7.櫂 その3ー①
目を覚ました場所がどこなのか、櫂は一瞬分からなかった。
でも糊の利きすぎたシーツの匂い、感触、固いベッドの上で身を捩れば、点滴針の刺さった腕が痛む。ここがどこであるかは、じきに知れた。
「病院……?」
見回した病室は六人部屋だが、他のベッドに人の姿はない。
下ろされたブラインドの外は暗く、消灯時間も過ぎたのか病室も廊下も照明が落とされ、ベッドサイドの小さな明かりだけが灯されていた。思い出したように痛みを感じて後頭部に触れれば、髪の下に熱を持った感触があった。
街灯が照らす夜の舗道。突然に揺れた視界。弧を描きながら全てが下へ向かう景色。コンクリートに倒れた衝撃と痛み……。
夜道で昏倒したことを思い出せば、それ以前の記憶が僅か断片的に蘇った。
「夕方……留可と一緒に秋に会って……それから……」
朧気にそれまでの経緯を思い出すが、倒れた時点で既に二人と一緒ではなかった。ノイズのような障壁の向こうにその間の記憶が微か見えるが、自分の中の何かが思い出すことを拒否していた。
嫌なことがあったとは記憶していない。
ただ何かとても不安になったことは覚えていた。
「そうだ……確か秋が男の人を助けて……」
暗い路地から姿を現し、屈託ない笑顔を見せた男。
しかしその直後に気分が悪くなって、秋達と別れた。秋は送ると言ってくれたがそれを断ってふらふらと歩いている間に、いつの間にかどこにいるかも分からなくなっていた。
「それで……それから……?」
失った軌跡を追って呟き、櫂は誰かに問うたようなその言葉に少し笑った。
記憶はもうどうにも蘇らないようだが、ぼんやりしている間に気を失って倒れたとしか思えなかった。誰かに発見されて病院で手当てを受けられたこの現状は、幸運だったに違いなかった。
「また、迷惑かけちゃったな……」
呟く脳裏には兄の顔が浮かんだ。
緊急連絡先を見た病院から彼には連絡が行っているはずだ。兄を思い出せば、悔やむ思いと自分の頼りなさが過ぎる。毎度繰り返される自戒の闇が身体の奥深くに沈んでいった。
「私なんか……」
自虐しても何も始まらないと分かっているが、言葉が漏れる。
自分はこのように生きていて、果たして何かの役に立っているのだろうか。
誰かの怖れを引き出す生きものでしかなく、唯一の肉親に対してはただの重荷になっている。
そんな自分の未来など何も見えない、道筋も見えなかった。
「……お母さん……」
思わず呟いたが櫂自身、これまでの十三年間に母を呼んだことは一度もなかった。
三才で別れてしまった彼女の記憶がない。顔は写真で見たことがあるが、彼女に語りかけられたり、触れられた記憶が何もなかった。
「でももし、お母さんがいたら……」
雨宮美怜。
十三年前、三才の自分と十五才の兄を残して消えた彼女。
目を閉じて姿を思い浮かべても、雨で滲んだように輪郭が溶けていく。消えゆく姿を手探りで追いかけようとすると、それを遮るかのように急に胸が苦しくなった。
「は……うぁ……」
それは突然の痛みだった。
心臓を押し潰す疼痛は内部から漏れ、それは瞬く間に全身に広がった。
呻きを漏らしても身を襲う耐え難い痛みは、強さを増していくだけだ。
脚はシーツを掻き、腕は毛布をはね除け、歪む唇は何度も呻きを漏らす。
こんな体験はしたことがなかった。
死。
いつもは遠くにいる相手が、今はぴったり這い寄るように背後にいる。
こめかみや首筋を汗が伝っていく。
声の出ない喉はからからに渇いて、今にも裂けるようだ。
両手は胸元を掴み取るだけで、ナースコールに向かうこともしない。
目をきつく閉じると、闇の中である光景が浮かび上がった。
記憶にない母の白い手が首元に伸びてくる。
優しく感じられるもそれは呼吸を止める意思で力が込められ、弛められることもない。
その感触は生々しく、それがこの痛みによる幻覚ではなく実際に起きた事実であることを知らしめていた。
お母さん……その時に私、死んだらよかったのかな……?
心で呟けば痛みが引いていく。
三才のその記憶は自ら長年封印してきたものだった。
痛みから次第に解放されれば、虚脱が全身を覆う。
再び目を閉じれば避けられない深い眠りへと、櫂は引き摺り込まれていった。
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