9.秋

 戦前から続く古書店に併設した喫茶店は、落ち着いた造りだった。

 光度を抑えたランプの灯りが揺れ、古い紙の匂いとコーヒーの香りが混ざり合う。

 周囲のテーブル席を見回せば、その雰囲気に相応しい人達で埋まっている。故に秋は全く落ち着くことができず、グラスの水を飲んだり、飲み干してしまったアイスコーヒーの氷を掻き混ぜたりしていた。


 灰茶の髪に古着のパーカー、着古したダメージジーンズ。どうにも身に染みついたチンピラ感溢れる自分が相応しくない場所であるのは分かっている。

 周囲にはカップルの姿も多い。

 それを見て自分の待ち人を思うと、男とデートの待ち合わせをしているようでより居心地が悪い。


 あの男に連絡先を教えたことを後悔していた。

 いつもの自分ならあんなことはしない。

 しかしあの男は、相手に警戒心を抱かせることをしない妙な雰囲気の男だった。

 歳は四つか五つ上、中肉中背。顔立ちは間抜けだと言うこともできるが、それは相手が醸す優しげとも言い換え可能な雰囲気が為せる技であって、本当は酷く整っている。

 自分に敵意を向ける相手の方がやり易かった。

 実際周りにいるのはそんな連中ばかりだった。

 櫂という存在もあるが、だからこそ彼女の存在が自分には特別なものでもある。あの男と重ねることなど決してしないが、もしかしたらほんの僅か似ているのかもしれなかった。


「ごめんねー、待ったー? 霧原君」

 その声が聞こえ、見覚えある男が手を振って小走りでやって来た。

 デートに遅刻した彼女を思わせるその振る舞いには、再びの居心地悪さを感じるしかない。

 男の名は奈津川葉月。

 女のような名だが、間違いなく男だった。

 大きなその声に周囲の視線が集まり、相手に名を教えたことも、ここで待ち合わせの約束をしてしまったことにも、再度の後悔を感じていた。


「でかい声だな、あんた」

「えっ? 本当に? ごめんね、僕、集中しちゃうとついつい回りに目が行かなくなっちゃって。でも今度からは気をつけるね、ごめんねぇ霧原君」

「はぁ? 今度? んなこと……いや、もういいよ……」

 反論もしない相手がどうにもこうにもやりにくい。今度という言葉もやや、というよりかなり気になるが、相手の方は何も気にせず向かい合う席に腰を下ろした。


「霧原君、今日は来てくれて本当にありがとう。これでこの前のお礼ができるよ」

「あのさ、そのことだけど俺、別にこんなことしてもらうようなことしてないからね。あの時もそう言ったけど」

「そんなことないよ。だって君、僕のことを助けてくれたじゃないか」

「あれは単なる成りゆきで」

「あのね、それでもいいんだよ。この街で見知らぬ誰かにそんなことをする人なんかいない。だから僕はとても感謝してるんだよ。あんなことは日常茶飯事だからね」


 男は淡々と留可と同じ言葉を繰り返した。

 長年の経済の不安定さが不穏となってこの街を覆っている。苛々と気が立った人間が多く、犯罪率も増加している。でも誰かを責めても何にもならず、その責めるべき本当の相手が誰かも分からない。他愛ない諍いは改善の兆しが見えないこの街の日常的光景だった。

「だとしてもあんたが気にすることなんかない。俺にとってもあんなことは日常茶飯事だよ。俺は今日のアイスコーヒー代を奢ってもらえばそれでいいし、俺はもう飲んだし、それじゃ、どーもごちそうさま」

「ああっ、ちょっと待ってよ、霧原君」


 立ち上がり、去ろうとしたが腕を強く掴まれていた。

 しかし秋は見下ろしたその手を適当に振り払っていた。

 居心地悪いこの場所にいるのも嫌だったし、この男とこれ以上一緒にいるのも嫌だった。やりにくい相手であることが一番の理由だが、人の心にスッと入り込んでこようとするこの男は長時間一緒にいる相手ではきっとない。

 それは多分宗教の勧誘にも似ている。もしくは新聞の勧誘か。何かに絆されて、気づいたら読みもしない新聞を三つも四つも取っている。これなら冬人や九条坂、もしくは指を噛み千切ろうとした数日前の駆逐相手の方がずっと楽だった。関わり合いにならない方がいいと思われることは多いが、関わり合いになりたくないと思うことはそうない。それだけこの男が自分にとって希有な存在ということだった。


「霧原君、僕、実は鏡の中の世界にずっと憧れてるんだ」

「はぁ?」

 その上今度はなんだか怖いことを言い始めた。

 秋は目前の相手を薄気味悪いものを見るように見下ろす。

 相手の言葉は立ち去る意思をより固めるものでしかなかった。

 不気味な不思議君と関わり合うほど、こっちは暇じゃない。関わり合いになりたくない方向性は少しズレたが、その思いは増加の一途を辿っている。やはりここに来たこと自体が間違いでしかないようだった。


「僕はね、鏡の向こうの僕はどんな毎日を送っているのかな? これからどんな日々を送っていくのかな、ってよく考えるんだ。そう思えば、うらやましさと、楽しさと、怖さを感じるんだ」

 だが相手は何も気にせず一人で喋っている。

 これは早く対処しないと駄目なパターンだった。ここで完全に断ち切っておかなければ、今後の日々にも支障が出る。呆気に取られている場合などではなく、強硬な手段を取る場面であるはずだった。


「なぁあんた、俺はそんな話をされても全然興……」

「ねぇ霧原君はいつも何にそんなに怯えているの? 一度聞かせてよ。君は一体何が怖くてそんなに怯えてるの? 学校の成績? 友達との関係? 今後の進路? 好きな子の気持ち? 家族との関係……? うーん、それとももしかして……闇?」

「えっ……?」

「ん? 闇なの? へぇー、君にしてはとっても意外なものなんだね」


 秋は言葉を返せなかった。

 その返せない言葉の代わりに今ここにある感情を表現すれば、それは怒りに近いのかもしれなかった。

 確実にを指摘した相手に、表情を変えてしまったのは不覚だった。

 意外だと、笑んだ相手の顔に一瞬カッとしてしまったのも確かだった。

 でもそれは安堵にも似ていたかもしれない。

 この場を去れずにいる今の自分に後に延々と後悔させられる予感もしたが、足はなぜか動くことをしなかった。


「じゃあさ霧原君。これから一緒にどうしてそうなのかを考えてみようよ」

「考える……?」

「うん、そうだよ。君が闇を怖いと感じているのには理由があるからだよ。だからそのことをよく考えて、よく見て、それでも駄目なら中身を開くようにより観察すれば、きっと何かが見えてくるはずだよ」

 秋は無言でいた。

 いつの間にか読みもしない新聞は六つも七つも取っているようだった。蔑みと嫌悪を感じていたはずの相手の声が心地よくもなり始めている。


「ね、秋君」

 目の前には相手の手が差し出される。

 足元では惑いが逡巡を繰り返したが、秋は何も言わずにその手を取った。

 触れた掌はなんだか生ぬるく、死んだばかりの人の手のようだと思った。


〈2.死体とプラシーボ 了〉

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