焼きそばパンと金魚




授業が終わって、昼メシの焼きそばパンにかぶりついて気がついた。


(……こいつ、金魚なのか……)


ひらひらした尾ひれに、どてっとした胴体、あまり上手でない泳ぎ方……、縁日にいるようなスレンダーな体系をした金魚とはほど遠いが、どうやらこの魚影の正体は金魚らしい。どう見ても全長1メートルはゆうに超えていそうだが、床を泳いでいるんだ、普通の金魚と比べるのはお門違いだろう。


(……なんで金魚にストーカーされてんだ、僕)


金魚はどこへでもついてきた。

教室移動のときも、トイレに行くときも、自販機までジュースを買いに行くときも、今こうして昼メシを食べているときも、まるで自分の影のようにひっついてくるのだ。

これといって実害はないのだが、どうにも居心地が悪い。


「なあ、ソージ。今日体調でも悪いのか?」


サイが、無言でパンを咀嚼している僕に声をかける。

金魚は僕の足元で、焼きそばパンをガン見している……、ような気がする。さっきからこぽこぽと水音がして、エサの催促でもしているつもりなのだろうか。


「……いや、大丈夫」


僕とサイは、あまり人気のない階段で弁当を広げていた。


「……そーかい」


夏休みが始まるまでは、僕とサイと明日香の3人で、教室で昼飯を食べていた。でも明日香がいなくなってしまってからは、人気のない階段や空き教室やらで過ごしている。途絶えることのない視線の中にずっといるのは、僕の精神的に無理だった。


「ま、ホントにやばかったら、保健室行けよ。クーラーガンガンでめっちゃ涼しいから」


サイは一口サイズに切られた豚肉を、雑穀米と一緒に口に運ぶ。じっくりとしょう油と生姜のタレに漬けられたであろう薄切り豚肉がじゅわじゅわと焼かれ、自身の油とともに雑穀米に染みわたった匂い。今ほおばっているのが、1個150円の焼きそばパンであることを呪ってしまいそうだ。


「……ソージのクラス、どうよ」


口の中をいっぱいにしながら、サイがもごもごと尋ねる。


「……見られすぎてて、いつか体に穴開く気がする」

「あー、穴空いてたら教えてやるよ。どうせなら耳に穴空いたら、ソージもピアスできんのにな。ごっついやつ」


以前サイが欲しいと言っていたごついピアスを付けている自分を想像して、不覚にも笑ってしまう。サイと一緒にいると本当に気が楽だなと思いながら、ピアスは痛いから遠慮しておくと伝える。サイは塩もみキャベツをじゃくじゃく食べた後に、少しトーンを落として呟いた。


「……俺のクラスでもさあ、すげーウワサになってんの。ソージと明日香ちゃんと一緒に昼メシ食ってたのみんな知ってるからさー、もう質問攻めで、授業どころじゃねーもん」


僕とサイとは、高校に入ってからの友達だ。

入学式が始まる少し前、体育館前で並ばされたときに隣だった僕に、サイのほうから話しかけてきてくれたのだ。少し長めのふわっとした茶髪、短く整えられた眉毛、耳にピアス跡を見つけたときは、あぁ、怖そうな奴に絡まれてしまったと気分が沈んだ。でも会話が進むごとに好きなバンドやゲームやマンガなんかが同じだと分かり、まるで小学校から友人だったような気持ちになったのを覚えている。

自分のクラスにあまり馴染めず、お昼を一緒に食べてくださいと顔を真っ赤にしながら明日香がやって来たときも、笑って迎え入れてくれた優しい奴だ。


「…………明日香ちゃん、どうしちゃったんだろうなぁ」

「……、……分かんないよ」


明日香がどうして死んだのか、誰も分からないままだ。

でも僕は、いまだに、明日香がどこか遠くに行ってしまったなんてのが受け入れられずにいた。今だって、どこか近くにいるんじゃないかと考えてしまう。いつだって僕の後ろをついてきて、いつだって横で笑っている姿しか思い出せなかったから。

焼きそばパンを咀嚼しながら、携帯を開く。

明日香からのメールなんて、届いているはずもなかった。

金魚が、ちゃぷん、と尾ひれを動かした。

ぱくぱくと口を動かして、廊下に落としたパンくずを食べようとしている。


(なんだ、食べられないのか)


このストーカーの存在に、いつの間にか慣れてきてしまっていた。

金魚の影に追われるなんて経験、なかなかできるもんじゃない。そう軽く笑えるくらい、いてもいなくても差し支えのない存在だと脳みそが判断しつつあった。慣れとは怖いものである。

金魚の催促を横目に、パンだけになった焼きそばパンを口に突っ込む。金魚はとぷんと跳ねて、恨めしそうに僕の周りを泳ぎ始めた。


「あ、いたいた」


さっきまで金魚がいた床に、黒のハイソックスが現れた。


「ほら、斎井くんと一緒だったでしょ?」

「ねぇ、古峰くん。ちょっといい?」


目線を上げると、なんとなく見覚えのある女子が数人、好奇心でらんらんと輝く瞳で僕を見つめていた。僕に話しかけてきた女子は、名前さえ覚えていないものの、確かバレー部の次期部長で、クラスのムードメーカー的な存在だった気がする。他の女子も、確か僕のクラスのはずだ。


「あのね、古峰くんにちょっと聞きたいことがあるんだけど……、あ、ムリにって訳じゃないよ? ほんと、ちょーっと確かめたいなーってレベルだし?」


彼女らは僕の返事も待たず、互いに目配せをしながら詰め寄ってくる。

何を聞きたいかなんて、火を見るより明らかだ。

こぽこぽ、とどこからか音がした。


「……明日香のことだったら、あんまり話したくないんだけど」

「あー、ほら、槍田さん、いつもあんな感じだったから……。仲良い子、古峰くんくらいしか思いつかなくって……」

「私たち、確かめたいだけなの。だから、もしよかったらだけど、ちょっとだけ話聞いてくれない? すぐ済むから。ね?」

「いいでしょ?」


彼女らが詰め寄ってくるたびに、香水のような匂いが濃くなっていく。

肺の中を占めていた生姜焼きのしあわせな匂いが、どんどん薄れていく。


「……聞くだけ、なら」


隣でサイが、小さくため息をついたのが分かった。

彼女たちはすでにお昼を食べ終わっているらしく、僕らが食べ終わるのを待ってくれるらしい。さっきまでおいしそうに見えていた弁当の中身が、急に色あせて見える。それでも――昨晩の残り物の詰め合わせだったとしても――、急いで噛んで飲みこんだ。

彼女たちは、僕の知らないことを知っている気がしたから。


「ごちそうさま」

「ごっそーさん。……な、俺も一緒に聞いていーだろ?」

「え、」

「いーじゃん、な? おーい、おまたせー」


返事を待たずに、サイが彼女らを呼ぶ。

階段の踊り場には掲示板が設置されていて、彼女らはそこに貼りだされているさまざまなクラブの部員募集ポスターを見ながら、なにか楽しそうにくすくすと会話している最中だった。ぱたぱたと軽い足音を立てながら近づいてきて、器用にスカートを押さえて僕らの横に座る。そしてサイと僕を交互に見て、何かを理解したようににっこりとほほ笑んだ。


(……、)

「で、ソージに確かめたいことって?」


サイが紙パックのミルクティーをすすりながら尋ねる。

前から世話焼きな性格だとは思っていたが、そういえば明日香がいなくなってから、余計に僕を気遣ってくれている気がする。ありがたいような申し訳ないような、恥ずかしいような……、実に複雑な心境だ。

しばらく女子同士でもぞもぞとしていたが、意を決したのか次期部長が口を開いた。


「……ねぇ、古峰くん。槍田さんがニンシンしてたって……ホントなの?」

「……、…………は?」


ふいに放たれた言葉は、僕の頭で消化するのには時間がかかりすぎた。

隣のサイは、僕以上にきょとんとした顔でストローを咥えている。


「なんか、ウワサだよ? ウワサなんだけど、ゴーカンに襲われたかなんかで、……槍田さん、ニンシンしてたんじゃないかって。誰にも相談できなくて、だから飛び降り自殺しちゃったんだ、って。……女子の間じゃそういうウワサが流れてるんだよね」

「ほら、最近ここらで不審者が出るって、センセーも言ってたでしょ?」

「あ、私たちも聞いた話だから、ちゃんとは知らないの」

「ウワサはウワサだし……ね」

「だから古峰くんに、ほんとかどうか聞きたかったの」

「ねぇ、ほんとのことなの?」

「古峰くんは、どこまで知ってるの?」

「何か相談とかされてなかったの?」

「あんなに仲良かったもんね」


立て続けに脳ミソへと侵入してくる言葉の数々が、僕には処理できなかった。


ニンシン?

ゴーカン?

明日香が妊娠していたっていうのか?

誰とも知れない奴に襲われて?

だから自殺なんてしようとしたのか?


だから僕の前からいなくなったっていうのか?


「……っ、なんだよそれ!」


そんなこと、僕は知らない。知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない知らない。

何で明日香がいなくなったのか、僕はこれっぽっちも知らないんだ!

こぽり、と水泡が水面を押し上げる音を聞いた。


「古峰くん……?」

「あ……、」


彼女たちの少し怯えたような瞳に、一気に血の気が引いた。


「……その、何も……知らないんだ。……大きな声出してごめん」


それだけ言い放って、その場からふらりと立ち上がった。

弁当箱と紙パックを持って、階段を一段一段降りていく。クラスまでの道のりは、こんなにも長かっただろうか。

ぽちゃん、と金魚が足元に戻ってきた。僕が歩く先をうまく避けながら、ゆらゆらと階段と壁を自由気ままに泳いでいる。

僕は、泣きそうだった。

明日香が死んでしまったのだと、もう僕の前には現れないのだと、現実を突き付けられてしまった。

いなくなった明日香のことを根掘り葉掘り知ろうとする彼女たちとは真逆で、僕は蓋をしてしまっていたのだ。あんなに近くにいたのに、腫れ物として扱ってしまっていたのは僕の方だったのだ。そのくせ彼らのことを気味が悪いと内心さげすんでいたのだ。


(……明日香の存在を消してたのは僕の方じゃないか)


この感情をどう処理していいか分からず、涙がこぼれそうになって唇を噛む。


「……ソージ! おーい、ソージってば」


にじみ出た涙をふき取って、追ってきたサイを振り返る。

お節介なサイのことだから、きっと僕の代わりに彼女たちに謝ってくれていたのだろう。あまり僕に向けることのない、申し訳なさそうな表情がまだ残っているように思えたから。


「さっきの話、あんまし気にすんなよ。どうせウワサなんだしさ」


サイは、はたはたと上履きを鳴らしながら階段を下りてくる。


「……言われなくても、分かってる」

「ならいーけど、さ」


階段を降りきったサイの足が、ちょうど金魚の頭に乗った。とぷん、と金魚は荒い泳ぎを見せて、どうやら機嫌を損ねたらしい。床から壁へと泳ぎ、影の中に消えてしまった。

クラスに戻るのが、少し嫌になっていた。

どんな顔をして、午後からの授業を受ければいいのだろう。

よく知らない女子に声を荒げてしまったのは初めてで、どうすればいいかよく分からない。

廊下には、弁当箱を手に自分のクラスへと戻っていく生徒がたくさんいた。もうそろそろ昼休みが終わってしまう。サイは僕を追い越して、自分のクラスへと歩き出していた。

とりあえず次の授業の準備を――、と、歩きだした瞬間、ぱしゃっと、何かが水面から飛び出た音がした。

今までとは違うその音に目をやるも、床に金魚の影はなかった。


替わりに、――金魚がそこに浮かんでいた。


「……っ?!」


黒い靄のような姿で実体化した金魚からは溝川のようないろんなものが腐り混ざった臭いが漂ってきて、思わず手で鼻口を覆う。金魚は死んだ魚のような握り拳ほどの大きな眼をぎょろりと動かして、僕の泣きそうな顔を興味深そうに見る。とてもゆっくりとした速度で、声も感情も出せなくなった僕の横を泳ぎ過ぎる。たゆたわせた霧のような尾ひれが、僕の鼻先をかすめた。

そして、とぷん、という大きな音ともに、再び壁の中の魚影へと戻っていった。


(……なんなんだ)


僕が一体、なにをしたっていうんだ。


「おーい、ソージぃー? 昼休み終わっちまうぞー」


気持ちが悪い。

顔から血の気が引いていく音が聞こえる。

目の前の世界が色を失って、白黒のドットに浸食された景色しか見えない。

胸の奥がつっかえて……、胃からなにかが出てきそうに熱い。

サイが僕を呼ぶ声が、ひどく遠いところから聞こえた。

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