大正二十七年、二月某日。[4]

 異能の力によって、空間がゆがむ。次の瞬間には、キョウヤはトシヒコとともに、探偵社の所長室にいた。二脚の向かい合うソファのひとつ、そこに横たえられたチヨコと、かたわらに立つハルオミを確認するや否や、キョウヤは自らの身体を異能で浮かせた。脇目も振らず、無防備なハルオミの背へと突進する。刹那、ハルオミが動いた。振り向きざまにキョウヤへと手をかざし、異能を使おうとする。

「させない」

 トシヒコの声がして、紅蓮の炎がハルオミへと襲いかかった。わずか、ハルオミの意識がそれる。その隙を逃さず、キョウヤは鋭く研いだ空気の刃をハルオミに放った。

「おいおい。きみたち、チヨコを殺す気か?」

 わざとらしい口調で言い、ハルオミはキョウヤへかざしていた手から衝撃波を発する。キョウヤの力を相殺し、トシヒコの炎に向かって紫煙を吐き出した。けれど、トシヒコの放った炎は絶えない。より勢いを増してハルオミを狙う。ハルオミの顔に、動揺が走った。床を蹴り、ソファの前から飛び退く。燃えさかる炎が、キョウヤとチヨコをのみこんだ。

「正気か、トシヒコ」

 ハルオミが言った。声色には、信じられないといった思いがありありと表れている。

「あなたに言われる筋合いはないでしょう」

 チヨコを抱えあげて炎の中に立ち、キョウヤはきつくハルオミを睨んだ。ハルオミがおどろきの表情で振り返る。なぜ。唇がそう疑問を紡ぎかけたとき、キョウヤに抱えられたチヨコが薄く目を開いた。

「……キョウヤ、トシヒコと迎えにきてくれたの」

「そうだよ」と、キョウヤは微笑んだ。「さっきは僕が悪かったね。まだ、しんどいだろう。ゆっくり休んでおいで」

 赤い炎に照らされながら、けれど、チヨコは安心したように笑う。「うん」と、ほんの少しうなずいて、まぶたをおろす。すぐにおだやかな寝息が聞こえ始め、そこでトシヒコが床に崩れ落ちた。たちまち、キョウヤとチヨコを覆っていた炎が消え失せる。

「そうか。そういうことかい」

 ハルオミが、膝をつくトシヒコを見やった。

「相変わらず手癖が悪いな、きみは。僕の力を盗んだろう」

「なんのこと、でしょうか」

 息も絶え絶えに、トシヒコは笑う。だが、その笑みはしてやったりといった風であって、決して誤魔化そうとするそれではなかった。キョウヤはチヨコを抱えたまま、ハルオミから距離を取り、つぶさにようすを見る。

 モノベ邸から、この探偵社へと移動する間際。トシヒコがキョウヤに明かしたのは、ふたつ。

 ひとつは、ハルオミがいつもふかしているタバコについてだった。シルバーバレットと銘打たれたこのタバコの煙には、超異能力を封じる力がある。しかしながら、これで異能を封じるにはコツがいる。対象となる異能の本質を見極めたうえで、それに合わせた煙の使い方があるのだ。ゆえに、このタバコを真に扱うには、超異能力へ対する造詣が深くなくてはならない。そういう意味では、優れた異能の使い手であるハルオミが愛用するにふさわしいタバコなのだ。

 では、なぜ、ハルオミはトシヒコが放った炎を封じることができなかったのか。それは、ハルオミが思いこみゆえに、異能の本質を見誤ったからにほかならない。

 キョウヤに明かされたもうひとつの事柄は、トシヒコ自身がもつ異能の力についてだった。トシヒコが生まれもった異能には、その目でとらえた他者の超異能力を「盗む」という性質があった。一見、チヨコのもつ異能と同じようなものであるが、トシヒコが盗むことのできる超異能力はあくまで表面上だけであり、その本質までには届かない。先刻、トシヒコがキョウヤをともなって探偵社へと瞬間的に移動することができたのは、ハルオミが日常的にトシヒコの前で探偵社へと瞬間移動をしていたからであって、移動先までを自身で決められるわけではない。

 キョウヤはしばしば、異能の炎をぶつけることで物質を燃やす。トシヒコはその姿を見ているから、同じように炎をぶつけて物を燃やす程度の力は扱うことができる。そして、当然ながら、ハルオミはこれらの事実を知っていた。だからこそ、ハルオミはトシヒコの放った炎が現実のものであると思いこんでいた。

 だが、実際には違った。トシヒコの放った炎は、現実のものではなかった。催眠による幻覚だった。それは、奇しくもキョウヤたちがタバコを買いに出かける少し前、ハルオミがチヨコに見せた幻の炎を盗んだものだったのである。

 現実の炎と、幻覚の炎とでは、本質が異なる。あるいは、相対したのがハルオミも知らない未知の敵であったのなら、見誤ることもなく、シルバーバレットで封じることができていたのかもしれない。けれども、実際に攻撃をしかけてきたのは、ハルオミのもとで助手をしている少年らだった――

「どうやら、甘く見すぎていたようだ。きみたちも成長していたのだね」

 まいったといった具合で両の手のひらをあげ、ハルオミが肩をすくめた。

「どうです。これでも、まだ彼らを信じられませんか」

 語りかけるその言葉が向かう先は、キョウヤでも、トシヒコでも、チヨコでもない。まさかと、キョウヤは部屋を見渡した。指を鳴らす音が響き渡り、それまで誰の姿もなかった机に、忽然と人影が現れる。ハルオミの超異能力によって姿を隠していたのだろう。山高帽をかぶり、白いひげをたくわえた精悍な顔つきの老人であった。

「どういうことです」

 苦悶の色をにじませながら、未だ立ちあがることもできないトシヒコが問う。心なしか、声が硬い。すると、呆れた顔でハルオミがタバコの煙を吐いた。

「トシヒコ、きみは少し黙っているといい。この僕から盗んだ力を二度も使ったんだ。反動は、ずいぶんな苦痛をともなっているだろう?」

 図星をつかれてか、それとも、タバコのにおいがきつくてか。トシヒコは顔をしかめて、口をつぐむ。代わって、キョウヤが口を開いた。

「そちらの方は」

「カザマヨシキ氏だ。トシヒコのお父上に当たる人さ」

「トシヒコの?」

 キョウヤは、少したまげて老人とトシヒコとの間で視線を行き来させた。外見だけでいうのなら、その齢は六十後半から七十ほどに見える。トシヒコの父というには、いささか歳を重ねすぎているように思えた。けれど、それ以上に妙なのは、

「今日は貴族院きぞくいんから人が訪ねてくると聞きましたが」

「ああ、そうだな」と、ハルオミが普段と変わらぬようすでうなずいた。「その客人がヨシキ氏だ。トシヒコにはそこまで伝えてはいないけれどね」

 時間がないかもしれない――ハルオミとチヨコが姿を消したとき、トシヒコはそう言った。この日に探偵社へ人がくると、トシヒコはハルオミから前もって聞かされていたのである。ほかのどこでもなく、この所長室へと移動してきたのだって、何もトシヒコが自由に行き先を選べないというだけではない。事前に得ていた情報から、ここにいる可能性が高いと踏んだからだ。

「僕たちをたばかったのですか」

「謀っただなんて人聞きが悪いなあ。僕は、きみたちのために取りはからってやったというのに」

「弱ったチヨコを巻きこんでまで? それほどまでに、特務隊というものが重要なのですか」

 細い肩を抱いたまま、キョウヤはハルオミをねめつける。

「きみはチヨコが絡むと、すぐこれだ」

 やれやれといわんばかりに、ハルオミが息をつく。くわえていたタバコを灰皿に押しつけると、ハルオミはヨシキへと視線を投げた。しかし、その視線は相手の指示をうかがわんとするものではない。キョウヤは知っている。これ以上は面倒だと、ハルオミはヨシキに訴えているのだ。ヨシキもまた、ハルオミのひととなりは把握しているのだろう。「ふむ」と声をもらし、椅子から立ちあがった。

「モノベキョウヤくんだったね。ハルオミくんから、トシヒコがいつも世話になっていると聞いている。まずは礼を言わせてもらおう」

 かぶっていた山高帽を取り、ヨシキが一礼する。洗練されたその動きは、優雅でありながら隙がない。キョウヤもまた会釈を返したが、それだけに留まった。

「若いな」

 ヨシキの顔に笑みが浮かぶ。

「前置きはいい、と?」

「トシヒコもチヨコも消耗しています。僕には、ここで話を長引かせる理由がありません」

「物怖じもしない。なるほど、良い面構えだ」

 ひとつうなずき、ヨシキは言った。「では本題へ移るとしよう」

 特務隊、その正式名称は「超異能力特務隊ちょういのうりきとくむたい」といった。帝国議会が秘密裏に結成させようとしている超異能力者を集めた非軍事部隊であり、帝都の守護と、超異能力者および超異能力の秘匿を目的としているのだという。

「明治に廃止された陰陽寮おんみょうりょうを知っているかね」

 ヨシキの枯れ枝のような指が、ひげを撫でた。

「超異能力特務隊は、あれに替わるものとして結成されようとしているのだよ」

 元来、超異能力は神通力などとして古くからこの国に存在しており、それらは限られた血筋の者にのみ発現するものであった。それゆえ、異能をもつ者たちの多くは陰陽寮などに集められ、異能の力もまた、人々に害をなすことがないよう管理されていたのだという。

 明治になると、科学に反するとされた異能の存在は、大衆から否定的な目で見られるようになり、ついには陰陽寮も廃止される。しかし、それ以降、各地で異能の発現事例が多く報告されるようになった。孤立した超異能力者たちは、自身の力を正しく制御する術を知らず、結果として超異能力の暴走事故が頻発した――

 チヨコを抱く腕に、力がこもる。ヨシキは目でうなずき、言葉を続けた。

「このような悲劇を繰り返してはならない。だからこそ、我々は超異能力特務隊を結成することで、異能の力を再び管理下に置こうとしている」

「では、僕たちを信じるかどうかというのは?」

 ハルオミは言っていた。これでもまだ彼らを信じられませんか、と。あれはたしかに、ヨシキへと向けられた問いかけであった。

「あれは、サガラ家の令嬢に関する話だよ」

 そう言って、ヨシキは窓の外へと目を向けた。

「特務隊を結成したとき、彼女の身辺に配するべきなのは、より訓練された超異能力者ではないのか、とね」

 チヨコは危険なのだと、ヨシキは語る。ありとあらゆる異能を扱うだけの素質をもちながら、力の制御ができない。そして、制御できていないがゆえ、彼女固有の異能の性質さえもが、厳密には未だ憶測の域を出ていないのだと。

「未知の異能は、対処が非常に難しい。チヨコ嬢に関しては、シルバーバレットを用いても力を封じられないことがあるほどだ。きみたちのように若い超異能力者では、手に負えない可能性が高い」

 だが、これに異論を唱える者がいた。ハルオミだった。ハルオミは隊長にと推される身でありながら、チヨコをキョウヤとトシヒコから離すのであれば、自分は隊長はおろか、特務隊にも属さないと断言したのである。一部の有力者たちはこれに気色ばんだのだが、ハルオミはどこ吹く風といった風体で、再三の要請にも意見を変えない。そこで、ヨシキは言ったのである。きみがそうまで言うのなら二人の実力を確かめたい――

「チヨコ嬢の暴走を引き起こすような者に、彼女を任せることはできない。だが、異能の暴走は、ほとんどが超異能力者の精神状態に起因する」

 暴走の抑止に適するのは、超異能力者と信頼関係を築いた存在よりほかにない。

「チヨコ嬢のようすを見ればわかる。きみたちは、本当に信頼されているのだね」

 振り返ったヨシキが、おだやかに笑った。

「ハルオミくんが、かたくなに首を縦に振らないわけだよ」

「うちの助手たちはまだまだ未熟ではありますがね、潜在的な力量は十分にあるんで」

 ハルオミは得意げに笑い、懐へ手を伸ばす。しばらく、ごそごそとやっていたハルオミの口から「おや」と、声がもれた。すかさず、一箱のタバコが放って投げられる。

「一本ほど、事故で紛失していますが」

 おぼつかないながらも、自力で立ちあがったトシヒコだった。開封済みのタバコを手にしたハルオミが、にやりとする。「なるほど。手癖が悪いのは、きみだけじゃあないらしい」

 キョウヤが黙って目をそらせば、ハルオミは声をあげて笑った。

「正義感はいっとう強くて、気が利き、何より人間らしい。どうしてなかなか、僕はこいつらのことを気に入っているんですよ」

 真新しいタバコをくわえたハルオミが、ヨシキを見て、にんまりとした。

「どうしたって特務隊をというのなら、チヨコのそばには僕の部下として、必ずこの二人を置かせていただく。今の僕にできる最大限の譲歩です」


  ※


 鉛色をした空から、白い粒が降ってくる。足を止めたトシヒコが、トンビから手を出した。はらはらと降る白いそれを受け止めれば、瞬く間に手の上で溶けて水となる。そのようすを横から眺め、キョウヤは思った。雪とは、一体どうしてこうも儚いものなのか。まるで、人の命のようだとさえ思う。

「チヨコがよろこぶだろうな」

 白い息を吐きながら、トシヒコが言った。

「今日は雪が降ればいいと、しきりに言っていた」

「ああ」

 そういえばそうだったなと、キョウヤは顔をあげる。誕生日には雪が降ってほしい。ここ数日、チヨコが事ある毎に繰り返していた願いだった。

「どうせ、外へ出られはしないというのにね」

 目を伏せて呟くと、トシヒコのトンビが衣擦れの音をたてた。意外そうなトシヒコの声が、キョウヤの名前を呼ぶ。

「おまえ、どうしたんだ。チヨコの晴れの日だろうに」

「すまない」と、キョウヤは薄く笑った。「あんまり儚いものを見たものだから、おチヨと重ねてしまったんだ」

 数年前の今日この日。望まれて生を受けただろうチヨコは、あとどれだけの時を生きられるのだろう。あと、いくらほどの年を重ねて、大きくなって、ともに過ごせるのだろう。縁起でもないことを考えている。その自覚はあった。キョウヤには知る術のないことだとも、重々に承知していた。だのに、毎年この日がくると、考えずにはおられない。

 トシヒコを真似るように、トンビから伸ばした手で雪にふれる。たまゆら、手のひらに冷たさを伝えたそれは、やはり、すぐに溶けて消えてしまう。物悲しい思いが、キョウヤの胸をしめつける。いつだって、終わりというものは、おどろくほどにあっけない。

「だが、それは俺やおまえも同じことだ」

 トンビの襟もとへと手をやり、トシヒコは言った。黒い布地の上で光るバッジを取り、開いた自らのこぶしにのせる。キョウヤのトンビにもつけられているそれは、渡されて間もない超異能力特務隊の徽章だった。

「ハルオミさんも言っていたろう。これを手にした以上、俺たちはただの探偵助手ではなくなる。表向きには何も変わらなくとも、命を危険にさらすことを多くしなきゃならない」

 チヨコだけではない。ほかの超異能力者の暴走を食い止めることも含め、異能の力を駆使して当たらなければ、にっちもさっちもいかない――そんなような任務が、ハルオミからくだるようになるのだ。助手としての、足を使った聞きこみや小間使いじみた手伝いとは違う。帝都を守るため、文字通り、命がけで向き合わなければならない場面もあるだろう。けれど、キョウヤはチヨコのそばにいてやりたいと願ったし、トシヒコとて同じような思いがあったからこそ、この徽章を身につけることを選んだのだ。

「明日を憂うばかりで、今を生きないのは損だぞ」

 徽章を襟に留め直すトシヒコを見て、キョウヤはしばし口を閉ざした。出会ったころから、トシヒコはそうだった。いつでも達観したような物の見方をして先を読み、キョウヤに忠告をする。同じ学校の同じ学年に属しているはずだというのに、その言動からは、しばしば年不相応なものを感じる。そんなとき、決まってキョウヤは思うのだ。このカザマトシヒコという友は、これまでどんな道を歩んできたのだろうかと。

 トシヒコが自ずと過去を語ることはない。キョウヤもまた詮索することをしない。そして、それがゆえに、今の関係が保たれているのだということも、キョウヤは誰に言われずとも感じ取っていた。

「なあトシヒコ、少し寄り道をしてもいいかい」

「かまわないが、贈るものは用意しただろう」

「そうだけれど」

 キョウヤは空を仰いでから、再びトシヒコへと目をやった。

「せっかく、おチヨの願いを聞き届けてくれたんだ。空からの贈りものも、きちんと届けてやらないと」

 すると、トシヒコが笑った。それでこそキョウヤだ――

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