7.櫂   その2

 自分に不安を覚え、未来に何も見えなくても傍に秋や留可、そして久吾がいるだけで日々の安堵を得られていた。

 しかしその日々は変わりゆくものだった。それが決して不変的でないと知っていても、変化していくものから目を逸らし、見ないようにしてきた。


 こんな自分を気にかけてくれる大事な友達、いつも守ってくれる兄。

 でもいずれ時が経てば秋も留可も自分から離れ、新たな生活に旅立っていく。兄もいつまでも自分の傍にいる訳ではない。

 彼らを失うことが怖くても、そこにある現実は変わらない。もう目を逸らすだけではこの全てから逃れられないのかもしれなかった。


「もし……みんな、いなくなってしまったら……」

 櫂は曇った空を見上げ、呟きを零した。

 それを一度でも口にすれば、現実味と不安が増した。

 辺りを見回せば、見覚えない路地に立っている。ファストフード店を出た後、一人あてもなく歩いている間にこの場所に迷い込んでしまったようだ。


 路地には湿り気を帯びた風が吹き抜けていく。

 周囲には多くの店が並ぶが、営業前なのかどこも閉めている。けれどよく見ればどれも長い間人がいた気配もなく、立ち飲み屋や焼き鳥屋、戦前からの店舗が路地に連なるが、近年の経済不和でどの店も営業をやめたようだった。

 曇り空はより暗い色を増し、じきに来る通り雨の気配を放っている。

 でもそう思う間もなく、ぽつりと落ちた雨粒はあっという間に束になった。急いて傍の軒先に飛び込めば、埃を被った窓枠が背についた。


 篠突く雨を見ていると、寂しさが増す。

 しかし寂しさとは何かを失う不安からくるものだ。その不安を頭から追い払おうとするが、ふと過ぎったものが別の不安を呼ぶ。

 自分が大事に思い続けるは、果たして本当に存在したものだったのだろうか。

 彼らの存在も、守ってくれた兄の存在も、自分が見た幻でしかなかったとしたら?

 そんな考えが頭を巡ると、急激な息苦しさがその場所を占拠していた。


「……は、っ……」

 あの日と同じ痛みが全身を覆おうとしていた。

 呻きながら蹲っても、耐えられぬそれが消えることはない。

 雨に髪が濡れたが、そんなことを気にしてもいられなかった。

 呼吸が困難になり、視界が霞む。

 だが苦しさに思わず伸ばした指先を誰かの温かな手が握り取っていた。


「君、一体どうしたんだ? 大丈夫か?」

 霞む視線の先には若い男性の姿がある。

「もっとこっちに寄って。その場所だと雨に濡れてしまう」

 男性は手を取り、軒下に誘導する。相手のされるがままに今はするしかなかったが、優しい声と手の温もりには痛みが僅か緩むのを感じていた。

「大丈夫? 呼吸はできてる? もし大丈夫じゃないなら今助けを……」


 男性は心配そうに声をかけてくる。

 櫂は伏せた顔を上げ、その横顔を窺い見た。顎には少し無精髭が散らばるが、その整った相貌は兄を思い出させてもいた。

「大丈夫です……でも、しばらくこうして……」

「え? 君……?」

 櫂は自分の行動の意味が、自分でも分からなかった。

 強引と思うほどの動きで相手の胸に身を預け、吐息がかかるほど傍に寄る。

 戸惑いが伝わったが、構わず首に腕を回し、肩に頬を寄せ、身体を密着させる。相手の当惑は途絶えなかったが、櫂自身は既に多くを考えられなくなっていた。


「こうしてれば、もしかして楽になる……?」

 惑う声が届いたが、櫂は無言で頷くだけだった。

 相手の腕にはこちらに向けた配慮がある。

 彼から抱きしめたりは無論しないが、誰かに触れられる行為は痛みを緩和していく。

 鼓動が元の律動を取り戻していく。呼吸が緩やかなものへと変化する。

 だがそうなれば、新たな別の感情が櫂の中で込み上げていた。


「もう大丈夫……?」

 男性が訊いたが、櫂は答えられなかった。

 自らへの嫌悪を最大限に感じるその感情が思考を埋め尽くし、脳髄は熱を持って暴走しようとしている。

 櫂は淀んだ瞳で相手を見た。

 彼の血が、ただ欲しかった。

 欲しくて欲しくてたまらなかった。

 彼のこの肌を切り裂き、彼の血をごくごくと飲み干したかった。


「き、君……」

 首筋に口づけ、櫂は鼻を鳴らして相手の匂いを嗅いだ。

 濁る欲望が強襲のように押し寄せ、止められなかった。

 戸惑う声も介さず、肺一杯に相手の体臭を吸い込む。

 兄の相貌によく似た彼。

 彼なら自分に血を分け与えてくれるだろうか。

 そんな身勝手であり得ない問いが湧き立つが、自分の中の答えを待つこともしなかった。

「な、何を!」

 驚愕を放った相手に突き倒される。

 濡れた地面に倒れ込み、櫂は相手を見上げた。

 後退るその身体も、腕も震えている。

 でもそれは当然の反応でしかなかった。

 噛みつかれた首筋を庇う相手の表情にあるのは、驚愕と蔑みだけだった。


「私……」

「も、もういいから何も言うな! ただ俺には二度と近づくな!」

 櫂は無言で俯いた。

 親切な相手に自分が返したのは、おぞましい行為だけだった。悔恨と謝罪を感じてもそれを思えば、逃げるように去っていく背に向ける言葉もない。

 雨はいつの間にか止んでいた。

 立ち上がり、自らの姿を櫂は見下ろした。

 瞳に映るのは泥にまみれた両膝とスカートだった。惨めで汚い姿でしかなかったが、これがきっと自分の本当の姿だった。


 はは……。

 そう思えば零れるように嗤いが漏れた。

 見上げた路地の向こうは、名残の雨で滲んでいる。

 その先に自分が行くべき地獄が見えた気がした。

 自分は一体どこへ向かっているのだろう。

 歩き始めた自分の頬を伝うものが涙と知れば、残された理性を感じる。

 しかし唇を拭えば手に血がつく。誰かを傷つけてまで欲したその味が蘇れば、正気を失ったような泣き笑いを浮かべるしかなかった。


『いっつも何かに悩んでるくせに、自分では解決に向けて何も動こうとしないんだよねー』


 蘇った留可の言葉も路地の向こうに滲む。

 自らに残された人である部分は、これからも自分の中に在り続けてくれるだろうか。

 脳裏には兄や友人の姿が浮かぶ。

 大切な人のために行動すること。もし自分がその言葉に動かされることができたなら、僅かでも人である部分を取り戻せる気がした。



〈3.雨の向こうに立つ女 了〉

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