#11 メディシンの青(眠りを齎す注射針について)
ドーナツが入った紙袋をさげ、メタは見慣れた黒髪を探して研究所内を歩き回っていた。用意した土産をあの幼い娘は気に入ってくれるだろうかと考えながら、メタはどこか浮き足だった様子でノブをひねる。
しんとした室内に人の気配はなく、ここにもいない、と思いながら扉を閉じる。明かりのついていた部屋を覗くと白衣の背中が見えた。ちょうど良い、アズールなら知っているだろう、と思って、声をかけようとしたメタは息をのむ。寝台に広がる青の混じった幼い髪。それを覗き込むように立つアズールの手に握られた注射器。銀の針が光るのを見て、血の通わない身体にざっと血の引くような感覚が襲った。メタは扉を払い開け、室内に踏み入った。
「何をしている!? 中身は何だ、何をする気だ!?」
「えっ、何」
張り上げた声にアズールは振り向く。メタは拳を向け、腕の銃座を展開する。抜き取った手袋は床に捨てた。注射器を指に挟んだままアズールは両手をあげ、反抗の意思のないことを明らかにする。メタは睨みを利かせ、ベッドのそばにいたアズールを手の届かない距離まで下がらせた。ちょっと見てないとすぐこれだ、と反射的に考え、そう考えたことに嫌気がさした。
「移植実験か? 耐久試験か? アズール、モルフォに何をするつもりだった? 言ってみろ、それは何だ?」
不可解だとでも言いたげに突っ立っていたアズールの表情が僅かに動く。
「ああいや、まって、誤解だ。毒じゃないよ。これは混合ワクチンだ。寝てるのは痛がると思ったからで、モルフォ本人にもきちんと説明はしてある。……今、予防接種の最中なんだ。若い女の子だ、麻疹にでもかかったらえらいことだろ」
『エーテル』だったら腕を砕いてやろうと思っていたメタはそれを聞き、嘘じゃないらしいことを確認してから、身体の緊張を解いた。展開していた銃も元のように収める。あからさまにほっとしたような顔をするアズールが何とも言えず憎かった。
「わかってくれたようで嬉しいよ」
腕を下ろしたアズールは手際よく注射針を刺す。アルコールで拭いてから針を刺し止血して絆創膏を貼るまでがまるで流れ作業のようだ、と思う。それだけの数を、これまでに打ってきたということだ。メタは苦い気持ちになる。そこでようやく床に捨てた手袋のことを思い出し、屈んで拾った。埃で白っぽくなった革に、汚れてしまったな、と思う。
「……予防接種を受けていないのか? 一度も?」
「普通は学校でやるだろう? 家庭にいた以上プロトコルに従っているわけもないし、どれが抜けているかもわからない。後追いでも全部きっちりやらないと」
公衆衛生がね、とこぼす青色の研究者に、こいつこんなことも言えたんだな、とメタはぼんやり思う。
「そういえば、医療行為ができると言うことは、あなたは免許をもっているのか」
使い終わった針を片付けていたアズールが怪訝な顔で振り向いた。
「いや、ええと、大丈夫? 曲がりなりにもここ人間の身体を扱う部署だよ。感染症の蔓延を防ぐために『特例』で許可が出てる。生の素体もあるわけだし、集団免疫が重要になってくるから、長期的な実験の時に打つやつが常備されて……いや、それはさすがに知ってるか。とにかくそれだけ防疫が重要視されてるんだ。病に侵され得ない君にはあんまり関係ないことかもしれないけどさ」
気が付いたように、ああ、それでかなあ、とアズールは言ったが、メタにはそれより気になることがあった。
「特例といったな……仮に、研究所の外で同じ事をしたらどうなるんだ? 対象が検体以外の場合は?」
「いや、それは当然、捕まるよ。僕ら本業の医者じゃないし」
「モルフォは検体か? 違うだろう」
「え? あっ」
二人の間に沈黙が降りる。先に口を開いたのはメタだった。
「今回のことは不可抗力だから黙っていてやる。今度から気をつけろよ……」
「ああ、うん、そうだね……」
アズールは法より公衆衛生をとったメタに感謝しつつ、神妙に頷いた。季節になると職員同士が医療従事者から取り寄せた闇インフルエンザ薬を持ち寄っては所内のあちこちで打ち合っている事実は、メタには黙っていた方が良いだろうな、と思った。書面上は採血の練習ということになっているので罰則はないが、今の反応を見るにメタはおそらく良い顔をしないだろうし、なぜ止めなかったと問われても厄介だ。と、そこまで考えてからアズールは、モルフォをこっちの棟から出さないようにしないとな、と思う。アズールに運営指揮が任されているこちらの棟には大概の人間は来たがらないので気にしていなかったが、事務室のある方には人がいる。これ以上話がややこしくなるのはごめんだった。誰もが納得するようなつじつま合わせの必要性を意識しつつ、下手に外の相手へ手を出したことにすると不倫でしょっ引かれるな、と気がついて暗澹たる気持ちになった。
「ところでその紙袋何?」
「あー、ドーナツ、だった。モルフォに持ってきたんだが」
だった、の言葉に引っかかりを覚え、アズールは聞き返す。
「ドーナツだったのはわかったけど、今は何? ちょっと見せて」
これまでずっとドーナツだったのが急にドーナツ以外のものになるだろうか、とアズールは思う。受け取った紙袋の感触からして、炭や粉になっていると言うことはなさそうだった。
「……なんなら食うか?」
開けてみた袋の中にはチョコレートコーティングのドーナツが三つ入っていた。問題なのは溶けていることと、どうやら動物の顔をかたどった品であるらしかったことだ。メタの手から熱が伝わってしまったのだろう、色合いのかわいらしさとは裏腹に装飾はその原形を留めていない。なるほど、子供に見せたら泣かれるやつだな、とアズールは思った。
「モルフォに見せたかったんだろ? 代金は渡すからまた買ってきなよ。これは僕が片付けておくし……だからそう気を落とすなよ」
「恩に着る……」
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