6.櫂 その1
屋上から見る景色は日々移り変わっていく。
晩秋が過ぎれば、じきに冬になる。
木々の葉は色を染め、そして枯れ、街の風景は灰色に霞む。
駆け抜ける秋が過ぎ去った後の季節に心寂しさを感じるが、寒いのは少し苦手だった。
子供の頃暖房器具が壊れ、寒さに凍えた日々を櫂は思い出す。同じ布団で冷えた手を温めてくれた兄の温かさも思い出すが、同時に蘇った不安を心に抱えていた。
兄とは近頃距離を感じていた。病院であの幻覚を見た後、よそよそしい態度を取ってしまったが、それは兄も同じだった。もしかしたら自分のおかしな態度を気にしたのかもしれない。ぎくしゃくした毎日を変えたくて毎夜兄の帰りを待っても、彼が戻るのはいつも深夜だった。
「でも、私が全部悪いんだよね……」
呟けば冷たい風が言葉を攫っていく。
何の解決にもならないのは分かっているが、いつも自分は呟くだけで、同じ場所で足踏みしているだけだ。
「うん、そーだね」
その声に振り向けば、歩み寄る留可の姿がある。
ピンク髪の少女は隣に来ると屋上の錆びた金網に背をつき、口元に笑みを浮かべた。
「櫂はさぁ、いっつも何かに悩んでるくせに、自分では解決に向けて何も動こうとしないんだよねー。ねぇそれ、笑っていい? バカみたいだって笑っていい? あははははははははは」
渇いた笑いが耳元を流れていく。
それは彼女の言うとおりだった。
この場に留まってばかりの自分はいつも自己嫌悪を増すだけで、少しも動けずにいる。
思うだけは駄目なのは分かっている。いつまでも変わることのできない自分はこの先もずっと同じなのだろうか。
「ねぇ櫂、キャンディ食べる?」
「え?」
顔を向けると、彼女はスカートのポケットからピルケースではなく、棒付きのキャンディを二つ取り出した。
「こっちの味、不味いから櫂にあげる」
差し出されたそれを強引に握らされるが、受け取ったままぼんやり立っていると留可はコンクリートに腰を下ろし、早速包み紙を剥いでオレンジ味のキャンディを舐めている。
「ほら、櫂も食べなよ」
「うん、えっと、ありがとう……」
礼を言って包み紙を取ったそれはぶどうの味だった。
屋上には冷たい風が吹き抜けている。
二年前に生徒の飛び降り自殺があってから立ち入り禁止の屋上には誰の姿もない。
ここにいること自体が完全な校則違反にしかならないが、櫂は時折こっそり来ていた。
時々出会す留可は、多分自分よりここに来ている。
彼女の理由は分からないが、何かから逃避したい自分とはきっと異なるものだと櫂は思う。
誰もいない屋上には、オレンジとぶどうの香りがしていた。
「ねぇ、櫂」
「何……? 留可」
「櫂はさ、秋のことが好き?」
「え? うん、好きだよ……」
「それってさ、アイシテルってやつ? それとも犬とか猫が好きってのと同じ?」
「え?」
「どっち?」
「えっと、どっちって……」
「ま、別にどっちでもいーよ。櫂は秋を見捨てない」
「……」
「私はそう思ってる」
隣にある表情は『そんな時』でも『そうでない時』にも見える。
でもどちらであっても構わない。櫂にとっていつでも彼女は『留可』だった。
「私は……留可のことも見捨てたりしないよ」
「はぁ? 何それ、もしかして櫂、私のことバカにしてんの?」
「え? 別にバカには……」
「その台詞、一体どこからの上から目線なわけ? そういう時、見捨てるのは私の方で櫂は見捨てられる方!」
勢いよく立ち上がった留可は、コンクリートの上を駆けていく。扉の前でようやく足を止めると、振り返った。
「櫂、もう行こ。ここいつも死人のにおいがする」
「う、うん……」
急かされて駆け寄ると、留可は先に階段を下りていく。
二度踊り場を巡ってどうにか追いつくと、微かな声が届いた。
「……私も櫂を見捨てたりしない」
届けられたそれは本当に消え入りそうな小さなものだったが、櫂には充分だった。
******
夕方、いつものファストフード店で秋は待っていた。
けれどその姿は待っていたというより、ただぼんやり座っているようにしか見えなかった。
ここ数日の彼はこんな様子だった。何か話しかければ言葉は戻るが上の空だったり、随分遅れて返事が戻ってきたりだった。
「ねー、アホ兄貴、何飲んでんの?」
「……」
「ちょっとそれ貸してみてよ……わっ、何これマズ……絶対人の飲むものじゃない」
「……留可、人のものを勝手に飲むなよ……」
留可が秋の飲み物を飲んで嫌そうな顔をする。でも秋の方は相手を軽く見ただけで、またテーブルに視線を戻していた。
「あのさ、何それ? 反応悪すぎて今すぐ靴で踏み潰したいくらいなんだけど」
それには不服をそうな留可が不機嫌になる。
その様子を傍で見る櫂は険悪になり始めた二人の間を取り持ちたいが、また妙な雰囲気を作り上げてしまいそうで何を言えばいいか分からない。
秋の方は顔を上げ、「櫂」と呼びかけてくれたがそれ以上何も言わない。それについて櫂は僅か寂しく思うが、秋にも様々な事情があるのは分かっている。
明るい時もあれば、何かを考えたい時もある。しかしそう考えると、どう話しかければいいかまた分からなくなっていた。
「ねぇ秋、早く出れば?」
気まずい空気の中、秋の携帯電話が鳴り始めていた。
でも秋は出ようとせず、留可の声にも反応しない。
十回ほど鳴った頃、耐えかねた留可が電話を取り上げていた。
「えーっと、奈津川……? 誰これ?」
「おい、勝手に見るなよ」
「見るなよ? だったらこんな所に置かなきゃいいじゃない」
「返せ」
「返せ? ふーん、そーなんだー。でもこれもういらないんだよね? 出ないんだから」
その後の留可の行動は一瞬だった。
テーブルの紙コップを取り、溶けた氷だけになったその中に携帯電話を落とす。
再び蓋を被せたそれを「はい」と、満面の笑みで秋に差し出した。
「る、留可……」
次に響き渡ったのは頬を撲つ音だった。
店内に響き渡ったその音に他の客も驚いてこちらを見る。
呟く櫂も無論彼らと同様の表情を浮かべていた。
ぶった秋も思いがけない顔をしていたが、すぐ相手から目を逸らす。
ぶたれた留可がこの中で一番表現し難い表情をしていた。
「留可、お前が悪いんだからな」
秋は水没した携帯電話を取り上げると、そのまま振り返らずに店を出ていく。
しばらく無言でいた留可も何も言わず席を立っていた。
「留可……」
「何も言わないで」
「でも……」
「ひとりにして、絶対ついてこないで。来たら櫂でも殺す」
反論も許さずに彼女も店を出ていった。
二人の姿が消えた店内で櫂は一人テーブルに着いていた。
目の前には秋が買っておいてくれたコーヒーがある。
冷めてしまったそれを手に取り、口をつけたが何も味を感じなかった。
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