにはアルコールに対する感受性がない。それも全くのゼロだ。身体に入ったアルコールは吸収されることなく血中を通り、分解されもしないまま排出される。それでもメタは酔った振りをする。席を立つのに都合が良いからだ。メタは参加者が適度に飲み進め、酔いが回り、ぐだついてきたタイミングで席を立ち、手洗いへと捌ける。そのときは酔った振りをしていることもあるし、していないこともある。アズールは手洗いへ捌けたメタが胃の内容物を吐くところをそれで始めて見た。フィルターを外し、身体の中に溜まった沈殿物を捨て、体内を水ですすぎ、洗浄剤を入れ直して、更に薬剤の匂いを消すためのうがい薬で口を洗うのを見て、ややこしいことをするんだな、と思ったのを覚えている。
それから宴会の席にメタと一緒に出たときは、気をつけて見ているようになった。メタがアズールの相棒だというのはすでに皆の知るところで、一緒にいても特別文句は言われなかった。隣同士の席につき、回りの見ていないときにはメタに割り当てられた膳の中身をこっそり食べ、宴が進めば『もう満腹ですので』と言って追加の皿を断るメタの横から箸を延ばしてさらって食べた。同じ人に長いこと絡まれていたら、便所に行くので肩を貸せなどと言って剥がした。承諾が得られない場合はここで漏らすぞ、と言って押し通した。
毎回そんなことを繰り返していたアズールは『酔うと迷惑なやつ』とレッテルを貼られ、当然評価は下がりに下がった。最終的に祝いの席はおろか食事の席にも呼ばれなくなったが、その煽りを受け、『職務として』アズールの監視を続けねばならないメタは悪評の一つ立てることもなく接待の席から降ろされた。
結果的には良かったのかな、とアズールは思う。そのことでメタがどう思っているかはアズールにはたいして重要なことではない。アズールは研究以外のことをやらずとも良くなって、メタを独占することができるようになった。二人分の宴会料理を食べる機会がなくなったことは損失だったかも知れないな、と思ったが、収支は概ねプラスであった。
ここでは好きなものを好きなだけ食べられる。なんら窮屈な思いをすることもない。これこそが望ましい暮らしだ。アズールはパンとスープを纏めて片付け、残りのリンゴを全て囓った。そうして最後に残った芯をかみ砕きながら、リンゴの種は硬くてまずいな、とだけ思った。
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