#23 ヘモグロビンの赤(刺繍の髪飾りについて)
「みてみて、自分でやったの!」
編み込まれた髪はところどころもつれながらも、小さな頭を飾っている。メタは普段より幾分かやわらかい声で、そうか、と言った。長い髪を高い位置でからげて走るモルフォはご機嫌だ。できることが増えてうれしいのだろうな、と思う。好きなこと、やりたいことができる、というのは喜ばしいことだ。はしゃぐモルフォを眺めてメタは微笑む。
「あのね、アズールが教えてくれたの。そのうち頭につける花の飾りも買ってくれるって。そう言ってた」
いいでしょ、とはしゃぐモルフォに、よかったな、とメタは言ったが、それとは別にあの分からず屋のアズールにも装身具を贈る発想があったのかと少し驚いた。メタの驚きとは別に、あのね、あのね、とモルフォは手を広げて、嬉しそうに話し続ける。緩んでいた髪の一房が外れ、首筋へ垂れた。
モルフォは興奮しているようだった。少し顔が赤い。少し落ち着かせたほうが良いだろうかと思っていると、急にモルフォの声が途切れる。小さく息を吸い込んだのを見て、ああ、埃でも飛んでいたか、と思う。メタは黙って見下ろしていた。くしゅん、とくしゃみをした瞬間に、ぷっと血が噴き出る。メタはぎょっとした。たらりと垂れた赤色に、一瞬の茫然自失から我に返ったメタはポケットからハンカチを引っ張り出して赤く汚れる顔を抑えた。モルフォはきょとんとした表情のまま応急処置を受け、それからふと気が付いたように唇を縦に分ける血の一筋をなめとった。
「しょっぱい」
窘めるべきか、と思ったが、メタは処置を優先した。新しい、清潔なハンカチをちょうど持っていてよかった、と思う。
「あまり動くとよくない。このまま軽く押さえて、止まるまでしばらく待つんだ」
「う」
モルフォは素直に従った。メタは薄桃色のタオルハンカチを預け、貯蔵庫から冷却用の水を取ってきた。ハンカチを濡らし、汚れた顔を拭うころには出血は止まっていた。念のためしばらくはあまり激しい運動をしないように、と言い含め、メタは椅子を用意した。そうして座らせたモルフォのもとへメタは裁縫道具を持ってきた。
「安静にしていろと言ったものの、ただ座っているだけなんて退屈だろう。本は汚すかもしれないから今日は刺繍を教えてやる。……本来ならこれも学校でやることだ」
学校、とモルフォは繰り返す。アズールはモルフォへ刺繍の話を出したことはなかった。モルフォはピンクッションに突き立つ銀の針を見る。
「それで、メタ、刺繍ってなにをするの?」
「ちょうどボタンの在庫がある。端切れがあるからそこに名前を縫おう。そうしたら俺が閉じるから、そのまま髪飾りに加工する。モルフォは名前を入れてくれ」
「うん、わかった」
◆
メタの指導でモルフォは針を進めていく。ひと針ずつ、すくい上げるように刺しては糸を引く。ぽつぽつ喋り、時折針が止まる。適度に休憩をはさみながら、二人きりの手芸教室は続く。数時間がたったころ、指先を突くこともなくモルフォは『Morpho』の文字を完成させた。
「よくできている」
メタはねぎらいの言葉を口にする。モルフォは少し笑ったようだった。糸の処理は適切で、布地そのもののゆがみも少ない。縫い目がねじれていることもなく、ふっくらとした糸の質感は初めてやったとは思えない。素質があるのだろうな、とメタは思う。取り出したボタンの型に布を挟み接着剤で端を処理すると、メタは手袋を外し、方向を確かめてから閉じ金具を押し込んだ。そうしてできたボタンの足に細いゴム紐を二重に通して巻き、切ったバイアステープを縫って作った花や小さなタッセルを結び付ける。そうしてできた髪飾りを、メタはモルフォの手に乗せた。
「完成だ」
「わあ……」
モルフォは小さな髪飾りを握った。頭につけようとしたのか髪に手をやり、少し考えるようにして手を戻す。何をしているのだろうな、とメタは思ったが、モルフォはそのまま髪飾りを腕にはめた。ぱっと表情が明るくなったので、見えるところにつけたかったのだろうか、と思う。
「ありがとう、メタ。大事にするね」
「そうしてくれ。ああ、でも、紐が切れたりゴムが伸びたりはするかもしれない。そのときは持ってきてくれたら、できる範囲で直そう」
出しっぱなしだった針や糸を裁縫箱へしまいながらメタは言った。モルフォは髪飾りをはめた腕を伸ばしたり光にすかしたりして眺めていた。
「うん、アズールにも自慢する。驚くかな」
「きっと驚くさ、ああ、少し待ってくれ」
さっき触ったときに崩れかけていたのだろう、モルフォの髪が半分だらりと垂れてきていた。メタは了承を得てからそれを解き、元のように結いなおした。青いピンが髪を止める。
「アズールが教えてくれたの。でも、メタも上手なんだね。……大人はみんなできるの?」
大人であれば身につく技能であるのか。どうだろうな、とメタは思う。
「俺は子供のころ散々やらされたからできるが、男に生まれた人間なら、できない人のほうが多いんじゃないかと思う。これは習慣的な問題だ。髪を触る職業についている人間なら練習をしているはずだが、それ以外についてはちょっとわからない」
「そっか、じゃあメタはすごいんだ」
何でもないようにモルフォが言う。メタは少し、返答に詰まった。
「そう言ってくれるか。それは……光栄だな」
そういったメタはしかし、どうにも晴れない心持ちでいた。モルフォのように、あるがままであれることは貴いことだ、と思う。それでも心から発されたであろう賛辞を素直に受け取れないのは何のためだろう。メタはモルフォを不安がらせないよう、刺した刺繍をアズールにも見せてやったらどうだ、と声をかけて、彼女の意識を自分から逸らした。そうする、またね、と言って駆けていく後ろ姿を見送ったメタは、血で汚れたハンカチの存在を思い出し、洗濯をしないといけないな、と思った。
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