#3 非加熱コランダムの青(蝶々について)
柔らかく水っぽい肌質は芋虫のようで、くにゃくにゃと形の定まらないフレームは羽化したばかりの翅に似ている。芽吹き、これから花開いていくであろう『青』の兆し、『大人』を思わせる線の細さとは裏腹に、その身体は力なくだれる。水の胎から生まれ落ちた、一族の子。生まれたての身体は緩いゼリーのようで危なっかしいが、揺蕩う身体を水に返してやることはもうできない。
瓶詰の飴と消毒済みのスプーンをそろえ、アズールは抱きかかえたモルフォへ掬った飴を少しずつ与えた。腕の中で、まっさらな身体は日ごとに重さを増す。よく食べ、よく眠り、生まれたての子供は這い転がる。アズールは飴を与える。白い手足は伸びゆく。柔らかな指が触れ、おくるみは解かれた。布は落ち、しなやかな足は床を求める。立ち上がって歩きだす身体は布の保定を必要としない。
アズールはモルフォの手を引き、風呂に入れた。見る角度によって夜明け前の暗がりのようにくるくると色を変える髪を洗い、体を拭いて、服を着せる。検体に着せるために用意された病衣はアズールにモルフォの出自を否応なく思い出させたので、青い研究者は財布を掴んで服を買いに行った。
肩を抱き、椅子にもたれ掛るように座るモルフォは、アズールのなにかを恐れるような顔と、その後の行動を反芻していた。彼は着せたばかりの病衣の紐をほどき、自分の着ていた白衣を着せ掛けてボタンを閉じると、おとなしく待っているように言って部屋を飛び出していった。青い髪がなびき、それは見る間に扉の向こうへ消える。
ひとりきりになった部屋で所在なげに服の裾を引っ張るモルフォは、胸から腹に大きくたわむ布地からボタンの掛け違えに気が付いた。彼女はたどたどしい手つきでひとつふたつとボタンを外すと、正しくゆっくり掛けなおしていく。ボタンホールにはまる大きなプラスチックのボタンが白い指に持ち上げられて、青の兆す瞳に見つめられる。モルフォはそれに歯を立てた。白衣のボタンと同じだけ白く、しかしその上で尖った歯。咬まれたボタンはカチ、と音をならした。
数十分後、息を切らせ、いくつもの紙袋を抱えて帰ってきたアズールはモルフォを呼び寄せた。赤いチェックの下着とやや少女趣味なドレス。はっきりとした色合いの布地が広がり、するすると袖が通る。器用な指がすいすいとボタンを閉じていき、最後にぱちんとタグが切られる。モルフォはなされるがまま、それをただじっと眺めていた。
◆
ぱたぱたと駆け回るモルフォを眺め、アズールは手帳を捲っていた。あれから実に一週間が経っていた。鉛筆を持ったまま頭をガシガシと掻く。アズールが呼べば、モルフォは年相応の従順さでアズールのもとへ歩み寄った。この頃のモルフォは言葉が追いつき、アズールと同じものを食べるようになっていた。
「アズール、どうしたの」
「もうすぐ、メタが退院して帰ってくるんだよ」
アズールはペンを置き、モルフォの体を抱え上げてゆらゆらと揺らした。肩で止めた簡易なドレスの裾が揺れる。モルフォは高い位置から不思議そうに尋ねた。
「メタってだあれ?」
「そうだな、お友達だ」
「お友達? アズールの?」
「そうだよ」
アズールはモルフォを降ろし、頬をむにゅむにゅと撫でまわす。モルフォは唇を突き出し、されるがままになっていた。
「いい頃合いだ。モルフォ。きみを立派なレディにしてあげよう。おいで」
小さなモルフォのつむじを見下ろしながら歩く。複製器を動かす時、余計な変更を加えずプロトコル通りのテープを入れておいて良かった、とアズールは思う。
S型に限らず今の子供は脳髄テープにより、基本的な社会生活を最低限送るための記憶を持たされて生まれてくる。ある程度肉体が育った状態で生みだされるクローンと違い、人間の腹から生まれる赤ん坊は脳が育ちきるまでの間に従来通りの発達を待つしかないのだが、それはまた特殊なケースだ。
テープにより人間の教育の自動化は進んだが、問題点もいくつかあった。まず読み込ませるのにそれなりの時間がかかり、肉体にもそれなりの負担になるため、出生の際にすべてを与えることはできないこと。それから、機材が高く一般家庭で使用するには導入コストがかかりすぎること。高い教育コストを下げるため、一定の年齢になった子供は基礎知識が頭に入りきるまでの間、一斉に教育施設へ預けられた。アズールもそのうちの一人だった。
支部とはいえ、クローンを扱うこの研究所には教育現場で使うそれと同じものがある。汎用機ではないが、この際些末な問題だといえよう。生まれたばかりのモルフォには基本生活セットと頻出単語辞書しか入っていない。特に前者は髪が黒い頃に使うもので、髪の色が変わりかけているモルフォにはやや不足が目立つ。アズールは新たなテープを用意し、モルフォへ与えた。
「これ、なあに?」
小さな両手でテープをつかみ、モルフォは尋ねる。小さな指先にはちっちゃな爪が並んでいて、ああ、本当に子供なんだな、と思う。
「知識だよ。素敵なものだ。おいで。こっちへ」
アズールはモルフォをテープ再生器の台へと寝かせ、ヘルメットをかぶせた。体には備え付けの毛布を掛ける。モルフォは青い目でアズールを見上げた。
「これから毎日、ここでこれをかぶって眠るんだ。眠っていれば終わる」
「ねむる……」
控えめに頷き、繰り返す。アズールは少しの間口を閉ざした。何か言い含めなければならないことはあっただろうか。『人間の』子供を相手にするのは久しぶりのことで、アズールはブランク故の散漫を恐れた。
「そう、もし、眠れなかったらこのボタンを押すんだ。頭に負担がかかって眠くなるし、その分早く終わる。出来そう?」
「うん。やってみる」
アズールは元々入っていたテープをモルフォに持たせていた応用生活セットへ入れ替え、スイッチを入れた。モルフォは寝転がったまま、手を離れて投入口に吸い込まれていったテープをじっと見ていた。ボタンを押すと、ゆっくり瞼が落ちる。アズールは額に手をかざし、影を作ってやった。
「目が覚めたら使い方は頭に入っている。明日からは自分でできるようになるよ」
そうなればこれからはもっとたくさんのことができるようになる、とアズールは言った。
「うん……」
幼い肯定はむにゃむにゃと曖昧に溶けていく。長い睫毛は伏せられて、ふーっと深い息の後に、すよすよと安らかな寝息が聞こえてきた。アズールはモルフォの温かい頬を撫ぜた。高い体温は子供特有のものだ。子供。『研究員』アズールの子供たちは皆死んだ。あるものは寿命で、あるものは果たすべき役割で。いくつかのものは自身の手によって。彼女はいつまで生きるだろうか。生きられるだろうか。
「……おやすみ。良い夢を」
アズールは彼女の体に毛布を掛けなおすと、もう一度彼女の頬を撫でて、部屋を後にした。
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