#19 嗅覚の青(逢瀬について)
モルフォを寝かしつけたあと、アズールは湯船に水を張り、メタの帰りを待っていた。煌々と灯っていた明かりは順番に消えていく。常夜灯のオレンジが照らせば、次の朝までしばしの休みだ。時計は回り、夜は更ける。アズールはメタを待つ。
そして今、アズールは白衣を濡らし、バスルームの中に立っていた。立ち上った湯気が熱っぽく肌をなめ、アズールの髪を湿らせていく。
「そういうわけだからよろしくたのむよ。次に目が覚めるのは夜明け以降だ」
事務的な内容とは裏腹の、熱をはらんだ声にメタは顔をしかめた。たった数時間の『寝かしつけ』に圧縮テープを持ち出すのは少々乱暴に過ぎるやり方だ。硝煙臭いバスルーム。煤けた拳。目と同じ色になった白い肌。熱い風呂の水につかるメタのもとで、アズールは不気味に笑った。『外出から帰ってきた自身の姿がモルフォの目に入らないように』、それがメタとアズールの間で取りなされた合意だった。メタは頬の汚れを拭い、暗闇に光る目を細める。手首に顔を擦り付けるようにする独特の動作により、何も付けない白い手が目の赤を艶めかしく反射した。
「あなたは一体何を考えている?」
「たまには冷水以外が浴びたいんじゃないかと思ってさ」
それがアズールの答えだった。『冷たい』肌をもつサイボーグであるメタはひどく嫌そうな顔をした。さっきまでごぼごぼと沸いていた湯はもうもうと湯気を立てている。メタにとって、熱は捨てるものだ。道理に反するアズールの言葉に、このまま湯船に沈めてやろうか、とさえ思う。シャワーノズルを捻れば、冷たい水が怒りに沸いた頭を冷やした。湯気の中に立つこの男を、いっそ殺してやりたいような気持ちになる。
「……俺自身に詳細な温度覚はない。いや、言わなくていい、あなたがここに来た時点でとうにわかっていた。そういうところが良くないと言うんだ。後のことは後にして、まずは一発殴らせろ」
「いやだよ、DVじゃんか」
アズールは肉の交わりを求めてここへ来たのだ。こういうところが嫌だった。何でもないような顔をして、実際たいしたことではないと思っているであろうところが嫌だった。むっとするような熱をはらんだ暗いバスルームにわざとらしいため息が響く。話をするのも、こうやって感情を見せてやるのでさえ、今は酷く気持ちの悪いことに思えた。
「俺はアズの配偶者になった覚えはない…… もう何も言うな。あなたの要求はわかってる。わかってるから黙って用意をしろ」
わかっていた。メタが冷水をかぶるのは外仕事(戦闘)の余熱と汚れを洗い落とすためで、つまるところが身体の保護だ。冷やせば冷やすほど安全性の増す体だ。通常の生活において、メタは温度の高低に頓着しない。メタの温度を気にするのはいつだって他人だ。篭もる熱で肌を焼かないよう、メタは服を着る。冷たい肌に身が竦むことなかれとメタは温いシャワーを浴びる。湯を浴びた白いチタン塗膜の皮膚は、触れた肌を生身の人間であると錯覚させる。それが喜ばれる。屈辱的だ、とメタは思う。
「急かさなくたって、用意はもう終わっているよ、メタ。あとは君だけだ」
メタは苛立たしげに濡れた髪をかき回した。何か言いたくて、でも口も聞きたくないような、どうしようもない怒りが胸の中をドロドロと這い回る。不快だった。不愉快だった。何もかも終わってしまえば良い、と茹だったような頭の中が呪いのように重かった。
「メタ」
「ああ、もう、嫌だ嫌だ。なるだけ関わり合いになりたくないと思っているのにどうしていつもこうなるんだ、ああ、ああ、ああ!」
腹が立つ、とメタは叫ぼうとしたが、何を言ってもこの怒りは晴らされないだろう事を心のどこかではわかっていたし、自分の声を聞いているとそれだけで煮え立つ苛立ちがますます酷いものになったので、結局は憤懣やるかたない思いのまま、はくはくと口を動かすのみで声にはならなかった。
「大変だね」
「誰のせいだと思っている?」
噛み付くような表情のなかで、赤い目が剣呑に光った。立ち上がったメタは肩を流れる水の粒を雑に払った。アズールは眼前に晒された滑らかな肌をまじまじと見る。湯に洗われた白い表皮はくすみのひとつもなく、均整の取れた裸体は古い時代の彫像のようでただ一点の欠けもない。アズールは感嘆の息を吐く。メタは耳に届くそれを、うっとうしそうに聞いた。
◆
部屋の扉を開けたメタはうんざりしたような面構えを隠そうともしない。目の前に居るアズールは取り違えようのないほどにしっかり存在していて、消えてなくなってくれまいかと確かに願ったメタの心は鉛のように沈んでいる。何もかもが憂鬱だった。
「何をしていたんだメタ、待ちくたびれたぞ」
戸を開けた音に気付いたのであろう、顔を上げたアズールは恨めしそうな声音でそう言って、男性器を模したプラスチックの筒とベルトを放った。メタは心底うんざりした心持ちで手を伸ばし、投げ渡されたそれらを空中でつかんだ。
「確かに待ってろとは言ったが、本当に待っているとは思わなかったな。首は洗ったのか?」
ここで気まぐれを起こして何もせず帰ってくれればどんなに良かっただろうな、とメタは思う。しかしそうはならなかった。メタは短くため息をつく。おとなしくしていろと言われて素直に従う男ではないが、いくつかの例外はあった。それがこれだ。クローニングに関わるとき、他者の臓器を暴くとき、性的接触を持つとき。興味関心の向くほうへ、このアズールという男は引き寄せられていく。水が上から下へ流れるように、それが理だとでもいうようにただどうしようもなく。全く、忌々しい事この上ない、とメタは思う。これが自分とは関係のないことならば、どれだけ良かったろうと思う。しかし、メタは、他の誰でもない、この男の相棒であった。暴走するアズールと手綱を握るメタ。成り行きとはいえ、そういうことになってしまった。何度舌打ちをしても足りないな、と思う。このまま首を掻ききってやりたいと思う。それができていれば、こんな思いはしなくて済んだのだろうに、とも。
「さてね。歯は磨いたよ。このために準備までしてきたんだ。少しくらいねぎらってくれたっていいじゃないか」
白衣とネクタイを外したシャツ姿のアズールを睨み、苛ついた様子でメタは手の中で絡まっていたベルトをほどくと耐熱プラスチックの留め金を外した。この悪趣味な造形物が、すっかり体の一部だと思われているだろうことが酷く不快だった。
「あなたが欲しいのは労いじゃなくて慰めだろうが」
引き出しを探り、ラテックスのフィルムを出しておく。暗闇に似合わないパステルカラーが理由のない苛立ちを募らせる。気に入らないな、と思う。気に入らない。全くもって。
「わかってるなら早くしてくれ。待ちくたびれたんだ」
ふざけるなよ。罵声が口をついて出そうになるのを口を閉じてやり過ごす。メタは転がる悪趣味な筒が、散らばるフィルムが、温いシャワーの『準備』が関係のない他人の生活になるのを待ちわびていた。欲望とエゴ。待っている時間は自分の方がずっとずっと長く、おそらくそれはこれからも伸び続けていくことが決定している。『待ちくたびれた』。断ることのできない自分に散々付き合わせておいて、一体何が不満なんだ。メタはため息をつき、ベルトの留め金に手をかけた。
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