2.九条坂 その2
殺人事件の捜査は、進展と呼べるものがない数日が続いていた。
遺棄現場付近での再聞き込みは新たな情報も出ず、有意義なものも得られなかった。被害者達の交友関係も見直したが捜査上に上り既に除外した人物を除けば、疑惑どころか疑わしき者すら浮かび上がってこない。
被害者と加害者、立場がそこに至るまでには何らかの接点があったはずだ。だがその痕跡を何一つ拾い上げることができない。通り魔的な突発的犯行の線も残されるが、そうでなければこの犯人はまるで透明人間のような存在だった。
「九条坂さん、今情報が。通報者によるとアパートの隣人に不審な点が多いそうです」
受話器を置いた櫻木が向かいのデスクから呼びかけた。
既にこの件は日々のニュースでも流れ、知る者も多い。公表すれば社会的影響が拡大すると思われる詳細は伏せてあるが、世に溢れるメディアの一端では不穏な情報も漏れ始めている。それ故悪戯電話や不安を膨らませただけの市民からの通報も増え、それに毎回取り合っていては身が持たず捜査もその度滞る。しかし全てを無視すれば、重要情報を見逃す危惧もある。
「通報者が言うには、時々隣の部屋から呻きや小さな悲鳴のようなものが聞こえてくるそうです。何度か遠回しに探りを入れてみたそうですが、部屋の模様替えをしていたとか、大きな音でラジオを聴いていたとか、その度にあまり納得できない言い訳が戻っていたらしいです。隣人は一人暮らしの大人しそうな若い男性だそうですが、家にいることも多く、通報者によると職業不詳です。これらの特徴は先日犯罪分析課が結論づけた犯人像にも合います。通報者のアパートは被害者の行動範囲内にあります。九条坂さん、どうしますか?」
こちらを窺う櫻木は事情聴取の有無を訊ねている。だがその表情は既に向かうつもりで満々だった。
有益な情報や手がかりがない今、疑わしきものは一つ一つ潰しておきたい気概が垣間見える。少々前のめりすぎる気もするが、久吾としても異論はなかった。
櫻木が運転する車に乗り、通報者の住む三番地の中央に位置するアパートに向かう。到着したアパートはありふれた感じの一般的なものだったが、造りは古く、些かプライベート感が希薄な壁の薄さは想像できた。
まず櫻木が通報者の部屋に向かい、直接もう一度話を聞く。
しばらくして戻った櫻木が言うには件の隣人は数十分前に帰宅し、直後からまたいつもの物音や声が聞こえるとのことだった。
「すぐに向かいますか?」
現状としては不審な状況があるだけだ。しかし通報者が継続して異変を感じているのは確かだ。何らかの犯罪がこのアパートの一室で日常的に行われている可能性はあった。
久吾は櫻木と車を降り、目的の部屋に向かった。扉をノックすると通報者らしき中年女性が隣室から顔を出すが、櫻木が戻るよう手で合図する。
鍵を開ける音がして、ドアが開いた。
おずおずと開かれた扉向こうには、二十才くらいの若い男が立っていた。
「な、なんですか?」
中肉中背、特に特徴もない顔立ちだが一応整っている部類に入る。白いシャツにグレーのズボン、地味だが清潔感はある。だがどこか不健康そうな気配が漂い、隣人女性が何気に疑って通報に至った心情も僅かながら理解できた。
「新帝都警察、俺は九条坂、こっちは櫻木。任意だが話を聞きたい。匿名でこの部屋から夜な夜な呻きが聞こえると通報があった。確認したい」
久吾はバッジを見せ、通報者と内容に多少脚色して伝える。
「呻き声……? 僕の部屋から?」
男は疑問を浮かばせながらも動揺を垣間見せる。
自宅に警察が現れ、高圧的な態度を取れば大抵は萎縮するか逆に憤怒を顕す。やや前者よりの男は平静を装おうとしているが、滲む動揺や焦燥を覆い隠せていない。
男が立つ玄関を覗き込めば、革靴やスニーカーが並んでいる。
丁寧に並べられたそれらはどれも男のものと思われたが、壁際に無理矢理押し込まれた女物の白いサンダルが視界に入った。
「すみません。一つお訊ねしますが、ここには一人でお住まいですよね。提出済みの住民帳にも独居と記載されています。現在来客中ですか? そこに女性物の靴が」
同じものを見取った櫻木が訊ねていた。
その質問には相手の表情がより翳る。
「あ……えっと、これは……」
男は答えようとするが返事を見つけられないのか、ただしどろもどろになる。
その時、どん、と奥から壁を蹴ったような音が響いた。
それは一度だけ響いたものだったが、別の誰かがいることを疑わせるに充分足る音だった。
「今の音は? 一度部屋を確認しても?」
「い、いや、今のは何でもないです……この部屋には何も……」
男は言い訳しようとするが焦燥が増し、挙動不審度も増す。殺人事件に関与していなくとも、別の疑惑があることは既に確実なものとなっていた。
「上がらせてもらう」
「ちょ、ちょっと! あんた勝手に!」
「あなたはここで」
呼び止める声を無視して、久吾は部屋に踏み込んだ。
部屋は入ってすぐが極小の台所、その先に引き戸。
磨りガラスの引き戸の先は六畳ほどの部屋になっていた。
敷きっぱなしの布団に散乱したゴミや衣服。自堕落な様相がすぐさま目に飛び込むが、それよりも先に目を向けなければならないものがあった。
「今すぐ救急車を呼ぶ」
淀み切った暗い部屋。
汚れた布団の上に一人の女性の姿がある。
その顔には殴られた痣がいくつも残り、衣服は剥ぎ取られ、両手は拘束され、足首には長い鎖を巻かれ、首には犬のような首輪をつけられている。
久吾は上着を脱ぎ、その身を覆うと腕の拘束を解いた。
顔を上げた彼女が、「ありがとう……」と掠れた声を発する。部屋の外に歩み出た久吾は声量を落とすも、力強い声を相棒に向けた。
「櫻木、今すぐそいつに権利を読み上げて手錠をかけろ。そしてこの部屋には二度と近寄らせるな」
「えっと……はい、了解です!」
状況を察したらしき櫻木の声が届き、うろたえる男の顔が目の端に映る。久吾は携帯電話を取り出し、今自分がやるべきことを果たした。
「三番地
彼女がここで何をされ続けたか。それを知れば通報者の隣人でなくとも薄ら寒い思いと怒りを抱かずにはいられない。
要請を終えた久吾はコップに水を満たし、未だ茫然とする女性に手渡した。彼女はそれを手に取り、渇き切った喉を癒すようにゆっくりと飲み下していく。
監禁されていることを音で示し、自ら救出の活路を開いた彼女だったが次第に現状を受け取り始めたのか、上着で身を覆い隠すようにして咽ぶような泣き声を上げ始める。
救急車のサイレンの音が響いてきた。
久吾は部屋の外に出ると、今度は自らの両手を拘束され、櫻木に見張られるこの部屋の住人、
この男が犯罪者なのは間違いないが、弱者を虐げるクソ野郎以上のものは感じられない。
身を震わすほどの残虐性、あの一連の事件の犯人にはそれがある。この男が許し難い犯罪者であるのは確かだが、自分達が追う相手と同列の線上にいないのも確かだった。
******
被害者の死亡推定日時、及び遺体遺棄当日の行動や被害者との関係。
実際は無職ではなく夜間の仕事に就いていた女性監禁犯のアリバイは、皮肉にも男が真面目に出勤していたことで証明された。取り調べは続くが、恐らく男は一連の事件には関わっていない。一人の女性を救出できたが、殺人事件との距離は今日も縮まらずに終わっていた。
「……九条坂さんはこの仕事が嫌になったことはありませんか?」
相棒の声が届いたのは、署内の元喫煙場で休憩を取っていた時だった。
自販機と古びたソファがあるだけの元喫煙場は昼間、婦警の井戸端会議に使われる以外は大抵誰の姿もない。ここから追い出された喫煙者達は狭苦しい喫煙室か、高校生のように建物の陰で隠れて吸っている。
久吾は煙草を昔から吸わず、櫻木も吸わない。その辺りは気が合うが、代わりにいつも甘ったるいジュースを嗜む彼の姿を見ているとこっちまで胸やけがしてくる。今日も彼は自販機で買った激甘の苺ジュースを飲んでいた。
「どうした、ついにこの仕事が嫌になったか?」
「いえ……嫌になった、って訳ではありませんが……」
飲みかけの紙パックを持つ手が強張っている。
問いかけはしたが、久吾にその心情は理解できた。
この仕事は正常で健全な精神を保つことを強いられる仕事だが、その正常で健全な精神を時に排除しなければ、やっていけない仕事でもある。
「俺はもう慣れた。この仕事に関わる以上、日々やり切れない思いはいつもついて回る。でもそれに耐えられないなら辞めるしかない。だがそれから逃れてもやり切れない出来事や耐えられない出来事は、いつもどこかで起こっている。直接見るか、離れた場所でそのことを想像するか、その違いだ。ほら、あるだろ? 誰もいない森で木が倒れても誰もいなければ存在しないも同じ。それに近い」
「あの……言いたいことはなんとなく分かりますが、なんだかそれ、合ってるかどうかもすごく微妙な喩えの気がします……」
一応言葉を並べたが、相手は表現し難い表情で呟く。それを見ればつい慣れない説教じみた台詞を放った愚かさが垣間見える。相棒は分かっている。恐らく自分が口にするのはこんな言葉ではなかった。
「あのな櫻木、どうしてそんなことを訊く? 自分の意思の確認か? そんなのは今更誰かに訊かなくても分かってるはずだ」
相手は飲み終えた紙パックを握り潰し、的確なコントロールでゴミ箱に投げ入れる。向き直った顔にはいつもの笑みが見え、「そうですね」と変わらぬ表情で言葉を返した。
腕時計の時刻は十時を回っている。
ふと脳裏に妹の顔が浮かび、重い気分が過ぎる。以前より気を失う頻度が増えていることには気づいている。心にのしかかる心配を振り払うためにもできるだけ彼女の傍にいたいと思うが、そうすることをその自らが避けようとしている。
迷いを抱えて夜道を歩いていると、携帯電話が鳴る。
『川西の仲間が来ている』
呉からの電話はその一言だけで切れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます