希代の青
#34 破滅の青(あるいはいつかの日常について)
メタが泡を食って飛び込んできたのを、卓上に置いた五つの内、三つ目の飴を食べるアズールはぼんやり眺めていた。そのままメタがアズールの方へ走ってきたときも、アズールはただ、何か怒られるようなことじゃないと良いなあ、と思っていた。机の上に重なる包み紙は三枚だけだ。きっと咎められることはないだろう。目の前まで来たメタが手を打ち鳴らしたので、アズールはぼんやりと視線をそちらへ向けた。手は白い。何か、変だな、と思った。
「おい、ぼけっとするな、アズール、客だ、用意しろ。きっと血を見るぞ、モルフォのことを…… おい、おい! アズ、聞いているのか?」
「客? ん、あー、そうか。モルフォももうそんな歳か…… しかし君も存外古くさい言い回しをするな……」
ぼんやりと的外れな言葉を返してくるアズールへ、何を言っているんだとばかり、メタはハンカチを手に引っかけて丸い鼻を引っ張る。生身の肌へ、布越しのじんわりとした熱が伝わって、アズールはそこに硝煙の香を嗅ぎ取った。これでわかったろうと言いたげにメタは叫ぶ。
「ふざけている場合じゃないぞ。立て、襲撃だと言っている!」
部屋を飛び出したメタはアズールを引き連れ、時間が惜しいというようにずかずかと歩きながら早口で説明をする。アズールは駆け足で後ろをでついていった。
「閉鎖は完了した。侵入者の一団はBルートを辿っている。本棟に被害はなし。あなたは先へ行ってモルフォを保護しろ。いいか? いいな。……そろそろルートと合流する、十分警戒しろ。俺は反対に向かって侵入者を何とかする。わかったら行け!」
アズールは走り出した。足音が近づいてくる。メタは即座に反対側を向き、拳を固め腕を突き出す。アズールの背を見送ることもせず、飛び出してきた侵入者を機銃で撃つ。視界の中でどこか見覚えのあるような気のする顔がはじけた。スプリンクラーのように吹き出す血が壁を汚す。身体が倒れるのを見届けず、メタはトドメとして脊髄に弾丸を撃ち込んだ。
◆
「まずいな。非常にまずい。狙いは何だ? 僕か? それとも検体サンプルかな」
なにもこんな時に来なくたっていいのに、と思いながら、アズールは走った。もしかしたらなんらかのデータかもしれないな、と思う。支部にはその性質上、表ざたにできないものが集まる。所在が流出すれば、狙われるものもたくさんある。表ざたにできないもの。アズールも、モルフォも、そのようであるということに気が付き、アズールは僅かに顔を歪めた。
この時間のモルフォはいつも、机のあるところで勉強している。アズールは管制室の認証を通し、遠隔で扉という扉を封鎖した。侵入者の狙いが何であれ、彼らの辿る経路に出なければいいのだ。『重要な』ものが存在しないところに隔離しておけば、見つかることはない。見つからなければ、それは『ないもの』として扱われる。アズールはモルフォの捜索を後回しにした。あとは陽動と援護ですべてが決まる。アズールは水のボトルを両手でつかみ、部屋を飛び出した。
◆
それは見えない壁に挟まれたかのようだ。急に体が動かなくなるこの忌々しい感覚こそが、過熱による機能停止だった。メタは内心舌打ちをする。体が死にかけている。喉の渇きももはや感じない。Ⅲ度まで進行した熱傷は痛みを感じないという。一緒だな、とメタは思った。熱が上がって体組織そのものが崩壊を始める温度になると、内部の熱生産を抑えるために全てのアクチュエータが役目を放棄する。それがメタの身体だった。それがいつ、いかなる場合でもだ。溶岩に放り込まれたらどうする気だ、とメタは思う。諦めて死ねと言うことなのだろうか。諦め。メタは自分の今の状況を顧みる。良く保ったほうだ、と思う。もう少し動いてくれれば、と思う。動いたから何だ? これ以上の熱生産を許せばメタの義肢は崩壊し、動けないままの身体は真なる死を迎えるだろう。敵は目の前にいる。迫ってくる。キラリと光るのは銃口だろうか。動けど止まれど命は終わる。もはやこれまでだった。メタは乾いた息を吐く。
目をつむり、メタは心の整理をつけようとした。瞬間、後ろから押されるような感触が意識を引き戻す。すさまじい音とともに視界が煙に包まれた。白い煙。否。見慣れたそれは蒸気。水だ。
「メタ! 助けに来た!」
動くようになった首を巡らせると開いた戸口に、バケツを持ってびたびたに濡れたアズールが立っていた。メタは口元を歪める。体は動き、まだ終わりまでは時間がある。アズールがそのようにした。ああ、自由に動けることのなんと喜ばしいことか。歓喜に心をとろかしたメタはさっき光った方を見もせずに撃った。ぎゃ、とくぐもった声が蒸気の向こうから響く。嗜虐に濡れた瞳でメタは笑った。
「ずいぶん遅いお出ましじゃないか。もう来ないと思ったぜ」
「生きてるうちに来ただろう! 間に合っただけましと思ってくれ!」
バケツを投げ捨てる音ががらんと響いタのを合図に、二人は動き出した。
「……とりあえずは何とかなったな。ああそう、これを。飲むと良い、中もやばいんだろ」
部屋から部屋へ、廊下を走るアズールはポケットに入れていたボトルの封を切り、口を開けたままメタに投げ渡した。メタは空中で受け取ったが、くしゃくしゃになって縮んでいくパッケージから溢れた水が白い手の上を滑り、焼けた鉄板の上に水を垂らすがごとく、踊り、丸まり、玉になって蒸発していく。半分以上零したにもかかわらず、メタの手は乾いていた。凝縮された熱。それを目の当たりにしてアズールはぞっとする。メタは残った水を口に含み、もうもうと立ちこめる湯気の中で苦しげな咳とともに床へと熱湯を吐きこぼした。
「助かる」
あまり助かっているようには見えない様子でメタはそう言った。白衣にこぼれて浸みたはずの水の跡が見る間にじわじわと乾いていく。アズールは視覚へとたたきつけられる熱の気配に空恐ろしさを感じた。
「……これで借り一個返したからな。あー、ああ、そうだ。ちょうど良い、もう一つ飲むかい。ポケットに入れてると結構重いんだよこれ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます