#8 タブラ・ラサの白(まっさらと手紙について)

「メタの体って死んでるみたいに冷たいね」

唐突に発された一言にメタはそれこそ氷のように固まった。メタの狼狽を知ることもなく、モルフォは続ける。

「ねえ、メタ、『死んでるみたい』って、これで使い方あってる? 比喩表現っていうのを最近覚えてやってみているんだけど、うまくできてる?」

物騒な物言いの理由が知れて、メタは動作を再開する。

「……モルフォ、勉強熱心なのは良いことだが、人間には面と向かって言っていいことと悪いことがあるんだ…… 死んでるみたいは止めてくれ。さすがに言われていい気分はしない……」

「ん、わかった。覚えとく。ごめんね、メタ」

苦々しげなメタに頷いて、モルフォは半身で張り付いて慰めるように背中を撫ぜた。そこへアズールが通りがかる。

「ああ、モルフォ。今は良いけど走ってるときのメタに触っちゃだめだよ。メタの体温は二百度くらいまで上がるからね」

「こんなに冷たいのに体温が高いの? こどもみたいだね。おそろい?」

おそろい、と繰り返し、メタは抱きしめられたまま頭を抱えた。目に見えて狼狽えているのに、ただただ苦い顔をするばかりで怒鳴り出さないメタを見て、珍しいこともあるもんだなとアズールは思った。

「おい、ぼーっと見てないで助けてくれアズール。死体と言われたり子供と言われたりで、頭がどうにかなりそうだ。俺にはもうついていけない」

「アズール、わたし、なにか変なこと言った? こどもって普通より体温が高いって聞いたけど、もしかして違った? そういうことじゃないの?」

メタはうんざりしたように首を振る。モルフォは抱きついた体制そのまま、きょとんとして軽い動作で首をかしげる。アズールは不思議そうに眼を瞬く幼い少女を呼び寄せた。

「おいで、モルフォ。人間の体温は42度以上にはならないんだよ。それと、メタは頭が固いから多分その手の関連付けが苦手なんだ。考える時間がいるだろうからしばらく一人にしてあげよう」

「うん。アズールのいうとおりにする。またね、メタ」

アズールはモルフォの手を引いて部屋を出た。肩越しに振り返り、小さな手はアズールの柔らかい指先をゆるゆると不安げに握った。

「わたしがいけなかったのかな」

落胆したようなメタの姿が気にかかるのだろう、モルフォはうつむきがちにぽそりとこぼす。対してアズールはうーん、とのんびり言った。

「どうだろう。ああでもそうだね、『死んでるみたい』はいけないよ。僕も昔言ったことあるけど」

「あるの? アズールも?」

驚いたようにぱっと顔を上げたモルフォにアズールはゆっくりうなずいた。

「あるとも。結局僕のほうが死んでるみたいな状態にされたよ」

「どういうこと?」

どういうこと、とモルフォは繰り返した。アズールは肩をすくめる。

「怒らせて半殺しにされたってことさ。何か話したとして、その結果どんなことが起こるかわからないし言葉には気をつけなくちゃいけない。知らない言葉を使うときは僕へ相談に来たらいいよ。例文集を当たったっていい」

「うん。それより、アズールは大丈夫だったの? 半殺しってどれくらい死んだの?」

「どれくらいだろうね。治るまでにだいぶかかったけど、よくわかんないな……まあ、慣れてるから平気だ。うん、でもまあ、モルフォはやんないほうがいいよ。どんな場合でも怒られるのはあんまり楽しいことじゃないからね」

「えー、うん、そうする」

モルフォはちょっと意外そうにアズールを見上げ、頷いた。


◆◆◆


例文集のテープを探し出し、じゃあ僕は仕事が残っているから、また後で、と言ってアズールはモルフォと分かれた。扉を閉めた瞬間、すっとアズールの笑みが消える。『死体のような体』。一人になったアズールは体温の移って温まった指先をじっと見て、さっきの会話を反芻する。死んだように冷たい体。硬直してもう動くことのない肉体。親指は首を絞める感触を知っている。爪の先はあたたかな腹を知っている。この腕は絶命の瞬間に体が冷たくなるわけでないことを知っている。長年の経験が、死んだ後の体がどうなるかを克明に再現しようとしてくる。ぐるぐると巡る熱っぽい思考のなかで、アズールは本来自分が『何をしようとしていたのか』を思い出した。手が冷えて、ずくりと体の底が震えた。それは悪意と害意に満ちていて、今の状況を鑑みるとしたならば、吐き気を催す程の悪逆に思えた。

自販機の陰で首を絞めた。捻る首の硬さを知っている。注射針を入れるときの、盛り上がって押し返す肉の感触を覚えている。息を求めて喘ぐ声にハンカチを詰めて黙らせたこともある。今までどれだけ殺しただろう。損なうことは良き行いではないと知っていたが、別段罪だとは思わなかった。だってそれらは仕方の無いことだ。だから回りも見逃した。目的の先が何であれ、それらはいつだって仕方のないことだった。仕方のないことだったのだ。


アズールは犯してきた間違いについて考えた。間違いと、それ以外について。潔白な生き方。妻帯し、子を設け、家庭を持つ、考えもしなかった人生について。行き先なんてなかった。いつだって目先の快楽を追っていた。気持ちのいいことは好きだった。楽しいことは全てだった。だからこの仕事に就いたし、研究職でやってこられた。そうこうしているうちに逸脱していた。周りに合わせられずにここへ送られた。それは別にどうだっていい。自由にできる分、得したとさえ思っていた。でも、それが違ったとしたら? 自分の行いの作ったこの環境そのものが、今回の事態を呼び込んだのだとしたら?

アズールはしゃがみ込む。白衣の裾が地面に擦れたが、彼は気にしなかった。子を持つ親は潔白であらねばならない。そうだ。潔白であらねばならない。正しさとは何だ? 普通とはなんだ? これから先、すくなくともモルフォとメタの前ではまともでいなければならないのだ。できるだろうか。否、しなければならない。親というものは清くあらねばならない。それが正しき行いだ。そうしなくては次世代に受け継がれる規範が……次世代?

「……?」

アズールはぐるぐると巡り始めた思考をはたと止める。S型である以上、子世代と親世代が密接に関わることは構造上あり得ない。アズールはそれを知っている。規範は受け継がれない。親とはなんだ? 親になるというのはどういうことだ? 子供は造られるものではなかったか? アズールは両親を知らない。子を産み育てる親のイメージは自身の受けた教育により植え付けられたものだ。それは外に出て、他人種とやっていかねばならない青色の彼らのため組まれたプログラムだ。内に留まったアズールが親になることはない。イレギュラーを除けば『S型第二世代の』子供たちは腹から生まれることはない。個人が生育を担うことはない。そのはずだ。そのはずだった。モルフォは例外中の例外だ。なにか変だ、と煮えた脳でアズールは考える。頭の中に詰まった印象と実情にずれがある。自分の体はどこから来た? 何か変だ、そう思うも、腹の底がずくずくと疼いて、アズールは考えるのをやめてしまった。


◆◆◆


黒い頭がひょこりと覗き、メタは書いていた日誌から目を上げた。

「さっきはごめんね。……メタ、怒ってる?」

ぽそぽそと遠巻きに発される謝罪を聞いて、子供なのにしっかりしているな、とぼんやり思った。まず言い訳と弁明から入る誰かとは大違いだ。メタは最初にゆっくり首を振って、怖がらせないよう気を遣って次に話す言葉を選んだ。

「いいや、怒ってはいない。さっきのことも、これから気を付けてくれればそれでいい」

「あの、えっと」

モルフォは俯き、そっとメタを見た。日誌を閉じ、メタは言葉を待つ。

「あのね、これ、メタにあげる」

差し出されたのは見慣れたキャンディだった。メタは促されるままそれらを受け取る。

「わたしね、謝ろうと思って、手紙を書こうとしたの。でもね、あのね」

かけなくて、とモルフォは言った。さもありなん、とメタは思う。今時手紙を書く人間もそういないし、そもそも格式ばった手紙を書くのには技術と練習がいる。そんなものが、まだ小さなモルフォにすんなり書けるわけもない。初等教育から先を受けていないならなおさらだろう。モルフォはもじもじと手を組み合わせた。

「ね、メタは手紙、書ける?」

「書いたことはないが、書き方は知っている」

「教えて」

「良いが…… ああいや、俺に出す手紙の相談ならやめてくれ。自分に出す文の添削はしたくない」

了承しかけ、言い終わる前にメタは条件を付けた。モルフォが口をきゅっと閉じるのが見え、やっぱりそのつもりだったのか、とメタは思った。

「じゃあ、アズールに出す手紙ならいい?」

「……ああ」

ほかに出す相手はいないのか、と言いかけ、メタは口をつぐんだ。親兄弟はおらず、学校に行っていないモルフォに学友は存在せず、仕事をする年齢ではまだないので同僚もいない。それ以外の繋がりがメタにはわからない。S型のコミュニティを外れた彼女は何に囲まれて、どんな暮らしをしていたのか、メタには知る由もない。ただ一つわかるのは異境の地で暮らすことの困難。唯一身近だったはずの母親はいないと聞いている。彼女の親はアズールしかいない。他の人と言ったって、一体誰に出せというのだ。こみあげてくる苦いものをぐっとこらえ、メタは一言、『書きやすい便箋を買っておかなくちゃな』と言うにとどめた。

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