禍福の青

#29 テントウムシの赤(道行きについて)

アズールは変わった。それは間違いない。ちゃらんぽらんで適当で無責任だったアズールも、この頃はしっかりやっている、と思う。アズールが娘を連れてきたときは、一体この先どうなるかと思ったが、未来は心配していたほど酷いことにはならなかった。メタはぼんやりとそんなことを考えながら、セスキ炭酸ソーダを溶かした水と、そこに浸けられて伸びている布を眺めていた。何が起こるかわからないな、と思いつつ、メタは棒きれでたらいの中をかき混ぜる。濡れた布地の合間で白っぽく泡立つ水は、汚れを溶かして暗い土色に濁る。


水面は揺れる。メタは目を眇める。今までいろんな事があった、と思う。これからもきっといろいろなことがあるのだろう、と思う。少し前、ワルツをやるのだと言ったモルフォに、メタは相手役を買って出た。こんな機会があるとは夢にも思わなかった。レッスンは熱が溜まりきるまでの短い間に限られたが、メタは望まれた通りにモルフォと踊った。長袖のワンピースを着て、一歩進み出るモルフォは、軽い身体で教えたとおりのステップを踏んだ。二対の足は三拍子を回る。回転の終わりに足を止めるモルフォは、すい、としなやかに伸び上がる。柔らかく乗せられた手は羽根のようで、腕に身を預け軽やかに舞う姿は、名前の通り蝶のようだった。踊る。踊る。夢のような時間だった。メタが心のどこかで望んでいたような空間だった。身体が動かなくなるまで、メタはモルフォと踊り続ける。曲は変わる。練習は続く。


足を華奢に見せるリブのタイツ。肩を彩るかっちりとした付け襟と、手首までを覆う小さな手袋は、軽やかな絹やベロアではない『別珍の』長袖ワンピースに華を添える。否、木綿糸で織られたそれは単純な飾りというだけでは無い。モルフォの用意した『肌を隠して熱を通さない』衣装によって、メタは上着を脱ぎ、素手で踊ることを許された。それがなによりメタの心を揺さぶった。稼働時間が僅かながら延びる。手を握り合う。腕はしっかりと回されて、『踊り』は続く。モルフォの頬にはうっすら赤みが差していた。それがどういうことだかを、やや過剰な温度覚を持つメタは知っている。きっとこんな機会はもう無いだろう、と思う。伸びやかな音楽を聴きながら、二人は部屋の角から角を渡る。空調が切られ、冷え切っていた部屋はだんだんと暖まってくる。メタはモルフォのオーダー通り、互いが動けなくなるまで音楽を止めなかった。過熱で動けなくなった姿を他者へ晒すというのは、メタにとってネガティブな意味を持つ事柄であったが、そんなことさえ今はもう気にならなかった。こんな機会はおそらく、二度とは無い。誰かにこうも求められ、満足のいくまで踊ることのできる機会など、この先長らく訪れはしないだろう。メタがメタとして生きる中では、きっとこれが最後になる。幾度か過ぎた曲の終わりに、どちらからとも無く手を放す。熱い身体を椅子にもたせかけながら、今日の日をずっと覚えていよう、と思った。熱く煮える心はきっと、視界の端で揺れた長く重いスカートを忘れまい。



今は黒く覆われた手を見て、メタは感嘆の息を吐く。モルフォには驚かされてばかりだ。アズールほどではないにしろ口も回るし、意思を通す気骨だってある。何より、本質がわかっている。男もなく、女もなく、モルフォはモルフォとして振る舞う。ある種の規範に捕らわれない。自分を持ち、その上で他人を尊重できるのは良いことだ。働きに出たとしても、行った先できっとうまくやるだろう。メタは、大人になりゆくモルフォのことを思って泣きそうになる。最初は守ってやらねばとさえ思っていたのに、みるみるうちに成長していって、今はもう立派な一人の人間だ。このまままっすぐ伸びていってくれたら、これ以上のことは無い。自分も歳をとったのだ、とメタは思った。

混じりけの無い性質は尊ばれるべきものだ。歪められることの無い精神性の獲得と保持には多大なコストが掛かる。長い研究所暮らしを経たメタにはもうそういった性質は残っていない。少なくともメタ自身はそう思っていた。嘘もつく。酷いこともする。せざるを得ない。それそのものよりも、それを良しとしてしまうようになったことがメタには悔しかった。だから、モルフォには、S型の外に生まれて未だ柔らかな感性を保ち続けているあの青の娘には、尊いその性質を取りこぼして欲しくなかった。メタは濁ったたらいを抱え上げる。自分はもう大人だ。大人になった自分には環境を変える力がある。何かを望み、またそれを叶うよう求める力がある。自分には何ができる? 何なら教えられるだろう。知らないことは知らないままでいい。荒事には関わらせたくない。それでも、身を守る術は知っていた方が良いだろうか。しかし、得がたい純真を損なうようなことはしたくない。このさき何があっても彼女が臆すことのないよう、自分がモルフォにしてやれることは何だ? アズールの元へ預けられて、あそこまで育ったのが奇跡のような子だ。なにか、と逸る気持ちはあるものの、考えても考えても答えは思いつかなかった。一体どうするのが正しいのだろう、と思いながら、メタは血の溶けて黒くなった水を捨てにいった。

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