大正二十七年、二月某日。[2]
平民の生まれであり、サガラ家の養女として引き取られたチヨコが、今このモノベ邸にて暮らしているのには、やむにやまれぬ事情がある。そのひとつが、今回チヨコが起こした超異能力の暴走であった。
別に、チヨコだけに限った話ではないのだが、彼女には常人がもちえない異能の力がある。それは、自分とは異なるさまざまな存在と心を通わせることで、その相手の力を「借りる」というものであった。鳥と通い合えば翼を得て、魚と通い合えばひれを得る。さらには、異能をもつ者と通い合えば、その異能の力さえをも得てしまう。幼くして、この異能を発現させたチヨコは、力の扱い方を知らなかった。ましてや、生まれつき身体の弱かった彼女は、自身で力を抑えることが困難であった。それでありながら、チヨコはそうと知らず、他の異能をもつ者と通い合ってしまった――
チヨコの生家が、火事で焼け落ちたのは、彼女が三つになった年のこと。そしてこの際、偶然にも居合わせていたハルオミの調べで、チヨコが異能をもっていると判明したのである。
しかしながら、異能の力というものは一般大衆には知らされておらず、チヨコのように自らの異能を制御できない存在は危険極まりなかった。そこで
ハルオミはしばし、ベッドに寝かせたチヨコをぼんやりと見つめていた。どこか、思案しているようにも見える。しかし、だからといって何を言うわけでもなかった。キョウヤとトシヒコをともなって部屋を出れば、短くなったタバコをくわえたまま、手で懐をさぐる。新しいタバコをさがしているのだろう。彼はずいぶんな愛煙家であるから、助手なんてものをしていれば、そんな仕草は日に何度も見る。すかさず、キョウヤは口を開いた。「タバコなら、バルコニーでお願いします」
振り返ったハルオミは、不満げに鼻を鳴らした。
「いいじゃあないか。チヨコの命を救ってやったろう」
「父はタバコの煙を嫌います。ご存知でしょう」
「まったく、モノベの連中は口うるさいなあ」
しらけたといわんばかりのようすで、ハルオミが肩をすくめる。キョウヤとトシヒコの、ため息が重なった。
「それにしたって」と、トシヒコの目がいぶかしむようにキョウヤへと移る。「一体、何があったんだ。ここのところは落ち着いていただろう」
改めてチヨコのことを問われ、キョウヤ自身もまた困惑した。正直、キョウヤにもわからないのだ。今日は朝から悪夢にうなされていたようすなどはなく、身体の調子だって良かった。チヨコがこんな風に、会話の途中で超異能力を暴走させるなど、初めてのことだった。まるで、癇癪でも起こしたかのようだと、そう思う。
「それなのだけれど」
ためらいがちに言いかけたところで「ああ!」と、ハルオミが大きな声をあげた。何事かと振り向けば、にんまりとした笑みがある。
「きみたち、ちょいと、ひとっ走りしてきてくれないか。タバコを切らしてしまったようでね」
正直にいうのならば、とてもそんなことをしている気分ではなかった。超異能力を暴走させてしまったチヨコのことが、何より気がかりでならなかった。だが、探偵助手である手前、キョウヤとトシヒコにはこれを断ることもできない。
結局、ハルオミに言いつけられるがまま、キョウヤはトシヒコとともに屋敷を出た。タバコ屋へと向かう道すがら、キョウヤはチヨコとのことをトシヒコに話す。隣を歩くトシヒコは、しばらく、気のないような相づちを打って話を聞いていたが、キョウヤの話が終わるや否や、短くこう言った。
「それは、おまえが悪い」
「どうして」
「キョウヤは、チヨコの気持ちがわかっていない。俺たちにとって当たり前のことも、チヨコにとっては当たり前じゃあないんだ」
うろんな目に、わずか非難めいた色をにじませて、トシヒコは言った。
「赤ん坊のころ、おまえは生きるために乳を飲むことくらいはできていただろうが、走ることはできなかったろう。でも、今はできる。それは何かのきっかけで、キョウヤが走ることを知って、自分も走りたいと望んだからだ」
チヨコも同じなのだと、トシヒコは続ける。走ることを知って走りたいと思ったんだ、できないことをできるようになりたいとただそう望んでいる、背伸びをしたいだけなんだ――
つまり、チヨコがひどく感情を乱したのは、自転車が手に入らないからではない。キョウヤが、チヨコにはできないことを「誰にでもできること」と、ひとくくりにしたからだというのだ。
「けれど、おチヨは誰だってと言ったんだ」
「ほとんど屋敷から出られないチヨコが、一般大衆のことを語れると思うのか」
チヨコは手に入らないものを望んで、聞き分けのない駄々をこねるような娘ではない。むしろ、自分の望みをひた隠しにしてでも、他を優先しようとする節さえある。トシヒコの言うとおりであるというのならば、なるほど、キョウヤも合点がいく。
そうこうしているうちに、最寄りのタバコ屋へと着いた。日にきらきらと光るガラスケースへ歩み寄り、トシヒコは陳列されているタバコの銘柄を確認する。
「シルバーバレットを二箱」
店の看板娘であるハナコに声をかけると、その断髪がおどった。
「あら、探偵さんとこの」
「いつもお世話になっています」
「いやあね、それはこっちの台詞だわ。うちは探偵さんのおかげでどうにかなってるようなものだもの」
ころころと笑うハナコに愛想もなく会釈だけを返し、トシヒコはてきぱきと勘定をすませていく。ハナコも慣れた手つきで二箱のタバコを出すと、頬杖をついた。
「安くもないのに、こんな風変わりなタバコをたくさん買ってくださるのは、探偵さんくらいよ」
「そうでしょうね」
静かに応じながら、トシヒコがタバコの箱を受け取る。ふと、キョウヤはトシヒコがこの銘柄のタバコをいっとう嫌っていたのを思い出した。以前、このタバコのにおいは特に鼻がもげそうだと、そうこぼしていたことがある。探偵社に住みこみで働いているというのに、トシヒコはいつまで経っても、このにおいに慣れない。
「今度は三人でいらしてよ。探偵さん、近ごろはちっとも顔を見せにきてくれないのだもの」
頬をふくらませ、むくれてみせるハナコには「伝えておきます」と返事をして、モノベ邸への道を引き返す。「きっとよ」念を押すハナコの声を背に、キョウヤもトシヒコも黙ったままだった。
途中、先を歩いていたトシヒコが人気のない路地へと入りこんだ。誰にも聞かれず話をしたいのだろう。そう見当をつけて、キョウヤもあとに続けば、すぐにトシヒコの足が止まった。
「それでおまえ、どうして金がないからと言ってやらなかったんだ」
キョウヤと向かい合ったトシヒコの口から出てきたのは、案の定、チヨコの話だった。
「大体、幼児用の三輪車ならばともかく、チヨコに自転車はまだ早い。あれを走らせるのには、それなりの力と練習がいるぞ」
「そんなことを言ったら、おチヨをがっかりさせてしまうだろ」
「がっかりさせるのと、チヨコの身体に負担をかけるのと、どっちがいいんだ」
思わず、言葉に詰まった。トシヒコの言い分は、もっともであった。こんなことになるのなら、変にはぐらかさず、きちんと言ってやればよかったのだ。そうしていたら、チヨコだって、きっとわかってくれるはずだった。
だけれど、キョウヤの胸のうちには、苦みばしった気持ちが広がる。気に入らないと、おもしろくないと、そう思う。
「僕のほうが、おチヨのそばにいるのに」
「それなら、おまえもチヨコと同じだ」
トシヒコが、かすかに口の端をつりあげた。
「背伸びをしたいんだろ」
ますます、おもしろくない。キョウヤは、トシヒコの手からタバコの箱をひとつ奪った。引き抜いた一本を口にくわえる。明らかに迷惑そうな顔をしたトシヒコへ箱を投げ渡すと、キョウヤはタバコの先端を両手で覆った。隠した右手の指先に異能の火をともして、タバコの煙を吸いこむ。そうして、キョウヤはむせた。
「馬鹿だな」
呆れたようすのトシヒコが、キョウヤの手からタバコを取りあげた。
「タバコの煙は口で楽しむんだ。肺にまで入れるようなものじゃあない」
「吸ったこともないくせに」
「俺は吸わないが、ハルオミさんがいつも吸っている。吸い方くらい嫌でも覚えるさ」
しゃあしゃあと言い、キョウヤから奪ったタバコを手の中で燃やす。甘いような苦いような、タバコ独特のにおいが煙となって、辺りに立ちこめた。くらくらとする頭を振る。
「ハルオミさんも、酔狂な人だ。そんなものの何が良いのか、僕にはわからない」
「それには同意しておく」
今にも鼻をつまみそうなトシヒコのしかめっつらを見て、キョウヤは少しだけ、気分が晴れたような気がした。空気のよどんだ道で話していたせいだろう。まとわりついて離れない煙を、トシヒコが手で払っている。ここにトシヒコをおいて、先に屋敷へ戻ってやろうか。キョウヤが足を踏みだすと、けれど、なおもトシヒコが言った。
「ただ、おまえは勘違いをしている」
「僕が?」返す声に、今度は少しの苛立ちがまじった。「一体、何を?」
声色の変化に気づけないほど、キョウヤとトシヒコの付き合いは短くない。しかして、トシヒコの口調は常のように淡々としていた。
「チヨコは怒ったのじゃあない。傷ついたんだ」
いつもそばにいてくれる相手に、自分の気持ちが伝わらなかった。そのことを嘆いたのだと。
「おそらく、おまえならわかってくれると、そう期待していたのだろうな」
帽子のつばを押しあげ、トシヒコが薄く笑う。長い付き合いなんだろう、それこそ俺よりもずっと――
「トシヒコ、おまえ」
「さて」と、トンビがひるがえった。風が紫煙をけちらし、トシヒコは学帽をかぶりなおす。「そろそろ戻るぞ。ハルオミさんを放っておくと、面倒だ」
背を向けて歩きだすトシヒコは、常となんら変わらない。怒りはおろか、ほんのわずかな苛立ちさえも感じられない。唐突に、キョウヤは自身がもつ器量の狭さを痛感した。たかだか数歩で追いつくだろう距離にあるはずの背が、ひどく遠く感じられる。
「キョウヤ」
いつまでも動かないキョウヤをいぶかったのだろう。足を止めて振り返った友の姿に、思わず目を落とした。
「悪かったよ」
髪をかきむしり、キョウヤはぼそぼそと言った。「少し、意地の悪いことをした」
しばしの沈黙。ふと、トシヒコの笑う気配がした。
「俺よりも、チヨコに言ってやるんだな」
変わらぬ友の態度に安堵するようで、キョウヤはその器の大きさを思っては複雑な気持ちになった。
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