魔風に吹かれて

東方雅人

忌風

 最初はただの風だと思っていた。

 ぐにゃりと平衡感覚を乱すような厭な風。じとりと生温かく、湿り気を孕んだ風。そんな不快な風が全身を幾度となく掻き撫でる。まるで舌先でねぶり回されているような、もしくは肌の下を無数の虫が這いずり回っているような、極めて生理的な嫌悪感が身体中に纏わりついて離れない。

 その風は決まって山から吹いてくる。市内で最も標高が高い山――紫峰山しほうざんから。ここT市は、紫峰山が形成する大型扇状地の上に築かれた街だ。

 その昔、この一帯にはとある伝承があった。

「山から吹き下ろしてくる風が、呪いを運んでくる」


     *


 八月に入り、大学は二ヶ月弱の夏季休業期間に突入した。多くの学生が実家に帰省し、街はいつもより閑散としている。

 その日、私は同級生の悠木ゆうきと紫峰山を登っていた。「登る」といっても車を運転しているだけなのだが。

 悠木は私と同じT大学比較文化学科の一年生で、土着習俗を研究している彼に市内の案内を頼まれ、私たちはこうしてT市の象徴ともいえる紫峰山を訪れたわけだ。T大は全国有数の総合大学であり、ゆえに学生のほとんどが県外の出身で、私のような地元出身の学生は却って珍しい。

「あそこに見えるのは、集落かい?」

 山の中腹に差しかかったあたりで、ふと悠木が助手席から渓谷の向こうを指差して云った。

「ああ、あれは双峰村そうほうむらだよ。今は誰も住んでいない廃村だけどね」

 紫峰山には男体山、女体山と呼ばれる二つの峰が存在し、村はその間の渓谷に位置している。

「どの家も背の高い木に囲まれているけど、あれは屋敷林ってやつかい?」

「〝くぐね〟と呼ばれる防風林だよ」

 〝く〟は風や気を表し、〝くね〟とは〝久根〟――地境を指す言葉とされている。

「昔は街のほうにも〝くぐね〟の風習があったんだけど、人口が増えるに連れて姿を消していったんだよ」

「確かにさっきからひっきりなしに風が吹いてるね」

「今の季節は特にひどくて」

 この時期に山から人里へ吹き荒ぶ風を、地元の人間は〝紫峰おろし〟と呼んでいる。いわゆる〝風炎フェーン現象〟だ。何十年も昔だが、国内における当時の観測史上最高気温40.7度を記録したのも、この現象が一因とされている。

 男体山の山頂まで残り百メートルほどのところで車道が途切れ、私たちは路肩に車を停めた。

「ここから先は徒歩で行くしかない」

 歩くこと二十分弱、山頂には神社があった。傾いた鳥居の隣には、神社の名前が刻まれた門柱が立っている。

「不忘神社……不忘?」

「その昔、ここは不忘山ふぼうさんと呼ばれていたんだよ」

 紫峰山は連峰であり、男体山と女体山の他にも複数の峰が存在する。爆裂火口を擁する頂上部は三方から抉られて複雑な山容を呈し、その禍々しい形から〈不忘山わすれずのやま〉と呼ばれるようになった。

 市の発行するパンフレットなどにはそう記載されている――が、

「というのは、表向きの理由だと自分は思っているんだけどね」

「表向き?」

「この山にはかつて姥捨てや子捨ての風習があったらしいんだよ」

 いわゆる〝姥捨て山〟の伝説だ。紫峰山は神霊が住まう霊山として山岳信仰の対象にもなっている。不忘神社はこの山で死んだ者たちを鎮魂するために建てられたのではないか。彼らをいつまでも忘れないように――だから〝不忘わすれず〟なのではないか。私は何となくそう考えていた。

「なるほど、霊魂を鎮めるためにか。確かに神社の祭祀対象は何も神様だけじゃないからね。怨霊を御霊として祀るパターンも多いと聞く」

 と云って、悠木は興味深げに唸った。

「この山にはもう一つ、おどろおどろしい言い伝えがあってね」

 幼少期、双峰村の出身である祖父から聞いた話だ。

「不忘山さんから吹いてくる風は、呪いや穢れを運んでくる」

「呪い……」

 山から吹き下ろす風に長い間曝されると、精神に異常をきたし、発狂してしまうというのだ。

「山に溜まった負のエネルギーや悪い空気が風に乗って人里へ流れ込み、災いをもたらすってね。村人はその風を〈忌風いみかぜ〉と呼んで忌み嫌った」

 双峰村が〝くぐね〟で家を囲むのは、この〝忌風〟を防ぐためだと云われている。風が強いこの季節にはなるべく外出を避け、風に当たらないようにと、よく祖父が云っていたものだ。

「確かにここには厭な空気が充満してそうだ」

 悠木が神社を指差して呟いた。ここを訪れた誰もが抱く感覚だろう。神社は今にも崩れ落ちそうなほど荒れ果てていたのだ。壁や床は骨組みが剥き出しになり、瓦のほとんどが屋根から剥がれ落ち散乱している。

 この空間の異常さはそれだけに留まらなかった。建物の中には夥しい数の人形やぬいぐるみが無造作に放置され、また、周りの木々には藁人形や人の顔写真が呪いの言葉とともに打ち付けられていたのだ。

 いつしか市内有数の心霊スポットとして知られるようになった不忘神社。肝試しと称して荒らし回る者、人形を不法投棄する者、さらには恨み辛みを晴らそうと呪いをかけに来る者が後を絶たず、私が物心つく頃からこの有り様だ。姥捨ての風習が廃れるとともに神社も打ち棄てられたのだろうか。

「風がここの空気を市街地まで運んでると考えたら、ぞっとするねえ」

「まさか怖くなったのかい? 単なる迷信さ」

 と、私は笑い飛ばした。学術的には興味深い因習かもしれないが、呪いなど現実にあるわけがない。子供を山へ近づかせないための、大人がでっち上げた怪談話に決まっている。

「そうそう、風と云えば」こちらに向き直った悠木は、

「スイス山間部にもそれと似た伝承があるんだよ。アルプスの山間から吹きつける〝悪魔の風〟と呼ばれる特有の風が人の心を狂わせるってね。その正体はフェーン現象だと分析する人もいる。乾いた熱風が吹くと山火事が起きたり体調を崩したり不吉なことが起きるから、いつしか熱い風は凶事の前兆として人々の間に記憶されたんじゃないかって」

 〝忌風〟の真相も蓋を開けてみればそんなところだろう。

 だが、もし伝承が本当だとしたなら――この山という自然界に漂う死や穢れが風に乗って文明の中へと侵蝕するのだとしたら、我々にそれを防ぐ術はないだろう。傾いた鳥居を見凝めながら、私はそんなことを考えていた。

 鳥居や注連縄しめなわには神域と俗世、神聖と不浄を分け隔てる結界のような機能があるとされる。だが風が相手ともなれば、それらは全くもって分界の用を成さなくなる。風は山も里もなく、どこへでも吹き込むのだから。

 それから十分ほど神社を散策したのち、私たちは帰路についた。その車中、取り留めのない会話で時間を潰すが、彼とは特段親しい仲ではなかったため、程なくして話題は尽きてしまう。

 気まずい沈黙を埋めるように、私は幼少期の記憶をぽつりぽつりと話し始めた。この紫峰山で私が体験した、奇怪で恐ろしい記憶である。


     *


 日が沈むと、山と人里の境はこの上なくはっきりする。街から延びた光が山裾の緩やかな斜面を駆け上がり、やがてすぅっと闇の中へ吸い込まれた。明と暗、光と闇がこちらとあちらを分かつ一筋の境界線を形作る。

 その時、私はまさに境界線上に立ち竦んでいた。一歩踏み出せば奈落の底に落っこちてしまいそうな闇が目の前に広がっている。そこから見上げた紫峰山の威容は、夜空よりも遥かに黒い影が天を穿つように聳え立ち、その輪郭は風でうねうねと蠢動し、さながら巨大な化け物のようだった。

 そして私はラインを跨ぎ、山の中へと分け行った。なぜそんな行動をとったのか、今なお不明なままだ。

 気が付くと、四方を背の高い木々に囲まれていた。山に入った記憶も、ここまで歩いて来た記憶もない。にも拘わらず、私はいつの間にか山の中へと迷い込んでいたのだ。

 常軌を逸した恐怖が私の幼く旺盛な想像力を徒らに刺激する。びゅうびゅうと唸る風音はヒトのくぐもった呻き声に、カサカサ……ザワザワと風が木の葉をふるわせる音は無数の囁き声に、枝の折れる音はこちらに忍び寄る足音に――それはまるで得体の知れない何かに四方を取り囲まれているようだった。

 次第に風が強くなり、葉擦れの囁きは怒り狂った咆哮へ――森全体が震動しているかのような、地響きの如き轟音と化した。

 激しく揺れ動く巨木が視界を遮り、木々のざわめきが鼓膜を震わせる。視覚と聴覚が恐怖に覆い尽くされ、私はあらん限りの声を張り上げた。自分の声が森の叫びを掻き消してくれることを願い、しかしすぐに掻き消されたのは私のほうだと分かった。

 なす術を失った私は、瞼を閉じ、耳を塞ぎ、その場に蹲る。どれほどの時間が過ぎただろうか、私はそのまま意識を失った。

 次に目を覚ました時、夜は明けていた。縦横無尽に吹き荒れていた風はそよ風に変わり、同じ方向に吹いていた。その山から街へ吹き下ろす風に乗って、私はよろよろと歩き始める。追い風に背中を押されるようにして、私は文明への帰還を果たしたのだ。

 この一件で私は痛感した。剥き出しの自然を前に人間がいかに無力であるかを。そして文明とは、自然の猛威を遠ざけ、その恐怖を覆い隠すものである、と――。


     *


「確かによく考えたら、風って怖いよね」

 私の話を興味津々といった様子で聞いていた悠木が、突然ぼそりと呟いた。

「だってそうだろう? 実体を持たない存在。目には見えない力が物体に干渉して、何かしらの動的な影響を与える。物体が動いて、初めて僕たちはその存在に気付ける。それってさ、アレに似てるよね」

 彼がアレと呼ぶものが何を指し示すかは、何となく察しがついた。心霊、ポルターガイスト――そういった超常現象の類いだと云いたいのだろう。

 そこで私ははたと思い出した。紫峰山に迷い込んだ件で、彼に話していない一幕があることに。見違いか何かだろうと忘却の彼方に放逐したはずの、その非現実的な記憶が、彼との会話をきっかけに恐怖という実感を伴って鮮明に蘇ってきたのだ。


 それは山で意識を失う直前のことだった。ふと前方に何かの気配を感じとった私は、怖ず怖ずと顔を上げ、薄目を開ける。

 そこには、人が立っていた。遠目には白髪の老女のように見えたが、ぼんやりとしてはっきりとは分からない。

 私を探しに来てくれたのだと思い、「たすっ――」

 そう叫び出して、しかしすぐに言葉を切った。違和感を抱いたからだ。ほんの僅かな、さりとて無視できるとは到底思えぬ違和感。それに気付いた途端、ぞわぞわと背中が粟立ったのを覚えている。

 彼女は腰まで届きそうなほど長い髪をしていた――が、その髪は風でなびいていなかった。山を揺らすような暴風の只中にいて、それでも髪は微動だにしていないのだ。

 瞬時に私は悟った。

 目の前にいる女性が、この世のものではないことを――。

 突然、女はあんぐりと口を開けた。これでもかと顎を押し広げ、上顎と下顎は見る見るうちに離れていく。

 次の瞬間、女のいる方向から烈風が吹きつけた。と同時に、強烈な異臭が鼻を突き、空気を切る音とも悲鳴ともつかない甲高い金属音が耳を掠める。その風はまるで彼女のぼっかりと空いた口から吹きつけてくるようだった。女の下顎は首下を過ぎてもなお下がり続け、風もそれに呼応するかのようにますます強まる。

 余りの恐怖に気を失ってしまったのだろうか、私の記憶はそこでぷつりと途切れた。


 これで当時の記憶は細大漏らさず復元されたが、とても口に出す気にはなれなかった。信じてくれというほうが無理のある話だし、何より私自身が信じていなかった。やはり単なる記憶違いだろう。

「でもさぁ……」と悠木。「風が呪いを運ぶんだったら、僕たちも危ないんじゃない? 今日それなりに長く風に当たったよね」

「それ、本気で云ってる?」

 こくりと頷く彼の表情は、確かに真剣そのものである。

「何を真に受けてんのさ。呪いなんてあるわけないだろ? もう二十年近くここに住んでる自分が大丈夫なんだからさ」

「呪いが身体に蓄積され続け、ある日突然、何の前触れもなく災厄が降りかかる……なんてことがあるかもよ。花粉症みたいにさ。花粉症だって風に乗って花粉が運ばれるわけだから、メカニズムは同じだよね」

 その逞しすぎる想像力に閉口するも、彼がオカルト研究部に所属しているのを思い出し、どうりでその手の話に詳しいわけだと得心した。

「ああ、そうだ。花粉といえば、風を頼りに花粉を運ぶような花を〝風媒花〟っていうんだけど、そうした方向へ進化した種は往々にして目立たない花をつけることが多いんだって。美しく派手な花で虫や鳥を誘引する必要がないからね」

 風を媒体に拡散する呪い――〝忌風〟は、風媒花ならぬ〝風媒呪〟とでもいったところか。

「君は本当にあると思ってるのかい? 呪いが風に乗って運ばれるなんてことが」

「どうだろうねえ。風はいろんなものを運んでくるからさ。良いものも、悪いものも、区別なくね」

「まるでウイルスだな」

 話についていけなくなった私は、吐き捨てるように云った。

「そう、それだよ。もしかしたら昔この辺りで空気感染する伝染病が流行ったのかもしれない。医療が発達していない当時、それは呪いとして受け止められたのさ」

 そんな調子で彼は車を降りるまでの間ひたすら熱弁を揮い続け、私は適当な相槌を打ちながら彼の〝推理〟を聞き流していた。


     *


 九月も終わりかけているというのに、蒸し蒸しとした暑さはしぶとく居座り続けた。茹だるような熱気は私から食欲と体力を奪い、眠れない夜が続く。

 だからなのか、初めは免疫力の低下が招いた、単なる風邪だと思っていた。ただの夏風邪だと。症状も似ている。喉の痛みから始まり、身体のだるみ、腹痛、そして発熱。

 熱は一週間以上も続き、その日も授業を休み自室で寝込んでいた。

 覚醒と昏睡の狭間――朦朧とする頭で、私はひどく下らないことを考えていた。戯言と云っていいほどの妄言だ。

 〝風邪〟――風と風邪の語源は同じだという。古代、風は空気の動きであると同時に、人体に何らかの影響を与える原因としても考えられていた。風によって邪気を体内に引き入れる。だから風邪を〝引く〟のである。

 私もまた〈忌風〉が運んできた邪気に曝され、呪いに罹ったとでもいうのか――馬鹿馬鹿しい、と苦笑しようとして思わず咳き込む。

 不意に、頬に何かの感触を感じた私は、そっと瞼を開けた。ふぅっと生温かい何かが頬を撫でたのだ。

 ――風?

 風が……吹いている?

 なぜ? ありえない――ここは室内だ。

 ドアも窓も開いていない。閉め切った室内で風が吹くことなど、あるはずがない。あっていいはずがない。眠気は跡形もなく吹き飛んでいた。

 気のせいではないかと幾ら疑ってみても、私の肌に風が触れたのは、否定しようのない事実だった。人肌ほどの生温かい風が、確かに私の身体にぶつかっては剥がれ、またぶつかっては剥がれてゆく。その感触は、誰かの手で身体中を撫で回されているかのようだった。風を感じるたび全身に悪寒が走る。

 そこに吹くはずのない風。まるでこの世ではない何処かから吹きつけてきたかのような異様異質な風。それ自体が意志を具えているかのような、風に跨った形のない悪意だ。その勢いは徐々に強まる一方で、机の上に置いてあった紙類が宙に舞い上がり、椅子や本棚はガタガタと音を立てて震え出す。

 ふと例の古い伝承が脳裡を過った。呪いを孕んだ風――〝忌風〟。この風がそうだとでも云うのか。

 私は全身を布団の中に押し込み、隙間という隙間を殺した。だが壁も窓も布団も、衣服でさえも、無きに等しかった。風はあらゆる障壁を透過し、私の肌だけを執拗にまさぐり続ける。

 もはや風をふせぐ術はない。抵抗を諦めた私は、容赦なく全身に叩きつける狂風にその身を任せた。

 吹き曝しのまま、永遠にも等しい時間が流れた。不思議なことに、時間が経つに連れ恐怖は薄らいでいき、代わりにどろりとした眠気に襲われる。ゆりかごに揺られた赤ん坊のように、私はそのまま深い眠りに落ちた。

 その夜、不思議な夢を見た。自分がT市の上空を滑空する一陣の風になる夢だ。紫峰山の上空から山肌を一気に駆け下り、煌々と光が集まるほうへ――。


 私を襲った正体不明の何かは、風の如く何処かへと消え去ったのだろうか。

 それ以降、一度として風を感じたことはない。ただの一度も。屋内にいても屋外にいても。私は、風を感じなくなったのだ。

 その日も激しい風が吹いていた。

 木々をしならせる強風が轟々と吹き荒ぶ只中にいて、私の服も、髪も、風に靡くことはなかった。ぴくりとも――。




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