大正二十七年、二月某日。[3]

 ところが、キョウヤたちがモノベ邸へと帰り着いたとき、そこにハルオミの姿はなかった。よく勝手にくつろいでいる客間はもぬけの殻で、かろうじてタバコのにおいだけが残っている。妙だと、キョウヤは思った。すぐに人を呼んで話を聞いてみたが、下女たちはおろか、家令でさえもハルオミが来訪していたことを知らない。ハルオミが異能を使えば、屋敷の人間に気づかれず出入りすることなど容易いのだが、どうしてか、いやに胸騒ぎがした。

 モノベ邸二階にあるチヨコの部屋へキョウヤが駆けこむと、暖められていたはずの部屋は、すっかり冷えきっていた。窓が開け放たれ、外気が入りこんでいるのだ。ぼろのカーテンが踊る窓辺のベッドに、チヨコの姿はない。してやられたと、キョウヤは歯噛みした。

「何を考えているんだ、あの人は」

 ハルオミは、タバコを切らしてなどいなかった。客間に残っていたタバコのにおいが、それを如実に物語っている。タバコを切らしたというのは、キョウヤとトシヒコを追い払うための嘘でしかなかったのだ。

 おそらく、ハルオミはチヨコを連れ出したかった。けれど、それをするにはキョウヤたちが邪魔だった。なぜか。キョウヤやトシヒコが、快く思わないだろうことをしようとしているからではないのか。

「わからないのは、わざわざチヨコを連れ去った理由か」

「議会に報告するにしたって、チヨコをともなう必要はない」

 キョウヤはサイドテーブルの引きだしから、薬の入った巾着袋を取り出した。案の定、中の薬にはまったく手がつけられていない。キョウヤは舌打ちをした。

 チヨコは超異能力を暴走させ、心身ともに消耗しきっているのだ。容態が急変する可能性は、多分にある。それだというのに、薬ひとつ持たずに外へ連れ出すなど、キョウヤには考えられないことだった。苛立つキョウヤの肩を、トシヒコの手が叩く。

「落ち着け、キョウヤ。いくらあの人でも、サガラ家を敵に回すつもりは」

「おチヨは養女だ。サガラは帝国議会に従って引き取っただけにすぎない」

 苦く吐き捨て、キョウヤは薄汚れたちりめんの巾着袋を握りしめる。トシヒコの手が、かすかにふるえた。

 超異能力の存在を知っているからといって、サガラ家にその力を扱える人間はいない。ましてや、チヨコは自身の力も制御できないのだ。サガラ家からしてみれば、鼻つまみ者でしかない。だからこそ、チヨコはあの日からずっとモノベで暮らしてきた――

 キョウヤの肩にあったトシヒコの手が、静かに離れていく。

「悪い。知らなかったんだ」

 引いた手で、トシヒコは帽子のつばをさげた。ばつが悪いといったようすだった。だけれど、それもしかたのないことだ。キョウヤは、ゆるくかぶりを振った。

「僕だって言わなかった。あまり気分の良い話ではないから」

 哀れな娘だと、そう思う。あんなにも弱く儚い存在であるのに、川へと流されたチヨコという笹舟に寄る辺などはない。ただただ水の流れに身を任せ、自らの行く末を案じることしかできないのだ。

「とにかく、さがそう。チヨコが心配だ」

 トシヒコの言葉にうなずいて、キョウヤは巾着袋を懐へとしまった。いつもチヨコが座っているベッドに手をすべらせる。手ざわりの良い、白く清潔なシーツ。ほのかに、せっけんの香りがする。すっかり冷たくなっているところを考えると、チヨコがいなくなってから、もういくらか経っているのだろう。

 本来、キョウヤもトシヒコも、こういった類の超異能力は得意ではないのだけれど、適正の高い二人がそろいもそろって行方知れずになっているのだから、やむを得ない。目を閉じて、深く呼吸をする。意識を手の先からベッドへと移し、残された思念をさぐる。

 強く感じたのは、恐怖だった。燃えさかる炎の幻に意識をのまれた、チヨコの残留思念。それに匹敵するほどの強さで残っていたのは、懺悔。きっと消えることのない、チヨコの心の傷だった。ふとしたら、キョウヤ自身の意識まで流されそうになる。けれど、それでいてはチヨコを見つけだすことはできないのだ。爪の先が食いこむほどにこぶしを握り、キョウヤは意識を保つ。期待を裏切られたことへの悲しみ、理解されなかったことへのさみしさ、そして――

 やがて、キョウヤはそれまでとは異なる鮮度の思念と感応した。際立って新しいそれは、恐怖というには弱く、驚きというには暗い。怯えている。チヨコが怯えている。では、何に怯えているというのか。深く、深く感応するほどに、キョウヤにもみえてくる。細くたなびく紫煙、息苦しさを覚えるほどの威圧感、薄い唇がかたどった「トクムタイ」という言葉。しかし、キョウヤには、そこまでしかみることができなかった。すぼめられた口から白い煙を吐きかけられたとたんに、ふつりと思念は途絶えてしまう。

 意識が、在るべき現実へと弾き出される。脳を揺さぶるような衝撃に、キョウヤはかろうじて足を踏んばった。遠ざかっていたキョウヤ自身の五感が、徐々に戻ってくる。

「どうだった」

「間違いない、ハルオミさんだ」

 ぐらつく頭を振りながら、キョウヤは答えた。「おそらくは特務隊と、そう言っていた」

「特務隊だって?」

 にわかに、トシヒコの声色が変わる。

「知っているのか」と問えば、「少し」と言葉が返った。

 いわく、それは帝国議会が作ろうとしている超異能力者を集めた部隊であるという。詳しくはトシヒコも知らないが、ハルオミは言っていた。すべてはお国の事情なのさ、一般大衆から超異能力の存在を徹底して隠そうっていうのも極秘で特務隊を設立しようっていうのもね――

「だが、ハルオミさんは反対していたはず。一体どうして」

「まさか、おチヨを特務隊とやらに加えるつもりなのか」

「わからない」

 手を口もとへやり、トシヒコは思案している。

 正直、超異能力者を集めて特務隊を作るということ自体は、然したる問題ではないようにキョウヤは思う。だが、そこにチヨコを加えようというのであれば、話は別だ。女の、しかも、未だ幼い子ども。どんなことをする集団であるのかがわからないとはいえ、特務などといった仰々しい言葉などとは、とんと縁のなさそうな存在である。おまけに、チヨコにいたっては、

「キョウヤ、よく聞け」

 神妙な面持ちで、トシヒコがキョウヤに向き直った。

「今から俺は異能の力を使う。だが、おまえは何があっても俺にかまうな。チヨコをさがしだして安全を確保するんだ」

「おまえ、一体何を言っているんだ」

「時間がないかもしれないんだ」

 キョウヤの目を見据え、トシヒコは短く言った。頼むから俺の言うとおりにしてくれ――

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