夢うつつと金魚
自室のベッドに倒れ込み、ぐるりと仰向けになった。
窓を開け放ったものの、まったく空気は動かない。肺の中まで入り込んだぬるい空気が、じわじわと僕の体力を奪っていく。
諦めてエアコンのスイッチを押したところで、携帯電話が小刻みに震え始めた。
「もしもし先生? ……あ、はい。ちゃんと家着きました……。はい、はい……すいません」
相手は、担任の先生だった。水分と睡眠をしっかり取るようにと念を押されて、電話は切れた。
あの後、僕は廊下にへたり込んだまま動けなくなってしまった。全身が地面に縫いつけられたように重くなり、力が全然入らなくなって意識と体が切り離されたような感覚だった。このまま、魂が抜けるんじゃないかとも思った。そんな息絶え絶えになった僕を、サイが保健室へと運んでくれたのだ。
そのまま冷房の効いた保健室で寝ていたほうがいいとも思ったが、それよりも、一秒でも早く学校から出たかった。
あの金魚のいる学校から離れたかった。
(……考えてみれば、早退なんて初めてだ)
むくりと起き上がって、汗がしみこんだワイシャツを脱ぐ。制服のズボンも脱ごうと立ち上がると、くらりと視界が揺れた。同時に、忘れかけていた気持ち悪さも戻ってくる。
「うえ……」
よろける体をベッドで支えて、ベルトを付けたままズボンを靴下ごと脱ぐ。重力に任せて床に投げ捨てると、下着だけの姿で、もう一度ベッドに沈み込んだ。近くには朝脱ぎ捨てた部屋着があるが、もう着る体力が残っていない。さっきまで浮いているかと思うくらいふわふわとしていた体が、今は苦しいほど重い。こんな体でよく家まで帰ってこれたものだと、ちょっと自分に感心してしまった。
(そういえば、付いてきてないよな……)
金魚の姿は見当たらなかった。
このままどこかに行ってくれればいいと思っていると、ぽちゃん、ぴちゃんと、遠くから小さな水音が聞こえ始める。
残念なことに、ストーカーを辞めるつもりはないようだ。
ベッドから手を伸ばして、床に置いたポカリを取る。冷凍庫で半分以上凍りついたポカリスエットは、僕の手のひらを容赦なく冷やしていく。一口、二口飲むも、凍っているせいか味は少し濃かった。首元に近づけると、ひやっとした冷たさと、それを追ってくる痛みが、気持ち悪さを少しだけ癒してくれた。
また携帯電話が震えた。
力の入らない手で携帯画面を開くと、サイから、ちゃんと家に着いたかといった内容のメールが届いていた。部活が終わったら、ソージの好きなプリンでも持ってお見舞いに行ってやるよと、ぴこぴこと動く絵文字満載のメールに、少し顔がほころぶ。
(……サイに助けられてばっかりだな)
携帯画面を閉じて、枕をたぐり寄せる。シーツとの間に手を入れると、ひんやりとして気持ちがいい。それでも数秒後には、自分の体温で暑苦しくなってしまう。寝がえりをうつたびに、汗を吸ったシーツが肌にくっついて気持ち悪い。
(明日香は……、明日香には、助けてくれる人がいなかったのか?)
明日香。
槍田明日香。
ボクっ子で、僕の幼馴染で、いつも朱色のリボンで髪をまとめていて――。
ちゃぷん、と、金魚がドアの隙間から飛び込んできた。
また実体化しているのではと心臓が飛び跳ねたが、どうやら大丈夫らしい。
ゆらゆらと、気持ち良さそうに尾ひれを揺らして壁を泳いでいる。
(……あぁ、そうだ。……あの金魚の尾ひれの揺れ方。どっかで見たことあると思ったら……、明日香のリボンと似てるんだ)
家が近所で、親同士も仲が良かったから、ふと気がついたら一緒にいるのが当たり前になっていた。確か小学校の頃までは、お互いの趣味とか、好きも嫌いも把握していた。中学校に入って、成長とともにお互い一緒にいる時間が少なくなっていって……。
そこからだ。
僕と明日香の間に、うっすらとした壁があることに気がついたのは。
(…………あれ? 明日香って昔は自分のこと、私って呼んでなかったか……?)
とぷん、と金魚が跳ねる。
いつからだっただろうか。明日香が自分のことを、ボクと呼びだしたのは。
記憶の中のたくさんの明日香が口を動かす。僕の名を呼ぶ。どうでもいいことを嬉しそうに報告しにくる。拗ねた顔で文句を言いにくる。泣きじゃくって聞き取りづらい言葉を放つ。スギ花粉に苦しみながら冗談を言う。悲しそうな顔で、驚いたような顔で、怒ったような顔で、困ったような顔で、照れたような顔で、それでも嬉しそうな顔で――……、
「――……、あ、」
そうだ、思い出した。
ショートヘアを伸ばし始めた明日香が、今まで一緒に過ごしてきた明日香とは変わってしまったような気がして。男子は男子で、女子は女子でグループを作って分かれるのが普通だと思いこんでしまって。
僕が、勝手に、明日香との間に壁を作ってしまっていたのだ。
「…………っ」
心臓が、今一度飛び跳ねた。
実体化した金魚が、僕の真上にいる。
もう体はくたくたで、指一つ動かせない。そんな僕の上を、まるで当てつけのように泳ぎだす。ぬるりと壁から這い出して、音もなく尾ひれを左右に振って。
そういえばこの金魚、僕が明日香のことを思い出すたびに近寄ってきてはいないか。
「……お前、もしかして……、明日香、なのか……?」
金魚の眼は焦点を合わすことなく、不気味に動き回っている。
「なんで……、なんで、相談してくれなかったんだ? 僕じゃ頼りなかったのか?」
ぎょろぎょろと動いていた眼が、僕の視線とかち合った。大きな眼には、怯えた僕の顔が映し出されている。
「なぁ、明日香……」
金魚に手を伸ばす。
こんなにはっきり見えているのだから、触れられると思っていた。けれど僕の右手は空をきり、そこには何の感覚も残っていなかった。ゆったりと部屋を泳いでいた金魚は、急に床へと飛び込んだ。ぱしゃん、という音とともに、部屋の影へと隠れてしまった。
もう訳が分からない。
あの金魚は、明日香ではないのか。
どうして明日香はいなくなってしまったのか。
どうしてあの金魚は僕の前に現れたのか。
「…………明日香、……お前は僕を、恨んでるのか……?」
こぽこぽと、部屋のどこからか音がした。
その音に呼ばれるように、僕の意識と体はベッドへと深く沈んでいった。
「ねぇ、ソージ。ソージはボクのこと、どう思ってる?」
「はあ?」
――あぁ、これはいつだったろう。
夏休みも半分終わった頃だっただろうか。めずらしく明日香に呼びだされた日の記憶だ。
お互いの家から少し離れた神社に、夕方、誰にも言わずに来て欲しいとメールが届いたのを覚えている。
「ボクのこと。ね、好き? 嫌い?」
「っ! ……い、いきなりなんだよ」
「あっ、いや、聞いてみただけでとくに意味はないかなー、みたいな。えへへ」
「……なんなんだよ……。……、何か悩みでもあるのかよ。言っとくけど、宿題は終わってないぞ」
「宿題はもう終わらせました! っていうか、いつも宿題見せて―って言ってくるのソージの方じゃないですか」
「じゃあ何か家のことで困ってるのか?」
「んー、んんー……、どーでしょ」
「……自分のことだろ。なんで分かんないんだよ」
「ボクの心はとっても複雑なので……自分でもどうしたらいいか……だから、ソージには分かんないですよ」
「なんだそれ」
何か言いたそうに、明日香が目線を泳がせる。
その動作にくっついて、リボンがひらひら揺れる。
神社に来てからずっとこの調子でどうでもいい話ばかりを繰り出してきて、いつまで経っても話は進まなくて……。あの日は――理由は覚えていないが――、あまり機嫌がよくなくて、本題をなかなか持ちださない明日香にイライラしてしまっていた。
「……なぁ、用がないんだったらもう帰りたいんだけど」
「え、あ、……用がない、わけじゃない、けど……。えーとですね……」
僕は、つい強い口調で言ってしまったんだ。
「……なんなんだよ、はっきりしろよ!」
「っ! ど、怒鳴らなくてもいいじゃないですか!」
「だったら早く言えよ。言いたいことがあるんだろ?」
「……うー、うぅ……」
「……、用がないんだったらもう帰るから」
「……、…………」
この日が、明日香と話した最後の日だったかもしれない。
メールで謝るのもなんだか違う気がして、夏期講習やらなんやらでなかなか会えずに謝れない日々が続いて……。
ケンカと呼ぶにはささいなことだったかもしれない。
だけど、気まずい雰囲気を取り去るには、あまりにも時間が経ちすぎてしまった。
そんな中、唐突に明日香はいなくなってしまったのだ。
あの時、明日香は、僕に何を言おうとしていたのだろうか。
何を聞いて欲しかったのだろうか。
夢の中の僕が帰ってしまった後で、一人残された明日香が僕を見ていた。哀しそうな目で、迷子になってしまった子供のような目で、僕を、僕の向こう側で小さくなっていく夢の中の僕を見ていた。
胸がじりじりと痛んだ。
これは夢であって、記憶のねつ造でしかないのに、まるで本当に、明日香がそうしていたんじゃないかとしか思えなくなっていた。
明日香が、ふらりと歩きだす。慌ててその後を追おうとするも、体がうまく動かせない。手足は空をかき、誰かに肩を押さえつけられているかのように、その場からなかなか前に進まない。
「明日香!」
明日香の名前を呼ぶ。
振り向いてくれるだけでいい。ここに僕がいることだけ分かってくれればいい。
僕は必死に、たとえ叶ったとしても現実は1ミリも変わらないというのに、喉が張り裂けるんじゃないかというくらい強く名前を呼び続ける。
「明日香! 明日香! 僕はもう逃げないから! だから!」
明日香には僕の声は届いていない。
ふらふらと左右に揺れながら、学校の屋上の縁へと近づく。
「明日香! 嫌だ! 明日香! 僕の前からいなくならないでくれ!」
フェンスをよじ登った明日香の体は、最後まで僕の声を聞き届けることはなく、いとも簡単に重力に従って落ちた。それと同時に急に動くようになった僕の体が、地面にたたきつけられる。
「ぐっ…!」
べしゃりと、なにか冷たい液体が頬に触れた。
「ひっ……!」
目の前には、体の半分が肉片と化した金魚が横たわっている。
叩きつけられた衝撃で、鱗と肉片がそこらじゅうに散らばっている。ぶよぶよした体からはみ出した肉と内臓は赤黒くぬめり、魚独特の異臭を放っている。流れだした鮮血は、コンクリートの冷たい地面にじわりと黒い染みを作りだしていく。
鼻を突く生臭さの中で、ぱくぱくと、金魚が口を動かす。
僕の心音に合わせるように、その肉体が微弱に痙攣する。
(……まだ、生きて…………、っ!)
その真っ赤な体と地面の間から、なにかが僕を見ている。
異様に大きな頭と、不釣り合いに小さな胴体と手足を持った、一つ眼の真っ赤な赤ん坊が僕に笑いかけている。二つの眼球が接合した一つ眼で、僕の顔を映し出している。ぬるぬるとした脂肪質の手が、僕に触れようと伸ばされる。
「――うあぁあっ! …………あ……?」
視界に入ったのは、見慣れた天井だった。
「……、ゆ、夢…………」
僕はいつの間にか、ベッドから転がり落ちていたらしい。
ブランケットを道連れに、片足だけ残して体ごと落ちてしまっていた。床で寝ていたせいか、少し痛む頭を抱えて、まだ重たい体を無理やり起こす。全身から、滝のように汗が流れていた。今までどうやって息をしていたのかも思い出せないくらい、乱れた息が戻らない。体を支えるためについた右手が、ぺしゃりと水に触れて、
「ひぅっ」
夢の中での出来事が頭をよぎり、情けない声が口をついた。
よくよく見てみれば、床に置いたままだったポカリスエットがすっかり溶けて、水たまりを作っているだけだった。ひやりとしている頬も、きっとこの水に触れていたせいだろう。
なんだ、と胸をなでおろした。
それでも心臓は、どくどくと興奮状態にある。
嫌な夢を見た、という言葉だけでは表せない感情が、僕の中で渦巻いていた。僕は忘れ去ろうとしていたのだ。気づけなかったことを。気づこうとしなかったことを。
僕は明日香に恨まれて当然じゃないか。
金魚が、とぷんと、壁から姿を現した。
鼻を覆いたくなるような臭いは消えていたが、ぎょろぎょろとした気味の悪い目はそのままだった。ゆらゆらと赤い尾ひれを揺らして、窓から差し込む夕日をてらてらと反射して輝いている。
(もし……、もしこの金魚が、本当に明日香だったら……、なにか心残りがあるってことなんだよな……)
死んでもなお、もしかしたら金魚に姿を変えてもなお、僕に気づいて欲しかったこと。
一体何に悩んでいたのだろうか。想像もつかない。
金魚の眼がぐるりと動いて、ひくひく上下に小さく動く瞳孔が、壁に飛び込む前に僕の顔を盗み見た。
(……、いや、あんなのが明日香だなんて嫌だな)
心の底から、そう思った。
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