3.雨の向こうに立つ女
1.九条坂 その1
深夜のコインランドリーは今日も閑散としていた。
いつもと異なるものがあるとすれば、一人の先客の姿があったことだった。
耳障りな音を立てて振動する古びた洗濯機の前に秋の姿がある。しかし彼はこちらに絡んでくることもしなければ、何かを言ってくるでもない。
その様子が気になると言えば多少気になるが、純粋に洗濯しに来ているならそれはそれで構わず、相手が大人しくしているならこちらから絡む必要もない。適当に距離を取って、存在なきものとすればいい話だった。
汚れ物を洗濯機に放り込むと、久吾はベンチで一息ついた。
一人で考えたい時に訪れるこの場所だが、今夜は違う理由があった。
二日前、病院のベッドにいる彼女の前で人には言えない幻覚を見た。
その中で自分は彼女に口づけをし、それ以上のこともしようとした。
それには動揺しか感じなかった。その日は何も悟られずにいたが、彼女の顔を見る度に自慰行為を見つかった中学生のような心境になってしまうことを避けられない。
あれはもしかしたら自分の中にある歪んだ欲望の顕れかもしれなかった。
その欲望が自分の身体から出でて、あの様な形で現れた。だがそう思う反面、あの幻覚が自分とは距離を取った場所にある気もしていた。喩えるならいつもの血濡れの夢に似た手触り。そう思うこと自体が忘れたい幻覚に対する逃避かもしれなかったが、酷似する何かを感じたのは確かだった。
洗濯機の音が反響する店内に、携帯電話の呼び出し音が鳴り響いていた。
軽快なリズムを響かせているのは秋の携帯電話だった。しかし彼は電話に出ようとせず、動く素振りもない。立ち上がって様子を見てみるが、ぼんやりしている。無視しても構わなかったが鳴り続ける音が耳障りすぎていた。
「秋」
呼びかけるが反応はなく、電話も未だ鳴り止まない。仕方なく傍まで歩み寄ると、久吾はもう一度声をかけた。
「おい、秋」
「あ? なんだ? ああ? 九条坂?」
だが声をかけたと同時に電話は鳴り止んでいた。
店内には再度洗濯機の音だけが響く。
傍の顔には寸前までこちらの存在にさえ気づいていなかった気配がある。ぼんやりしているのは変わらないが、そこにいつもと異なる翳りが見えた気がした。
「秋。今、お前の携帯電話が延々鳴ってたからな。出るつもりがないなら、電源を落とすか着信拒否にでもしとけ」
「ああ、そっか……全然気づかなかった……悪ぃ……」
言葉を向けると、そんな返事が戻る。
受け取ったそれには違和感と一瞬の戦慄しか覚えなかった。
この
「秋」
「ああ?」
「お前、何かあったのか? なんだか元気がない」
告げると相手の顔にはみるみる不快感が立ち上がる。それには即座に今更の後悔を感じるしかなかった。
「はぁ? なんだそれ? 今の言葉すんげー気持ち悪りぃんですけど。俺が元気だろうが、元気でなかろーが、九条坂には関係ねーだろーが」
吐き捨てる相手の顔に先程見た翳りはもうない。冷めた視線を最後に相手はイヤホンを取り出すと、音楽を聴き始めている。
久吾はリノリウムの床に立ち尽くして、己の馬鹿さ加減を嗤った。
心配とかけ離れた場所にいる相手であるのを失念していた。そんな相手に感傷的な思いを抱いた自分には嗤いしか漏れない。
「ああそうだな、少しでもお前を気にかけてしまった数秒前の自分を叱り飛ばしたいくらいだよ」
発した言葉は届いてないだろうが、どうでもよかった。
久吾は背を向けるとベンチに腰を下ろし、今のやり取り全てをなかったことにした。
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