#2 翅の青(続・イントロダクション)

少女はガラスケースの甘い水から取り上げられた。アズールは抱え上げた彼女にタオルを巻いて、その体を椅子へもたせ掛ける。しなやかな手足も膨らみかけの乳房も、白いかんばせを彩る長い睫毛もやわらかな唇もすべて、男であっては持ちえないものだ。アズールは頭を抱えた。


彼が頭を悩ませる理由はいくつかある。まずはクローン製造禁止法の存在。クローニング技術が発達するにつれ、神への造反行為とまで言われたそれを、人々は軽々しく扱うようになった。政府は届け出のない野放図なクローニングを違法とし、刑罰を科すことを決定した。


生成物が既存の人間のコピーだったなら良い。流出した個人データから造られた違法クローンを捕獲したことにすれば問題なく『処分』できる。研究所職員は特にその傾向が強い。生体認証があるからだ。網膜スキャンのために眼球を培養するなんていうのは序の口も序の口、認証突破のためにクローンを伴うなら良い方で、通常は切り落とした首や手を持ち込む。製造元では切除したものが、ハッキングされる側では置いて行かれた生体鍵の該当物がそれぞれ残るので、廃棄物に内臓が混じるなんていうのはここでは日常茶飯事だ。だから、今回のこれだって平気だと思っていた。

しかし、今、目の前にいるのは誰か。研究所には彼女のような人間はいない。少女がクローンでかつ未認可であると知れれば、アズールは逮捕され、研究所を放逐、更に余罪を問われれば終身刑だ。クローンだとばれずとも、『処分』が露見し、殺人罪に問われれば同様の結果になるだろう。何よりこのことをメタに知られれば半殺しは確実だ。無申請のクローニングが違法化された際、アズールはそれまでの”興味本位で造ってはエーテル注入で眠らせる”やり方からは足を洗うと約束したのだ。


憔悴したアズールは思い出す。約束の日からしばらくたったあるときだ。アズールは臓器移植に使用するためパトロンであった要人の体を秘密裏に複製した。それは、出資の存続と引き換えに違法行為の片棒を担がされた、ということになっている。『研究資金のため、ひいては研究所の存続のため』という大義名分のもと、アズールは嬉々としてそれを執り仕切った。嬉しかったのは本当だ。人間の内臓。まっさらな体。興奮するなという方が無理がある。それでも『研究所のために仕方なく』という建前は守った。

なにか、思うところがあったのかはわからない。アズールの行いを知ったメタは何も言わなかった。ただただ、暗い部屋のいつもの椅子で、苦い顔をして白衣も着たまま、考え込むようにじっと座っていた。アズールはそれを見てしまった。


一言紡げば終わってしまう二人の関係をアズールが意識したのはその時が初めてだった。「もううんざりだ」とメタが吐き捨てるように言えば彼はもうそれまでの相棒ではない。他人になったメタは用済みになったアズールを殺すことだって出来るだろう。それは十三段目の縄によるものかもしれないし、彼自身の腕によるものかもしれない。『偽物だと思った』とでも言って申請書を書けば彼が罪に問われることはない。アズール自身もそうやって何人もの人間を殺してきた。そうなれば、そうなってしまえば、アズールは絶望のうちに死んでいくほか道がない。メタに見放されるのだけは、どうしてもごめんだった。勝手気ままに生きてきたアズールには頼れる者がいない。メタの逆鱗に触れ、彼という後ろ盾をなくせば、アズールはもう誰に殺されてもおかしくはないのだ。これまでの短くない人生でアズールはそれだけのことをしてきた。してきてしまった。


あの夜、ガラスの向こうで黙り込むメタに、アズールは何も言えなかった。何を言っても間違いのような気がしたし、実際そうだったのだろうと思われた。だから、アズールは何もなかったような顔をした。自分は何も見なかった。そうして逃げるように場を離れ、そのまま目を逸らし続けることを選んだ。目を逸らし、気付かなかったふりをしながら、ひとつふたつと罪を重ねた。そして、今回も。遅れてきた後悔と、今更鮮明に思い起こされて離れないイメージ。悔やんだってもう遅い。あのときすっぱりやめておけば、日頃からメタの言うことを聞いていれば起こらなかったはずのことだった。それでも結果はこのざまだ。


アズールはこみ上げる悔いを口にはしなかった。自身の行いを呪っているような猶予はすでにない。少女は生まれてきてしまったし、後戻りしようにも道は閉ざされている。あとはもう、行くところまで行くしかない。

アズールは台の上で伸びているそれの運動機能をチェックした。身体・脳に問題は無し。抱き上げ、続いて解析機にかける。知能レベルは普通。さしたる特徴もない、標準的なS型第二世代だ。突出して劣る個体であれば処分も検討されるが、その必要はなさそうだった。さしあたり処分によって足がつく恐れは消えた。アズールは少女を抱えたまま安堵の息を吐いた。


腕の中、少女は今まで閉じていた目を薄く開いた。濡れた瞳が艶めかしく光る。アズールは新しいバスタオルを濡れた肩にかけ、少女を抱き直した。座りきらない首をくたりともたせ掛け、少女は眠たげだった目をみはった。その目に光を取り込むように、始めて見る世界を確かめるように。ふっくらした唇が控えめに開かれ、息を吸い込んだ口からは培養槽の水がごぼごぼと吐き出される。始まった、とアズールは思う。S型第二世代の誕生だ。シャツの胸元が濡れ、床へはばたばたと真水が垂れた。

「……ぁ」

濡れた唇。目を開けた少女は喉を震わせる。髪から垂れた水滴が、頬を濡らしてやわらかな肌を滑り落ちた。

「なまえ、を、き、かせ、て」

少女の喉が震って出した音は、やはり知らない人間の声だった。聞いたことのない声、見たことのない姿。メタの体から分離して作ったはずの誰とも知れぬ存在に、アズールは僅かな恐ろしさを感じた。腕の中にある体は、その存在の確かさを主張するかのようにずっしりと重い。アズールは自分を指し、少女の問いにこたえる。

「あ、アズール……」

「わた、し? わたし、の……なまえ」

たどたどしい発音と長い睫毛が問う。ふっくらした顔を縁取る、透明な青としっとりとした黒の混在する髪。アズールは少し考え、『……モルフォ』と答えた。白い肌やしずくを垂らす濡れた髪は、蛍光灯の元で青く冷たい光を放っている。

「……モル、フォ?」

アズールは頷き、『名前』は彼女のものとなった。未だ暗い色の目は瞬く。長い睫毛が開閉するさまが、蝶の羽を思わせた。S型第二世代には『青い』名前を付けるのが習わしだ。誰とも、どこから来たともしれぬS型第二世代の青い果実は、この時からモルフォとなった。

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