#9 年長者の白(親について)
部屋の隅に腰掛けたメタは革手袋についた埃をハンカチで払っていた。指の曲げ伸ばしをしながら、慣れないな、と思う。そうこうしていると誰かの足音が聞こえたので、メタはハンカチを折りたたみ、白衣のポケットにしまった。
「あ、メタだ」
「モルフォか。調子はどうだ。良い感じか?」
「んー。ねえ、メタの親ってどんなふうだったの?」
メタは虚を突かれたように目を瞬いた。同時に考えを巡らせる。親について聞かれるとすればそれはきっと彼女の母親に関することだ。少なくともメタはそう思っていた。戸惑いからか、開いた口からは不明瞭な声が出そうになり、それでもとにかくメタは、この幼い少女に答えてやらねばならない、と思った。
「俺は……いや、俺に聞かれても困る。俺には、なんだ、色々あって親との思い出が何もない。つまり、答えられないんだ、モルフォ」
メタは言葉を探し、とぎれとぎれに言う。気丈に振る舞う目の前の子供へ、何もしてやれないことがメタの心を重くした。
「そっか、ごめんね。……わたし、謝ってばっかりだね」
それって……良くないことだよね、とモルフォはどこかぼんやりと言った。メタは返答に困りつつも、うまく否定することができなかった。
「……気にしなくていい。謝れるだけ上出来だ。モルフォこそ、寂しくないのか」
その、とメタは言葉を濁した。生まれてこの方一切関わってこなかったであろうアズールにお鉢が回ってきたという時点で、母親と死別したか捨てられたかしたのだろうことは想像に難くない。言葉運びを間違えたな、とメタは思った。モルフォが来てからこんなことばかりだ。当のモルフォは聞いているのかいないのか、ムニュムニュ言いながら首をかしげた。
「んん? さみしいかって? わたしが? アズールとメタがいるから寂しくないよ。……確かにアズールの言うとおりだったな」
その言葉にメタは引っかかりを覚えた。
「アズールに何か聞いたのか?」
「うん。親の話はメタにするなって言われたの。理由は教えてくれなかったけど。あと自分のことも教えてくれなかった」
家庭の中で酷い扱いを受けていたのだろうか、とメタは考えたが、親のいないメタにドメスティックな関係というのはうまく想像ができなかった。学校で見聞きしたぼんやりとしたイメージがあるだけだ。それとも何か不名誉が? そうだとしてもあの生命倫理と常識を物の数とも思わない男がわざわざ黙っていることはしないだろうな、と思う。彼女が不義の子だとしても、家庭のあるのが母親側ならS型第二世代の子など預けはしないだろうし、そもそもアズールは未婚だ。何も教えないのはこの小さな娘に対するアズールなりの気遣いなのだろうか。そうだとしたら裏目に出ているな、とメタは思った。
不可解なのはもともとだ。なにか、理解の助けになれば良いと思って、メタは尋ねる。
「モルフォはアズールのことが知りたいのか?」
「うん、アズールのちっちゃいころ?」
メタは革の手袋から目を上げて、形の良い目を瞬いた。アズールも親には違いない、と思っていたが、違う。モルフォが尋ねたのは『アズール自身の』親の話だ。
「そうか……モルフォは知らなかったな。S型第二世代に生まれたものは通常、かなり早い段階で親元を離れて全寮制の学校に入る。だから、ほかの人種の人間と比べると直接の血縁者というものになじみがないんだ。同じくらいの年頃で集められるから横のつながりが強くて……遺伝子的にもかなり近い、らしい。俺自身は特別そうは思わないが。全員が兄弟みたいだし、逆に物理的に距離がある人は殆ど遠縁の親戚、つまり他人みたいなものになってしまう……のか? たぶん概ねそのような感じだ。だから親との関わりっていうのは他の人種と比べて無いに等しい。他の人種とは違う文化があるんだ。教えてくれなかったというか、答えられないんだろう。アズールも意地悪してるわけじゃないからそこはわかってやってくれ」
「そっか、そうなんだ。知らなかった」
「学校に入ればいやでもわかるからな。逆に誰も教えてはくれないことだ」
メタは床の目地に目を向ける。ふうん、とモルフォは言って、メタの座るベンチによじ登った。ぺたぺたと確かめるように触ってから青黒い髪を白衣の肩に乗せ、モルフォは背にべったりと張り付く。軽い身体がずるずると滑っていく。危険だ、と言って諫めるべきか迷い、メタは結局放っておくことにした。
「そのへんメタは詳しいんだね。昔は学校関係者だったの?」
メタは口ごもり、なんと答えたものか考えた。モルフォは横顔をじっと見てくる。首を傾けると視線がぶつかって、大きな青の瞳がゆっくりと瞬きをするのが見えた。
「……まあ間違っちゃいないな。詳しくは言えないから聞かれても困る。すまないな、面白い話の一つでも聞かせてやれれば良かったんだが……」
言葉を濁し、メタは目をそらす。聞いていたモルフォは体を起こし、いたずらっぽく笑った。
「言えないことがいっぱいあるんだね。アズールと一緒だ」
最初、何を言われたのかわからなかった。理解した瞬間、メタは耳をふさぎたいような気持ちになった。アズールの秘密。それがろくなものではないであろう事はさすがにメタにも予想がつく。一声叫び、何も聞こえなかったようなふりをして今すぐ部屋を出ていきたかったが、それでも詳細を聞いておかないとあとあと非常にまずいことになるだろうことが予想されたので、メタは腹を括り、務めてゆっくり声を出した。
「……アズのやつが何をしていたか聞いてもいいか? 後学の……いや、答え次第で今後の身の振り方を考えなくちゃならないから……」
鋭さを増した赤い目に何か思うところがあったのか、モルフォは周りを見回し真剣な顔つきになった。耳に口を寄せる。聞きたくないな、とメタは思った。
「……あのね、言ったこと内緒だよ。…………えっとね、さっきね、イチゴミルクのキャンディーをとかしたグミでくっつけて四倍スペシャルキャンディーにして齧ってた。ひとりで、こっそり。数えてないけどたぶん十個くらい使ってた」
「あ、ああ、それは……えらいことだな……」
あいつは一体何をしているんだ、と思ったが、モルフォがなにか、ほかのインモラルなことをしているところを見たわけでなくてよかったという気持ちが混ざり合って、体から力が抜ける。何も言えないまま形容しがたい妙な心持でいると、モルフォがついついと裾を引いた。
「それでね、黙っていてっていわれて飴もらったから、わたしが見たって言ったこと、メタも秘密にしてね。メタにもあげる。内緒だよ」
手に握りこんだままモルフォが差し出てきたそれを、メタは反射的に受け取ってしまった。モルフォが去ったあと、一人になったメタは手の中で転がる二つの飴を見ながら『内緒』の適用範囲について考えていた。
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