#28 月の青(恋愛について)

『髪の色が変わったら考えたい』と書かれた書簡を放り出し、アズールはまただよ、と思った。モルフォの髪は兆しているとはいえまだまだ黒髪の範疇で、黒髪はS型第二世代における子供の証だ。要約すると『嫁入りさせるのには好条件の娘であるが、結婚適齢期に達していないので時期を見てほしい』ということだ。結婚は大人がすることで、相手が未だ子供と言える年頃ではまずい。それはさしものアズールにもわかる。わかるが、アズールはモルフォを早いところ安全な場所にやりたかった。みんな揃いも揃って『まとも』だな、とアズールは思う。しかしここで黒髪『が』良いと言うような相手のところにはやれないのもまた事実だった。そういう相手もいるにはいた。しかしその手の相談は該当の言葉が出た時点でアズールが握りつぶして火にくべている。アズールは更新されていくブラックリストを思い浮かべた。ビデオ屋あたりに売ったらそれなりの金になるだろうな、と思った。

「ままならないなあ……」

うなり、アズールは机の引き出しを探った。冊子の間からとりだした写真にはS型第二世代の女性が写っている。モルフォの母親ということになっている女性のモンタージュだ。きれいな人だな、とアズールはどこかぼんやり思う。写真と言っても当然原本ではなく、他の調べ物のついでにこっそり複製してきたものだ。本部に記録が残っていて良かった、と思う。アズールは写真を持ち上げ、透かすようにして見た。見れば見るほどモルフォに似ているのが奇妙と言えばそうだった。誰の複製かまでは秘匿されていて辿れなかったが、セレナと名がついていた事を知っている。アズールは『セレナ』を見る。書面上は彼女と恋愛をしたことになっているのだな、と思うと、なんだか不思議な気持ちだった。欺瞞に満ちた暮らしの中では、書面上の物事と実情が一致することはあまりない。偽装と建前に塗れた書類作成はアズールの得意とするところだった。アズールは報告と事実の余りある解離をその身をもって知っている。柔らかな青い髪を持つ同族の女。今はもう書面上にしか存在しない、存在し得ない物語。アズールは特定の誰かと誠実な関係を結んだことがなかった。アズールには子供がいない。恋人と呼べる相手もいない。血脈を軸としたとき、アズールを外側から規定するものはこの世にひとつきりしか無い。そしてそれはアズールのついた嘘に過ぎなかった。建前の中で構築された世界はいつでも清浄で整っている。それがなんだか妙な感慨をもたらす。『本当』は隠された。それは建前に塗り込められてしまって、当事者にしかわかり得ない。

そしてそれを知るのは自分だけだ。アズールの記憶を保証するものは今やもうどこにも無い。家族はいた。そういうことになっている。それこそが望んだことで、その点に関しては上手くいっている。それなのにアズールは言葉にできない不快感を覚える。なんとなく、嫌な気持ちだった。気晴らしにメタのところへ行こうか、と思ったが、今はそんな気分でも無かった。アズールは写真をしまい、机に伏せった。不明瞭なうなりを上げ、机に頬を擦り付ける。そうして、起き上がったアズールは倉庫へ行くことに決めた。



古いクローニング槽や標本の並ぶ倉庫はアズールの庭だ。眼球、脳、髪。数多の『コレクション』の詰まった棚は他の人々から生理的嫌悪によって忌避されたが、それを受けた過去のアズールはこれ幸いと自分の縄張りを拡大していった。結果として倉庫には誰も立ち入らなくなった。そのときからここはアズールの庭になり、それからここはいつだって静かだ。穏やかな空気の中で、生の臓器を生かす機械音だけが、緩やかに鼓膜を揺らす。『セレナ』はここには居ない。髪が残っていれば、遺髪をロケットの中に入れたものを、とアズールは思うが、書面が受理された今、それは自己満足以外の何物でも無い。母親がどんなものかを知っているのはS型でないメタだけだ。そしてメタはもはやモルフォの存在を疑わないだろう。

アズールは奥へと歩いて行く。静謐に満ちる柔らかな暗闇がささくれた心を落ち着かせる。棚の隙間を通り抜けるアズールの目を、ガラスに浮かぶ青やピンクや薄橙が楽しませた。そうして暗闇へ踏み込んだアズールは、倉庫に並ぶコレクションの中でも『もっとも新しい瓶』の前に立った。かけてある厚手の布の房を指先で撫で、息を潜めたまま、少し開けた隙間から中を覗く。暗い倉庫の中よりもなお暗い、粘液の中に浮かぶ丸い影。細かい畝のあるシルエットにアズールはドキリとする。ガラスの中にいるのは『メタ』だ。目玉も心臓も存在しない、『生身の』メタ。暗い液中に浮かぶ脳は入れたときと変わらず向こうを向いている。アズールはそのことに満足し、そっと布のカバーを戻した。暗い淵は覆われて、そこに覗き返すものはいない。そうして、今度は隣り合った瓶の布を恐る恐る覗きこみ、アズールはそこに何も入っていない事に安堵する。この空の瓶はモルフォのために用意したものだった。否、『モルフォに』では無い。これは、モルフォがモルフォとして生まれる以前に、この世に産み落とされるはずだった『白い肌とミルク色の髪を持つ』子供のためのタンクだったのだ。目の赤と、内臓の肉色がこの瓶を彩るはずだった。そうならなくて良かった、と思う。瓶は空だ。きっとこの先も。あの蝶の睫毛を持つ少女はモルフォとして生まれてきた。もう戻ることは無い。アズールは息を吐き、人生の持つ数奇について思いを馳せながら倉庫を後にした。

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