5.九条坂 その5

 身を隠す時には思いもしない場所に。

 久吾は深夜の高級住宅街に立って、一軒の家を見上げていた。


 周囲に人の姿はなく、野良猫の姿さえない。

 この場所は二番地だが、一番地の塀は目と鼻の先にある。不肖の息子を捜す川西の両親も、相手がこれほど近くに潜伏しているとは思ってなかったはずだ。近頃は警備員常駐の宅地が主流だが、ここには最低限の監視カメラがある程度で、保全のための巡回車も先程通り過ぎたばかりだ。セキュリティの程よい緩さが好都合ではあるが、長居は禁物だった。


 久吾は目前の家をもう一度見上げた。

 角度は異なるが、そこにあるのは間違いなく川西と一緒に写っていた家だった。

 門に歩み寄り、警報装置の有無を確かめて侵入する。玄関扉を確認するが、さすがにここは施錠もされ警報装置も設置してある。


 裏手に回り、豪奢なプールが出迎える広い庭に向かう。慎重に見回したその場所は木々に囲まれ、周囲の目を気にしないでいい代わりに、侵入者の姿を見え難くする盲点がある。

 防犯用の青い照明が灯るプールサイドにはデリバリーピザの空き箱や酒瓶、空き缶、雑誌、脱ぎ散らかしたTシャツや女物の水着、下着などが散見される。

 家屋に繋がるサンルームの戸を確かめると、鍵が掛かっていない。逃亡中の身でありながら不用心と思うが、相手のこの粗忽さは単に幸運と捉えるのが恐らく正しい。

 久吾は硝子戸の先に忍び込むと右手の扉に歩み寄った。


 光と音が微かに漏れる扉の向こうはリビングだった。

 侵入した二十畳ほどの部屋には大型テレビやゲーム機、高級オーディオなどが並ぶ。床にはピザの箱、酒瓶、空き缶、ゴミがプールサイドの再現のように散乱している。テレビの画面ではアダルトチャンネルの濡れ場が見る人もなく、孤独に映し出され続けていた。

 久吾はテレビを消し、ソファの傍に立った。

 そこにはビール缶を手に眠りこける若い男の姿がある。

 その顔はこの数日、写真で幾度も見た顔だ。

 相手を見下ろすと、久吾はその頬を軽く叩いた。


「おい、起きろ」

 薄目を開けた相手はこちらをぼんやり見るが、それも一瞬だった。相手はすぐさま飛び起きると、思ったより素早い動きでソファの陰に隠れた。

「あ、あんた誰だ! い、一体どうやってここに!」

「鍵は開いてた。お前は呑気に眠りこけてたしな」

「お、オレが訊いてるのはそんなことじゃない!」

「そうか」

「そ、そうかって……あんた本当に誰だ!」

「俺のことはどうでもいい。川西映だな? お前を捜してた」

「お、オレを捜してた……? い、一体誰に頼まれて!」

「それはまぁ……お前を捜してる誰かだよ」


 適当に答えると、向かい合う顔は瞬く間に怯えに染まる。

 ソファの陰で必死に策を巡らす姿を見下ろして、久吾は男の仲間の言葉を思い出す。追っているヤクザ。ひごをうけていたこわいひと。自分はどちらでもないが面倒でも誤解を解かなければ、話は進まないようだった。


「待て。俺はお前を捜す仕事を引き受けただけだ。諸々の事情には関係ないし、興味もない。お前をここから連れ出すか、居所を依頼主に伝えれば俺の仕事は終わる。だから……」

「ま、待ってくれ! それじゃあんた、オレが知らないんだな! だったら見逃してくれ! あんたにこのまま連れて行かれたらオレ、絶対殺される!」

「殺される? まぁそういう筋からの追跡もあるようだが、俺の依頼主はお前を殺したりはしないよ」

「う、嘘つけ!」

「嘘じゃない。俺の依頼の大元はお前の親だ」

「親? だったら尚更嘘だ! あの人達がオレを捜してるなんて絶対ない! 二人とも二年前から東欧に在駐してるからな! だからオレがいなくなったことにも気づくはずなんかない! そうじゃなくても昔から二人ともオレになんか全く興味がないからな!」


 大声で吐き捨てた相手は、ソファの陰で子供がふて腐れたような顔をしている。

 川西映。この男の人となりについては表面しか知らないが、彼女が坊ちゃん気分の抜けない売人と称した意味なら既に会得できる。ついでに言えば親へのコンプレックスと、与えられるはずのものが与えられなかったことへの執着を捨て切れない子供のような大人と表現すればいいのか。

 しかし今は相手を分析している場面ではなかった。この男の言い分が真実なら、両親は失踪を知らず、知らないのなら捜索の依頼もするはずはない。

 ならば一体、のか?

 久吾はソファの陰で不機嫌そうに見せる相手に呼びかけた。


「川西」

「なんだよ」

「お前が『プラシーボ』というドラッグに関わってることは知ってる。でもそんなことはさっきも言ったとおり、俺には関係ないし興味もない。だが一つ訊かせてくれ。お前は一体、『誰に』『何をして』逃げることになったんだ?」


 問うとそれまでの表情は消え、代わりに諦めにも似た投げやりのようなものが顕れる。

 疲れ切った顔でこちらを見上げた相手は、最後に自虐的に笑った。

「あー、なんかオレもどうでもよくなってきたよ……どうやったって逃げられないなら、最後にあんたの質問に答えてやるよ。ああ、あのクスリ、プラシーボはオレが造ったんだ。あれができたのはすげー偶然の賜だったよ。できた時は何にもないオレに与えられた贈り物だとも思ったね。増産するにもネットで買える薬剤でどれだけでも造れるし、原材料も安くて済む。商売にするのはすぐ考えた。でもどうせやるならでかい後ろ盾が欲しくて、に話を持ちかけて、儲けの何割かを渡す代わりにヤバくなった時のケツ持ちを頼んだんだ……最初は上手くやってた。けどそのうちにオレに欲が出て、勝手に取り決め外でも商売を始めたんだ……『奴』には絶対勝てないって分かり切ってたけど、いつかは少しでも出し抜いてやりたい、そう思ってたからな……でも『奴』はオレが思ってた以上にヤバイ奴だった……勝手してたのがバレた後、オレは命の危険を感じて在庫の全てを持って逃げた。そうすれば『奴』は取り分を失うし、オレの方も立場が少しは有利になると思ったからな。けどそれも甘い見立てでしかなかった……プラシーボの製法はオレしか知らない……それは自分のカードにもなると思ってたけど、『奴』が執拗に追いかけて、想像したくもないような報復をしようとする相手なのは分かってた……だからこうやって追ってくるのは分かってたけど……クソっ……」


 語り終えた川西は唇を噛んでいる。惑いもなく語られた話だったが、偽りでないのはその表情から読み取れていた。

 この男が愚かなのは言うまでもなかった。

 偶然生み出したクスリを遊ぶ金のために悪戯に増産し、街中にばらまいている。

 そんな男が商売の仲間とし、結局裏切った相手。

 彼がこれほどまでに恐れる相手を久吾としても『奴』以外に思いつかなかった。


「藤堂得蘭……」

 ぼそりと呟いた名に目前の男が瞬時怯えを浮かべる。

 向けたのは質問でもなく、それに何かの答えが戻った訳でもなかったが、肯定の意があるのは伝わっていた。


「あいつのことはガキの頃から知ってた……オレの両親の昔からの知り合いだったからな。あんたはあの男に頼まれて、オレを捜してたんだろ……?」

 言い放ち、川西は手に取った酒瓶を無気力に呷った。

 藤堂がこの男の商売の片棒を担いでいたことには特に感想もなかった。

 多くを手に入れ、今後もより多大なものを得ることも可能な男が今更と思うが、恐らく彼にとっては全てが暇潰しの戯れなのだろう。


 だが知った事実がどうだろうと、他の選択肢はなかった。

 川西を引き渡せば自分の仕事は終わる。

 その後この男がどうなろうと、自分の知ったことでもない。

 しかし、得たこの事実は異なる道を辿れば、別の展開の新たな種になるのではないだろうか。

 藤堂が隠し持ち、いつまでも明かすことをしないを知りたい。

 それが美怜の行方なら、櫂のためになる可能性を秘めている。

 そうなればこの男を簡単に引き渡すことはしてはいけないことだった。

 命令に愚直に従うことは、文字どおり愚かな行為でしかないはずだった。


「川西、もう一つ訊くが、お前が持って逃げたドラッグは今どこにある?」

「ああ? んなもん、あっちだよ」

 久吾が問うと、川西が示した部屋の隅には紺色のスポーツバッグがある。

 歩み寄って確かめると、淡い青色の錠剤が詰まった袋がいくつも入っていた。


「これで全部か?」

「ああ、全部だよ」

「そうか、それじゃこれは俺が預かっておく。そして川西」

「なんだよ」

「お前、この家から出る気はないだろう?」

「はぁ? んなの当ったり前だろ。ここなら親にも誰にも知られてない。できれば一生ここから出たくない。オレは死にたくないからな!」

「そうか、じゃ、ずっといろ。俺が連絡するまでここにいろ」

「え? それどういう……」

「俺は誰にもお前の居場所を言わない。依頼主にもな」

「えっ? もしかしてそれって、オレを助けてくれるってことか……? あんた、オレをあいつの所に連れていかないのかよ?」 

「ああ、まぁ悪いようにはしない」

「マジかよ!」


 伝えると川西は急に飛び上がって駆け寄ってきた。

 顔には見たこともない笑みが浮かび、ハグでもしそうな勢いだったが、久吾は伸ばした腕と表情で断固それを阻止した。

「いやー、マジかよ。実はあんたいい人だったんだな。なんか色々怒鳴ったりして悪かったよ。うん、よく見たら、すごくいい人に見えてきたよ。眼鏡だけどマジでイケメンだし」

 安堵したのか急に気楽になった相手は一人酒盛りを始め、それを見遣った久吾は来た時と同じ経路を辿って家を後にした。


 住宅街は変わらぬ静寂を漂わせ、墨のような闇に佇んでいる。

 久吾は足を『宵』に向けていた。

 川西のバッグは時が来るまでケイラに預けておくつもりだった。多少の面倒事が起きても、彼女なら上手く立ち回れる。しかし無条件でこれを預かれと言い渡せば、彼女はまた酷い男と罵るだろうか。

 その時がさがさと茂みが揺れ、植え込みの陰から一匹の黒猫が飛び出していった。

 去っていく影のような後ろ姿を眺めながらよくない前兆が掠めるが、久吾はそれを振り払うと月の光が落ちる道を四番地に向けて歩いていった。

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