#22 真珠の白(混濁について)
「アズール、あのね、昨日の話だけど……あれメタ、その服どうしたの?」
「これか。昨日出かけたときに汚してしまって、替えがないから洗濯が終わるまでの間アズールのを借りているんだ」
掃除をするメタの七分袖の白衣は、今日はだぼついたシングルのものに変わっている。モルフォは興味を引かれたように、ひらめく裾をちょっとつまんで放す。動く度に落ちてくる袖をまくり上げながら、落ち着かないな、とメタは言った。
「メタ、長いのも似合ってるよ。組み合わせ変だけど」
「いやそれは似合っているとは……あー、いや、ありがとう、モルフォ」
口に出しかけた否定の言葉を引っ込めて、メタは困ったように笑った。モルフォも随分馴染んだな、と遠巻きに眺めるアズールは思う。彼女もじきに大人になる。表情はめまぐるしく変化して、小さな口は良く回る。あまりS型らしくないが、良い傾向だ、と思う。外の規範に近い振る舞いは、彼女をきっと助けるだろう。アズールは使い終わった布巾をバケツの中に投げ込んだ。
「ね、メタ、それわたしも着てみたい。貸して貸して」
モップを片付ける傍らでモルフォがそう言ってせがんだので、メタは白衣の丈とモルフォの背を目で測った。アズールはそれを見るでもなく眺めていた。仲睦まじいやりとりに、年の離れたきょうだいというのはこんな感じなのだろうか、と思う。
「良いが…… 裾の長さと足下には気を付けてくれよ、存外大きいからな」
モルフォが頷くのを見届けてから、メタは自分の肩から白衣を外し、モルフォの肩へとかけた。えへへ、と言ってモルフォはポーズを取る。腕を伸ばしたり、回ったりして、メタの苦笑を誘っている。ああ、楽しそうだ、とアズールは思う。裾をつまんでくるくる回る。そろそろダンスをやらせた方が良いだろうか、と思った。ああ、でも僕では教えられないな、とアズールは重ねて思う。アズールは男役でしか踊れない。手を引いて踏み込むやり方しか知らない。身体を沿わせて反対向きにステップを踏む感覚がわからない。モルフォにダンスを教えるのなら、教師役を誰かに頼まねばならなかった。誰が良いだろう。誰なら良いだろう、とアズールは考える。
モルフォの笑い声に交じって、モデルになれるな、と言ったメタの声が聞こえた。アズールが顔を向けるとモルフォは椅子にもたれかかって座っていた。それを見て、思わず顔をそむける。体全体を覆い隠すような白に覚えがあったからだ。おくるみのような長衣が『子供だった』モルフォを思い出させたからだ。椅子に頭をもたせかける座り方がそうであると錯覚させる。アズールは焦った。めまいがするようだった。モルフォの出生の秘密を知るのは自分だけだ。水の中から取り上げたのは紛れもなく自分で、他には誰も知り得ない。間違いない。それでも、あの白衣は。首元から布地が覗いているにもかかわらず、下には何も着ていないのではないかと疑ってしまう。そんなはずはないのに。検査着を恐れて飛び出した日を思い出す。もう随分前のことだというのに。あり得ないのに、わかってるのに、『秘密』を知られてしまうのではないかと危惧した。
「ね、モルフォ。掃除は終わったし、こっちへ来て昨日の話を聞かせてよ」
だから、アズールはモルフォを呼んだ。自分以外の目から隠そうとしたのかもしれないし、白衣からモルフォを引き離すべきだと思ったからかもしれない。
小さな口が紡ぐ言葉たちへアズールは答えてやる。知っていることと予想通りの事実。アズールは頷く。取り立てて話させる必要のない、確かめる必要のないような『当たり前』を、モルフォの言葉はなぞっていく。アズールは耳を傾けることもなく、返事だけを返す。そこには一片の感動もない。アズールは相槌を打つ。それだけが尋ねた者の持ち得る最大の誠実さだとでもいうように。黒い髪。青くなる髪。指をかければ、さらりと流れる絹糸の髪。モルフォの言葉を聞き流しながら、準備をしなければ、とアズールは思う。華奢な囀りが話の最後に『役に立った?』と聞いたので、アズールはお礼を一つ舌に乗せ、にっこり笑って見せた。
「いい話を聞かせて貰ったよ。だから僕からも、髪の編み方を教えよう」
モルフォは黙って頷いた。
本当なら踊りの技能など必要ない。アズールの口利きがあるのならば、数多の候補から『見初められる』必要はない。
切りそろえられた丸い爪は髪を梳き、柔らかな指先がつややかな黒の髪を編んでいく。髪が梳き上げられたことで、今まで隠れていた白いうなじが覗く。産毛の生えた白い首、うっすらと血管の透ける肌に、ああ、生きている、と思った。生きている。アズールは首をじっと見た。柔らかな首筋。早く行き先を決めてやらねば、と思う。ダンスなどやらなくても、出会いなど無くても、モルフォは一足飛びに髪を結うだろう。そうして蔓草の飾られた頭には白いヴェールがかけられる。髪を結い上げるのはいつぶりだろうか。手を滑る髪は柔らかい。ずっとここに居させてはいけない。いけない、と思う。早く仕上げなければ。ここは子供の暮らすところではない。アズールは考えている。思っている。アズールには確信がある。アズールには疑いがある。早かれ遅かれ、自分はきっとモルフォを殺してしまう。心臓はそう答えた。返答は真実であるように思えた。それは何によるものだろうか。自分自身の手であるかも知れないし、自分へ向けられる悪意の、流れ弾によるものかも知れない。それはいけない、とアズールは思う。アズールは結った髪をピンで止めていく。耳を見せる冠のような編み込み。白く、小さな耳。この耳へ、花を差し挟む男は誰になるのだろうな、とアズールは思った。優しくしてくれる人が良い。モルフォを困らせない人が良い。誠実な人であるなら、それが良い。その日が来たのなら、髪を結って、この首に真珠をかけてやろう。華奢で繊細な金具をつまんで渡し、ふっくらとした珠の連なりで、鏡の中の微笑みに報いてやろう。その日が来るなら。その日が来たのなら。
そのとき自分はさよならをする。最も『安全』で、『幸福な』形をとったさよならを。最後の仕上げにリボンを結びながら、待ち遠しい、そう、アズールは思った。
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