8.櫂 その3ー②
優しい手が額の汗を拭っている。
目を覚ました櫂の視線の先にあったのは、久吾の姿だった。
「大丈夫か?」
「……うん」
「またいつものか」
「うん、ごめん……」
「謝るな、お前が悪い訳じゃない」
傍らに座る兄は手にしたタオルをサイドテーブルに置き、背もたれに身を預けた。微かな光源では表情を読み取れなかったが、横たわる目にその姿はとても疲れて見えた。
「霧原とまた一緒だったのか」
半身を起こすとその声が届く。櫂は一瞬惑うが、嘘は言いたくなかった。しかし記憶にない部分が大半であるのも事実で、結局告げたのは曖昧な箇所に虚偽を交えたものでしかなかった。
「ううん、秋達とは夕方には別れてた。その後は一人でぶらぶらしてて、本屋とか雑貨店を回ってる間に具合が悪くなったみたい……」
言葉を終えると相手の手が伸び、ぶつけた箇所を確かめるように触れる。僅か痛んだが本当に僅かだけだった。
「看護師に聞いた。まだ痛むか?」
「ちょっとだけ」
「鎮痛剤を貰うか?」
「ううん、いい」
優しく撫でられると子供の頃を思い出す。櫂はされるがままに当時の記憶と心地よさの中でたゆたっていたが、その手の優しさは心に翳りも呼ぶ。
二人きりの家族。
彼はずっと自分を守ってくれた。
血を分けた兄妹だが、今は別の意味でも血を分けている。
「櫂」
呼びかけに顔を向ければ、いつもと違う兄の表情があった。「どうしたの?」と声をかける前に顔が近づき、唇が重なっていた。驚きよりそれを待っていたかのような感触に戸惑う。ベッドに押し倒され、より深い口づけを受ける。手が服の中へと伸びてきても、何も拒まなかった。
「櫂、どうした?」
「え?」
気がつくと椅子に座る久吾がこちらを見ている。
「気分が悪いのか? さっきから何度呼びかけても返事がなかった」
「えっと……ううん、大丈夫……」
答えながらも今体感したものが幻覚だったと気づかせられれば、身体が熱くなることを止められなかった。羞恥が身を覆い、今見たものを口が裂けても誰にも言うことはできない。微かでも思い出せばより恥ずかしさと自分への嫌悪が増した。
「櫂、本当に大丈夫か?」
「……うん、大丈夫……」
再度の返事を向けると、櫂は俯いた。
今程の感覚は身体の底でまだ燻っている。今も残るそれは誰かの記憶が自分の中を侵食したような感触も伴っていた。だがそれはただの言い訳にすぎないのかもしれない。今見たものは心の奥に隠された欲望の顕れかもしれなかった。そう思えばどこにも辿り着くことのない感情が蜷局を巻き、認め難い歪んだ思いが充満する。今日はもうそこにいる兄の方を見ることもできなかった。
「……久吾、私、もう大丈夫だから、家に戻っていいよ」
「なんだ、急にどうした?」
櫂は横になると、毛布を被って背を向けた。
「俺の方は別に朝まで付き添っても構わないんだが」
「ううん、平気……それより久吾こそ家に戻って休んで。すごく疲れて見えるから」
伝えると兄はそれ以上何も言うことはなかった。しばらくの後、「じゃ、お前もちゃんと休めよ」と声が届き、病室を出る気配が続いた。
去る背を密かに見送ると、胸がずきりと痛んだ。
彼を拒絶したことで生んだ痛みは先程とは違うものだが、よく似ていた。
それはじきに霧散して消え去ったが、痼りのような何かだけが残る。
蘇った記憶。母は自分を殺そうとした。
そしてあの激痛。
死は遠い場所ではなく、自分のすぐ傍にいた。
いつまでも漂う不安定な思いはどこまでも膨張を続け、真綿で首を絞めるようなその感触に櫂は夜明けが来ても眠ることができなかった。
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